余響
この記録を書き始めた当初、私はまだ駆け出しの研究者であった。
日々、実験台に向かい、マウスのケージを覗き、深夜のラボでモニターの青白い光に照らされていた。科学の灯火を頼りに、世界の仕組みに微かな穴を開ける人生を、自分はずっと続けるものだと、どこかで信じていた。
だが今、私は研究室を離れ、顕微鏡の代わりに庭の苔を眺め、マウスの鳴き声ではなく、鳥の声で目を覚ます暮らしをしている。
書き溜めた手記の中に綴られた「記録されざる事象」たちが、どうしても気がかりで、誰にも見せずにいたそれらを、こうしてまとめて世に残すことにした。
これらはいずれも、本質的には私が直接体験したものではない。
いくつかの場面で、ほんの一瞬、何かが私のすぐそばを掠めたとして、それを体験と呼ぶべきかは、今でも判然としない。
老医師の語り、古書店主の回想、技術員のささやき、忘れられた病棟の名、子供の寝言のような声——
すべては「誰かが話してくれた」ことの記録である。
それら事象に証拠はなく、証言も曖昧で、論文化もできず、学会にも出せない。だが、それでも私は信じている。
それらの話に共通していたのは、「残されたもの」の気配だった。
忘れられた標本。囁かれる言葉。壁に染み付いた音。記録された文字。
見えないはずのものが、なぜかそこに“残っている”という奇妙な確かさ。
それこそが、私がこの記録に沈黙の領域という名を与えた理由である。
科学は、確かに我々に多くを与えてくれた。
だが、説明できないものを「存在しない」と切り捨てる態度は、世界の半分を手放してしまうことにもなりかねない。
この記録だけは、沈黙の中に埋もれさせてはならない。
そう思ったのは、きっと、私がすでに立ち止まった者だからだろう。
今後、これらの話を信じるか信じないかは、読者の自由に任せたい。
ただ一つ、願うことが許されるなら。
これらが私と忘れられなかったものたちの小さな残響になればと祈る。
長く、読んでくださり、ありがとう。
完結までお付き合いいただきありがとうございました。
習作ではございますが、明日よりまた新しく連載いたしますので、引き続き宜しくお願いいたします。