表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

木腕

はじめまして。風邪を引いたので書いてみました。

なろうの怪談としては少し長い短編連作となりますが、是非読んでいただければ幸いです。

私はJ。大学の基礎医学研究室で博士号の取得を目指す若手研究者だ。日々の大半を実験室と論文の海で過ごしている私だが、時折、研究に必要な過去のデータや稀な症例の病理標本を求めて、大学の古びた資料棟に足を運ぶことがある。そこは、新しい研究棟の華やかさとは対照的に、埃と薬品の古い匂いが混じり合い、ひんやりとした空気が澱む、いわば大学の記憶が集積された場所だ。そして、その一室、施錠されたガラスケースの中に、それはあった。


挿絵(By みてみん)


木腕もくわん」と、私たちは密かに呼んでいた。正式な標本名は「詳細不明・ミイラ様乾燥人体左前腕部」といった無味乾燥なものだが、その見た目はまさしく、カサカサに乾ききった古木の枝のようだった。赤黒く変色した皮膚は、まるで古い樹皮のように硬化して骨に張り付き、指は苦悶に歪んだかのように不自然に折れ曲がっている。いつ、誰が、どのような経緯でこの状態に至ったのか、詳しい記録は残されていない。ただ、添えられた古びたカードには、「昭和初期、T県S郡〇〇村海岸にて、砂中より発見。推定死亡時期明治~大正。身元不明」とだけ、インクの掠れた文字で記されているのみだ。


法医学教室等の管轄かと思いきや、発見当時はそういった分類も曖昧だったのか、あるいは単に引き取り手がなかったのか、いつの間にかこの資料室の片隅に、他の多くの忘れられた標本と共に並べられることになったらしい。時折、物好きな学生が肝試しに噂を聞きつけて覗きに来る以外は、訪れる者もほとんどいない。標本室の棚の隅に置かれていた木椀は、保存処理が他と異なっており、分類基準からも外れていた。純粋に、研究資料として不適切な標本。それだけのはずだった。


その「木腕」にまつわる、ある種の曰く付きの話を私が知ったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。私の研究テーマの一つに、過去の感染症が人体組織に遺す微細な痕跡を特定するというものがあり、その比較対照として、年代の古い、保存状態の異なる様々な人組織標本を渉猟していた時期があった。その日も、私は資料室で古いプレパラートの棚を漁っていたのだが、ふと、あの「木腕」が収められたガラスケースに目が留まった。いつものように、それは薄暗い照明の下で静かに横たわっていたが、その日はなぜか、指先の角度が以前見た時と僅かに異なっているような、奇妙な錯覚を覚えたのだ。もちろん、気のせいだろう。そう思いながらも、一度気になるとどうにも頭から離れない。

翌日、私は大学の古株で、今は名誉教授として月に一度ほど顔を出すK先生に、「木腕」について何かご存知ないか尋ねてみた。K先生は、私の父よりも年嵩で、この大学の生き字引のような方だ。

「ああ、あの腕か。懐かしいな。私がまだ助手だった頃に運び込まれてきたんじゃよ。」


K先生は、遠い目をして語り始めた。

「発見されたのは、確か夏だったかな。S郡の〇〇村というのは、寂れた漁村でね。そこの子供たちが砂浜で遊んでいて、偶然見つけたんじゃそうだ。警察も最初は事件性を疑ったが、あまりに古く、乾燥しきっていて、結局、身元も何も分からずじまい。当時の警察署長と、うちの先代の病理の教授が知り合いでな。学術資料としてなら、ということで大学に寄贈されたというわけじゃ。」

そこまでは、私も凡そ知っていた話だ。しかし、K先生の口から次に語られたのは、私の知らない事実だった。

「実はな、J君。あの腕には、少しばかり後日談があってな。当時、うちの病理にM先生という、それは優秀だがあまりに研究に没頭しすぎる、少し変わった若い先生がいたんじゃ。」


M先生は、その「木腕」に異常なほどの執着を見せたのだという。彼は、その腕が単なる漂着死体の一部などではなく、何か特別な背景を持っていると信じて疑わなかった。夜も寝ずに文献を漁り、休日には発見現場の〇〇村まで足を運び、古老たちに聞き込みをして回った。

「M先生の話ではな、あの村には昔、腕の良い船大工がいたそうじゃ。しかし、その男は村の有力者の娘と恋仲になり、それが許されずに村八分にされた。そしてある嵐の夜、男は『いつか必ず、この腕で村を見返してやる』と言い残して姿を消した……そんな言い伝えがあると言うんじゃ。M先生は、あの『木腕』こそ、その船大工の腕ではないかと考えていたんじゃ。」

M先生は、腕のX線写真を撮り、骨の形状からその人物が重労働に従事していた可能性を示唆し、さらには乾燥した皮膚組織から微量成分を検出しようと、当時の限られた技術で懸命に分析を試みていたらしい。周囲は彼のその異様な熱意を、若さ故の功名心か、あるいは単なる奇癖と捉えていた。

「だがな、ある時期からM先生の様子が明らかにおかしくなっていった。研究室に閉じこもりきりになり、憔悴し、目つきも常軌を逸したものになっていった。時折、誰もいない資料室で『木腕』のケースに向かってぶつぶつと何かを語りかけている姿が目撃されたり、微かな物音にも異常に怯えるようになったりしたそうじゃ。」


K先生は、そこで一度深くため息をついた。

「そして、ある朝、M先生が来ない。連絡もつかん。心配した同僚が彼の住む下宿を訪ねると、部屋はもぬけの殻。ただ、机の上にはな、書きかけの退職願と、数枚の『木腕』のスケッチ、そして判読不能な文字で埋め尽くされた研究ノートが数冊、散乱していたそうじゃ。ノートには『南…祠…閉じられていない。砂がまだ呼ぶ。潮が逆だ、海が喉を開けている。村は、村は、記憶を埋めてしまった。だが、指は知っている。』などといった言葉が、繰り返し書き殴られていたと聞く。」

M先生は、その日を境に大学には一切姿を見せず、実家にも戻らなかったらしい。一部では、あまりの研究への没頭とプレッシャーから神経衰弱に陥ったのだと噂されたが、K先生は「あの『木腕』が、M先生の何かを壊してしまったのかもしれん。」と静かに語った。M先生が心血を注いだ研究データも、その多くがノートの錯乱した記述と共に失われ、あるいは持ち去られたのか、詳細は不明のままだった。


K先生の話を聞いて以来、私は「木腕」を見る目が変わってしまった。それはもはや単なる古い標本ではなく、M先生という一人の研究者の未来を奪った、何か不吉な力を秘めた存在のように思えてならなかった。それでも、私の研究テーマとの関連から、私は再び「木腕」の前に立たざるを得なかった。その乾燥しきった皮膚の質感、歪んだ指の先に、何か過去の秘密が隠されているような気がしてならなかったのだ。

その日も、私は閉館後の資料室に特別な許可を得て残り、「木腕」の観察を続けていた。静寂の中、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。ガラスケースに顔を近づけ、ルーペでその表面を丹念に調べていると、不意に、準備室の隅の方で、カサリ、と何かが擦れるような微かな音がした。気のせいか、と顔を上げたが、もちろん誰もいない。古い建物だ、物音の一つや二つは常にある。そう自分に言い聞かせ、再び観察に戻ろうとした、その時だった。

ガラスケースの中の「木腕」の、指先が。

ぴくり、と動いたような気がしたのだ。

私は息を呑んだ。目の錯覚だ、疲れているのだ、と必死に否定しようとした。しかし、一度そう思ってしまった視線は、もはや客観性を失っている。そのカサカサに乾いた指が、まるで何かを掴もうとするかのように、僅かに、本当に僅かにだが、痙攣しているように見える。そして、どこからともなく、乾いた木の葉が擦れ合うような、あるいは古い羊皮紙をめくるような、微かな音が耳の奥で響き始めた。

それは、M先生のノートにあったという「あれは生きている」という言葉と不気味に重なった。

私は、得体の知れない恐怖に襲われ、ルーペを取り落としそうになりながらも、その場から逃げるように資料室を飛び出した。廊下を走りながら、背後でガラスケースの蓋が軋む音がしたような気がしたが、振り返る勇気はなかった。


翌日、私は努めて平静を装い、資料室を訪れた。昨夜のことは、おそらく疲労と暗がりが生んだ幻覚だったのだろう。そう結論づけようとしていた。しかし、ガラスケースの中の「木腕」を見た瞬間、私は言葉を失った。


腕の位置は変わっていない。だが、その指先。昨日までとは明らかに違う角度で、まるで何かを強く握りしめるかのように、固くこわばっていたのだ。そして、その指の根元、乾いた皮膚の裂け目から、一粒、きらりと光るものが覗いていた。それは、砂……昨日まではそこになかったはずの、微細な砂の粒だった。


私は、それ以上「木腕」に関わることを放棄した。M先生が辿ったかもしれない狂気の入り口を、垣間見たような気がしたからだ。


あの「木腕」は、今も資料室の片隅で静かに眠っている。あるいは、眠っているように見せかけて、いつか再び動き出す機会を、カサカサに乾いたその身の内に秘めたまま、待ち続けているのかもしれない。そして、その指先からこぼれ落ちた一粒の砂が、一体どこから来たものなのか、私にはもう確かめる術もない。


ただ、時折、あの乾いた木の葉の擦れるような音を思い出すたび、言いようのない寒気が背筋を走るのを、私は未だに禁じ得ないのだ。

10話完結、毎日更新いたします。不慣れですが宜しくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ