墨痕
私はJ。大学の基礎医学研究室に籍を置き、生命という複雑なパズルを解き明かそうと、日々顕微鏡を覗き、遺伝情報を解析する生活を送っている。私の専門は、あくまで物質と論理に基づいた現象の追求だ。しかし、そんな日常の傍らで、私は時折、研究とは直接繋がりのない古い書物や記録の類に触れることを好む。それは一種の知的遊戯であり、また、現代とは異なる価値観や世界観に触れることで、凝り固まった思考を解きほぐす機会ともなる。
先日も、そんな気分転換を兼ねて、都心から少し離れた、古書店が軒を連ねる一角を訪れた。目当ての店で何冊か興味深い古書を手に取っていたところ、店の奥で黙々と古書の修繕作業をしていた老店主が、ふと顔を上げ、私に声をかけてきた。Oさんと名乗ったその老人は、長年、古文書や稀覯本の修復に携わってきたという、この道数十年の専門家だった。私が古いもの全般に興味があると知ると、彼は「少し、奇妙な話があるのですが」と、埃っぽい匂いのする帳場裏の小さな応接スペースへと私を招き入れた。
「もうずいぶん前の話になりますがね。」とO氏は、古びた茶器でお茶を淹れながら、静かに語り始めた。「ある旧家から、蔵の整理で出てきたという、江戸中期のものと思われる和綴じの冊子の修復を依頼されたことがあるんです。それは、代々医術を生業としていた家系に伝わる、ある蘭方医の手によるものと思われる、くすんだ緋色の紐で閉じられた和綴じの日記帳でした。」
その日記は、日々の診療記録や薬の処方、当時の医学に関する考察などが、流麗ながらもどこか神経質な筆致でびっしりと書き連ねられていたという。
「最初は、歴史的資料として興味深く、慎重に修復作業を進めていたのです。しかし、読み解いていくうちに、どうにも不可解な記述が目につくようになりました。通常の治療記録に混じって、原因不明の奇病に苦しむ患者の、常軌を逸した症状の描写や、その治療のために試みられた、およそ正統とは思えぬ秘術めいた処方……。そして何より、日記の後半になるにつれて、筆者である医師自身の身辺に、不吉な出来事が頻発している様子が、克明に記されていたのです。」
例えば、ある特定の患者を往診した夜には決まって悪夢にうなされ、原因不明の体調不良に見舞われること。実験室で調合していた薬液が、目を離した僅かな隙にどす黒く変質し、使い物にならなくなること。そして、深夜、一人書斎で筆を走らせていると、誰もいないはずの背後から紙をまさぐるような音や、重苦しいため息のようなものが聞こえてくる、といった記述が散見された。
「その日記を修復し、一文字一文字、虫眼鏡で追っていくうちに、私自身も、妙な体験をするようになりましてね。」O氏はそこで一度言葉を切り、窓の外の喧騒に耳を澄ませるかのような仕草をした。「夜、作業場で一人、その日記に向かっていると、どこからともなく、インクの匂いとは異なる、薬品のような、あるいはもっと生臭いような、形容しがたい微かな匂いが漂ってくることがあるのです。そして、時には、日記のページが、風もないのにひとりでにパラリと捲れたりと。」
特に奇妙だったのは、日記のある特定の記述箇所だったという。それは、ある難病の若い娘が、様々な治療の甲斐なく、壮絶な苦しみの末に亡くなる一部始終を、医師が詳細に綴った部分だった。
「そのページを修復していた夜のことです。作業を終えて床に就いたのですが、夜中に金縛りに遭いましてね。身動き一つ取れない中、耳元で、老婆のような、しわがれた声で『娘を返せ、娘を返せ』と、繰り返し囁かれたのです。もちろん、疲労による幻覚、幻聴だったのかもしれません。長年この仕事をしておりますと、集中しすぎて心身に変調をきたすことも稀にはありますから。しかし、あの生々しい感覚と、胸を締め付けるような悲痛な声は、今でも忘れられません。」
O氏は、その日記の墨痕そのものに、筆者の強い念や、あるいはそこに記された人々の苦しみや無念が、深く染みついているのではないかと感じたという。まるで、書き連ねられた文字の一つ一つが、何かの意思や感情を帯びて、読んだ者に作用してくるかのように。
「科学的に考えれば、古い和紙や墨に含まれるカビや化学物質が、保存状態によって何らかのガスを発生させ、それが人間の感覚に影響を与える、といった説明も可能かもしれません。あるいは、曰く付きの物を扱っているという自己暗示や、心理的なプレッシャーも無視できないでしょう。」と私は、研究者としての性で、ついそう口にした。
「ええ、もちろんそうです。」O氏は静かに頷いた。「私も当初はそう考えようとしました。ですが、あの時感じた、墨の跡からじわりと立ち上ってくるような、名状しがたい『気配』とでも申しましょうか……それは、どうにもそれだけでは割り切れない、もっと直接的で、重苦しいものでした。結局、その日記は厳重に修復を終え、依頼主のご当主にお返ししましたが、今でも時折、あの墨痕の奥に潜んでいた『何か』を思い出し、いまでも背筋を撫でるように、あの気配を思い出す瞬間があるのです。」
O氏の話は、私が日々向き合っている「記録」というものの意味を、改めて考えさせるものだった。我々研究者もまた、日々の実験結果や考察を、論文という形で記録し、後世に残していく。その文字や図表の一つ一つに、どれほどの「念」や「記憶」が込められているのだろうか。そして、それが時を超えて、読んだ者に何らかの影響を与えることがあるのだろうか。
古い書物に宿る、筆者の魂の残滓。それは、科学の言葉では記述できない、しかし確かに人の心を揺さぶる「何か」なのかもしれない。たとえば、E先生が語ったA家とB家の『奇縁』を繋いだかもしれない古い指輪や、K先生が語った「木腕」にまつわるM先生の狂気じみた執着 のように、物や場所に残された記憶が、時に人の運命にさえ影響を及ぼすことがあるのだとしたら。
古書店を後にした私は、手に入れた数冊の古書の重みと共に、O氏の語った「墨痕」の奥に潜む物語の気配を、確かに感じているのだった。そして、「科学は万能ではない」 という言葉が、また一つ、現実味を帯びて私の心に響くのを禁じ得なかった。我々の理解を超えた繋がりというものが、どうやらこの世には存在するらしい 、と。
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