第7話 冬の記憶
ふわり。
思いきり体を打ち付けると身構えていた阿曽は、痛みを感じることなく自分が立っていることに驚いていた。
「え……。ここ、何処ですか?」
「ここは、淤能碁呂島。高天原と中つ国の中間地点だ」
「何も見えませんけど」
「何もない場所だからな」
あっけらかんと、須佐男は言う。それでは何の答えにもなっていない、と温羅が阿曽に簡単な説明をしてくれる。
「淤能碁呂島は、大昔、下界に二人の神が降り立ったことで生まれた島だよ。降りた神は、天の浮橋から国を創るために『天の沼矛』を海に挿し入れ、国のもとを見つけ出した。それがこの島さ」
「二人の神は、ここを足掛かりとして中つ国を創り出した。しかし淤能碁呂島はその存在を知られず、ただ真っ白な空間として今では存在しているんだ」
会話に加わった大蛇の言う通り、島には何もない。木も川も、石さえも。ただ白い空間が広がるのみ。どれほど広いのか、狭いのかすらもわからない。
「二人の神って……」
「オレの親だ。伊邪那岐と伊邪那美という夫婦神。今じゃ父さんは行方知れずで、母さんは黄泉の国を統べる神だけどな」
さ、行こうぜ。須佐男は何か言いたげな阿曽を無視し、さっさと進んで行ってしまう。その後ろ姿を見送りながら、大蛇は苦笑いをした。
「ごめんな、阿曽。須佐男にとって、伊邪那岐さんの話題は禁句なんだ。幼い頃にいなくなってしまった父親を、ずっと待ち続ける母親の姿を見てきたからかもしれないけどね」
「いえ、大丈夫です」
阿曽は須佐男の様子を気にしながらも、首を横に振った。須佐男の境遇は、何処か自分に似ている。阿曽は両親を知らないのだから。
「須佐男を追おう。きっと、阿曽のよく知る場所に出るとは思うけど」
「え?」
問い返しても、温羅は「行けばわかるよ」と微笑むだけだ。
阿曽は温羅と大蛇の後ろについて、須佐男を追った。
淡い光に包まれ、気付けば阿曽がよく知る森に立っていた。しかも、己の家である小屋の前だ。
阿曽の小屋は、森の木を伐り、木材を組み合わせて作ったものだ。いつ作ったかは覚えていないが、自分も作るのを手伝った記憶はある。
「何で、ここに」
呆然と家を見上げる阿曽の隣に立ち、須佐男は「その方がいいだろ」と呟いた。
「昨日は半ば無理矢理オレたちの家に泊まらせちまったしな。安心出来るのはやっぱり自宅だと思うし。一度帰った方がいいかと……らしくねえな、オレ」
「あ、いえ。嬉しいです。あの後のこと、気になってたので」
ありがとうございます。そう言うと、須佐男は照れたように笑った。
阿曽は小屋の前に立った。何も変わりはなさそうだ。がたつく戸を開け、中に入った。彼の後から須佐男と温羅、大蛇も入って来る。
小屋の中にあるのは、寝るための筵と円座が数個、そして丸太をくり抜いて作った器が幾つかと、斧と釣り竿が一つずつ。それくらいのものだ。
阿曽は円座を須佐男たちに勧め、自分は水甕からきれいな水をすくい、器に入れて出した。
「何もなくて、すみません」
「本当に、無駄のない家だな。ありがたく頂戴するよ」
「うん。気を遣わせたね、阿曽」
「ありがとう」
謝る阿曽に三人は感謝を伝え、水でのどを潤した。
それからは、何となくの流れで阿曽の過去の話に移る。
「そういや、阿曽はずっと森で暮らしてるんだよな」
「はい。とはいえ、一年前からの記憶はないんです」
「一年前。じゃあ一番古い記憶は?」
温羅に尋ねられ、阿曽は記憶を手繰り寄せた。
「……あれは、冬です。真冬で、雪がくるぶしまで降り積もっていました。そこに、俺は倒れていました。気が付いたら、うつぶせで、雪の上で。場所は、この小屋のすぐ前です」
阿曽は窓の外に目を向けた。硝子なんて珍しいものは使えないから、小屋にいる時だけ開ける突き出し窓のような方法で、目線の高さにある板を外側に開けている。そこから覗き見えるのは、青々と茂った木々のみだ。そこにあの冬の姿はない。
「……体を起こしたら、全身傷だらけでした。何か、獣とかに襲われたんだろうと思います。そして、傍には血だまりがありました」
「そこに、誰かはいたのかい?」
温羅の問いに、阿曽は首を横に振った。
「いえ、何も。誰も。俺はよろけながら歩いて小屋に入って、筵を被って眠りました。……翌朝、小屋の外に出たら、雪は溶けて、血もなくなっていました」
それが、俺の一番古い記憶です。
阿曽は袖をまくり、右の二の腕をさらけ出す。そこには痛々しい傷跡があった。
「これだけが、ずっと消えずに残ってます」
「確かに、熊か何かに引っ掻かれたみたいな傷にも見えるね」
「……温羅。熊に引っ掻かれたら腕はないと思うが?」
「でなければ、他の獣か、あるいは刃物というところかな」
大蛇の推測が妥当なところだろう。そしておそらく、自分はその衝撃で記憶を失った。それが阿曽の分析だ。
袖を戻した阿曽は、ずずっと水を飲み干した。器を置いて、「だから」と口を開く。
「俺は、もしかしたら記憶が戻るかもしれないと思って、ここに住んでいました。でも戻ることはなくて、昨日は薪を取りに行った帰りに桃太郎っていう女の子に襲われましたし……」
その時集めた薪は、桃太郎と出会った拍子に驚いて置いて来てしまった。しばらくこの小屋を使うこともないだろうから、問題はないのだが。
今度襲われれば命はないかもしれない。そう思って身震いする阿曽の肩に手をかけ、温羅が「心配はない」と微笑む。
「わたしたちがいるからね。向こうもすぐには手を出してくることはないよ。こちらを警戒し、様子を見ながらっていうところだろうしね」
「そうそう。何なら、幾らでも返り討ちにするしな」
「須佐男は戦好きだから。でも、須佐男と温羅が言うことも最もだ。ぼくらと共に、強くなればいい」
「……はい」
阿曽は温羅の戦いを少しだけ見たことがある。それだけでも、三人が強いことが垣間見える。彼らと共にいれば、記憶を取り戻して尚且つ強くなれる。
改めて、阿曽は三人と共に行動することを決意した。
いつの間にか日が暮れ、四人は阿曽の小屋で一晩を過ごすことにした。須佐男が川で大きな魚を手掴みしてきたおかげで、食事が豪華になった。それを四等分して囲炉裏の火で焼く。あとは森で見つけた生で食べられる木の実と、素兔が持たせてくれた白い米のおにぎりがある。
食事中、大蛇と阿曽が須佐男の話で場を盛り上げた。幾つもの問題を引き起こし、その度に尻ぬぐいに奔走したのが彼ら二人と月読だという。阿曽は笑い転げて、須佐男に叱られた。
記憶にある限り、阿曽がこの小屋で誰かと共に食事をしたことはない。とてもくすぐったくて、楽しいものだと泣きそうになった。
それから全員で雑魚寝して、その日は更けていった。