第89話 日伝を知る者
気が付くと、阿曽の目の前には自分にそっくりな女性が立っていた。長く艶やかな黒髪をなびかせ、優しい面差しで微笑む。
「阿曽媛……」
「ふふ。よく頑張りましたね、阿曽」
一歩阿曽に近付き、阿曽媛は彼の頬に触れた。冷たくて気持ちのいい媛の手の感触に、阿曽はしばし身を任せた。
「どうして」
「あなたに、少しお伝えしたいことがあったので。……あなたが真の力に目覚めつつあるためか、夢という世界でなら、わたしはあなたと話せるようです」
「夢……やっぱりここは夢の中なんですね」
白い靄のようにはっきりとしない景色、現実感のない阿曽媛の気配。そしてふわふわとした心地になるのは、全て現ではないからなのだろう。
そう納得して、阿曽は首を傾げた。
「でも、俺に話とは?」
「……あなたが授かった、日伝という力についてわたしが知っていることをお話しておこうと思いまして」
真摯な目をして、阿曽媛はそう言った。驚きで目を見開く阿曽に、彼女は「座りませんか?」としゃがんで見せた。
壁も床もない世界で、二人は互いの背中を合わせて支え合う。熱を持たないはずの阿曽媛の温かさが背中を伝って感じられ、阿曽は思わずどきっとした。
「阿曽。あなたは日伝についてどれくらい知っていますか?」
「何も。というか、少彦那さんと戦っていた時に心に浮かんだのを咄嗟に言った感じです」
阿曽が正直に言うと、媛はふふっと微笑んだ。
「そうでしょうね。わたしも、今の今まで忘れていたのですから。おそらく、封じられていたのでしょうね」
「忘れていた?」
「ええ。……わたしの生まれ変わりがあなた。ですからあなたが生まれた時、わたしは既にここにいました。時折意識が浮上していましたし、実はあなたの父上と言葉を交わしたこともあるのですよ?」
「父、と?」
思わぬ告白に、阿曽の思考が急停止する。阿曽の父と言えば、天照と月読、そして須佐男の兄だという日子だ。彼との記憶はわずかに取り戻した程度だが、媛は言葉を交わしたのだという。
阿曽は思わず振り返り、媛に訴えた。
「お願いです、その時のことを詳しく!」
「ええ、勿論。思い出すことが出来ましたから、お話します」
媛は目を閉じて、懐かしむ声色で話し始めた。
「あなたの父上である日子様は、穏やかな気性で思慮深い方でした。多々良様を愛し、あなたを愛しんでおられました。……ある日、まだ年端もいかないあなたが眠っていた時のことです。わたしと偶然意識が入れ替わり、わたしは目を開きました」
瞼を上げて最初に目に飛び込んできたのは、あなたと同じ黒髪の美しい精悍な男でした。深緑の森のような瞳の色を持ち、その目を丸くしてこちらを見ておられました。
「きみは、息子ではないね?」
「……ええ、わたしは阿曽と申します。同じ名を持ちますが、別人ですわ」
「生まれて幾月も経っていない我が子がこんなに流暢に話し始めたら、流石の私も驚くね」
日子様は微笑み、阿曽の頭を撫でました。そしてわたしに正体を問うことなく、寂しげにこう言ったのです。
「私はいつか、この子を置いて行かなくてはならない。阿曽媛、きみはこの子と共にいてくれるかい?」
「ええ、勿論です。……ですが、何故この子を置いて?」
「……」
どうして、幼い我が子を置いて父親が去るのか。不思議に思ったわたしが問うと、日子様は申し訳なさそうに口を噤むだけでした。
それから日子様は話を変え、息子に継がせたい力があるのだと呟かれました。それは何なのかと尋ねると、少し顔を綻ばせました。
「日伝という技だ。この子がもしも日月剣を手にすることがあれば、そして時が来れば、剣に認められれば使えるようになるだろう」
「その剣は何処に……?」
「昔、中つ国に降りた者が持って行ったよ。いつかこの子が彼と出逢えば、定めが引き寄せてくれるだろう」
「さだ、め……」
不意に、わたしは眠気に襲われました。唐突に、あなたと入れ替わる時が来たのだと気付きました。それに気付いたのはわたしだけではなかったようで、日子様は少し驚いた顔をした後、ふっと優しく微笑んでおられました。
「阿曽媛、このことはしばらく忘れていて欲しい。……この子に必要になった時、教えてやってくれ」
「……」
それ以上、わたしが言葉を話すことは出来ませんでした。私の意識は湖の底に沈み、あなたが表に出たからです。ただ……
「ただ?」
阿曽がずいっと顔を近付けると、媛はにこやかに人差し指を自分の唇の前に立てた。
「ただ、日子様はあなたを心から案じておられます。そして、あなたの力となるようにと日伝を残されました。……きっと、何処かでまた会えます」
「……ありがとう、媛」
視界がにじみ、阿曽は慌てて目をこすろうとした。しかし、媛にその手を止められてしまう。
「媛?」
「今、あなたにはわたしだけではなく、彼らもいます。あなたは決して独りではありません。あなたの信じる道を、真っ直ぐに」
「はい」
阿曽に触れる媛の熱が消えていく。確かな輪郭が薄まり、溶けていく。
「……」
媛が消えるのと共に、夢世界が揺れた。ぼろぼろと崩れるように、雨が止むように。
阿曽は意識が浮上するのを感じながら、現へと手を伸ばした。




