08:本命は遅れてやってくる
「……あ……あ……あ」
吐瀉物のように血を吐いて、真っ青な顔で苦しむ猿飼部。それを見やりながら圧倒的な自責の念に犬養部は襲われていた。
「マオ! マオ! マオ!」
その犬養部マオを呼ぶ鳥取部ツバサ。鳥取部は意識が現実に接続されるまで少しの時間を必要とした。
「マオ! 頼光を連れて逃げてください! 今ならまだ助かる!」
助かる? 誰が? 頼光が? あんなに冗談のように血を吐いているのに?
自分だったら速攻で死ねる。少なくともその確信がある。
「足止めは私がしますよ。こういう力押しには相性がいい」
そう言って鳥取部はエギオンを呪いで染めて、ホロウボースを作り出す。
呪術の基礎だ。エゴを構成する粒子エギオンを、自らの呪詛によってホロウボースへと変質させる。このホロウボースが所謂呪詛と呼ばれる呪いであり単位である。つまり呪いとはホロウボースの整数倍で具現する存在なのだ。
「円転滑脱」
練った呪詛を、胎蔵領域に充てて、術を構築する。
「グ……!?」
そうして両手を地面に当てる鳥取部。同時に金鬼が滑った。まるでアイススケートの会場にでもなったかのように。
「クソ! 身体が動かなかったのが痛いですね! 頼光! 死んではいけませんよ!」
とっさに動けなかったのは鳥取部も同じだったらしい。だが今は呪術を展開して、金鬼の足止めをしている。そのことにどうしても犬養部は憧憬を覚えてしまう。何で拙の呪術は人を救えないのだろう。
「とりあえず頼光をどうにかしてください! ここは私が引き受けますので」
実際にその通りではあった。鳥取部の呪術は金鬼を足止めしている。
鳥取部ツバサの先天呪詛。円転滑脱。
それは触れた対象の摩擦をゼロにする呪術。さっき言った力押しとは相性がいいというのは大げさでも何でもない。殴打も斬撃も銃撃も、基本的に相手に伝わるには摩擦を必要とする。擦るという現象が無ければ、それらは実質的に意味を持たない。その意味で摩擦をゼロにする鳥取部の術式は、物理攻撃に限りあらゆる攻撃を無力化する。もちろん炎や雷、概念的呪いは無効化出来ないので、絶対的に無敵というわけではない。だが摩擦を用いて行使する呪術であるので、例えば今のように地面に手を付ければ、地面の摩擦をゼロに出来る。スケートを例に出せばわかるように、地面の摩擦が低いと人は転ぶ。重力に対抗する二本足はどうしても地面との摩擦を根源にしているからだ。つまり摩擦がゼロであればあらゆる存在は地面に立っていられない。それこそ空中に展開したら鳥だって飛べなくなるだろう。風との摩擦が無ければ、翼による飛行はあり得ない。
「グルァァアア!!!」
スケートの初心者のように摩擦ゼロの地面で立つことを苦にする金鬼は、その場で常に転がり続ける。その地面を滑るように移動する鳥取部は、一人だけ摩擦の呪いから解放されていた。
「マオ! 頼光をお願いします! こんな全力のホロウボース! そう何分も持ちません!」
呪詛の根幹がホロウボースの整数倍である以上、消費すればするほどホロウボースは目減りしていく。エゴを構築するエギオンにも絶対量があるので、それを着色するホロウボースにも限りがある。使いすぎれば胎蔵領域が崩壊する恐れもある。それは偏に言って人間の精神的な死でもあった。
「お願いします! マオ! 頼光を!」
全力で摩擦をゼロにしながら鳥取部は犬養部にお願いする。
だが。
なのに。
それでも。
犬養部マオは動かない。動けない。恐怖という感情が彼女を縛って、その場からの移動を考慮外にしている。決して猿飼部を助けたくないとか、そんな話ではない。もっと根本的に自らを襲っている恐怖に縛り付けられて、その場を動けないのだ。鬼霊化夷の現場では珍しい事ではない。鬼の恐怖に勝てずに死んでいった呪術師なんて吐き捨てるほどいる。鬼の咆哮で身が竦んで、結果殺された呪術師は現場の数だけ存在する。その意味で鳥取部が事態の介入に遅れたのも、その悪例の一つだろう。だがそれでも彼女は立ち向かった。それは猿飼部も同じである。ただ一人。犬養部だけがこの事態に立ち向かえていない。自分だけは助かるというアドバンテージに甘えて、犬養部は動けない。少なくとも本人はそのように解釈している。例え世界が滅んでも、自分の呪術だけは自分を生かしてくれる。であれば戦う必要はない。誰かの不幸なんて、別の誰かに任せればいいのだ。そう思っている自分が一番嫌いだと、犬養部マオは思っているはずなのに、この身体は動いてくれない。
「……ごめ……なさい」
猿飼部が死んで。鳥取部も死ぬだろう。だというのに生き汚い自分は無病息災で生きている。その有り余る自己愛に憎悪さえ覚える。犬養部マオは何をしているのだろう。そうは思っていても、今、この場で、彼女の身体は誰かを助けることさえしないのだ。
「でしたら、逃げてください」
呆れられた。そう犬養部は思った。鳥取部すらも自分に愛想が尽き果てた。そのように犬養部は理解した。仕方ないのだ。そう思われるだけのことを彼女はしたのだから。
「逃げて呪術師を呼んで来てください! 後は私が受け持ちます!」
それでも不退転の覚悟で鳥取部はそう言葉を叩きつけた。この差し迫った状況で、動けない犬養部を叱責するでもなく。ただ事態の解決のみに意識を向ける。その高尚な意識はどこから生まれるのか。
「逃げてくださいマオ。貴方だけでも死なないで下さい」
ニッと微笑む鳥取部。分かっている。彼女に悪意はない。その言葉には一パーセントも皮肉は混じっていない。ただ犬養部の息災だけを願って、そのために泥を被ると彼女は言っているのだ。
「……ッッッ」
その心遣いに、押しやられるほどの憎悪を覚える。何故今動けない自分を彼女は心配しているのか。責めるべきだろう。この役立たず、と。何をしているのか、と。
自らの絶対防御に胡坐をかいて、ただ一人この場で助かろうとして、その他全てを見捨てようとしている犬養部マオを、どうして詰らないのか。
「大丈夫ですよ。それでもご主人様は裏切りませんから」
忠誠応酬。自分の全てを投げ出して、相手からの寵愛を得る。その呪術契約を鳥取部は愛三と交わした。であれば彼女のピンチには愛三が現れてくれる。結局、愛三が全てを握っているのだ。
「逃げてくださいマオ。私はあなたを逃したい」
「……う……わ」
最後にそんなことを言われて、プッツンと犬養部の理性が千切れてしまった。
「わぁぁあああぁぁぁ!」
刃毀れした刀を握って、金鬼に向かって襲い掛かる。
自分が嫌いだった。誰もが呪いに怯える中で、一人安全圏にいる犬養部マオという存在が嫌いだった。例え誰が死のうとも、自分だけは助かってしまう『殺害殺し』が嫌いだった。そのせいで母親も亡くした。自分が死ねばよかったのだ。あの時。鬼に母親を殺された時。あの時に自分が死んでいれば、世界はもうちょっと生きやすかったのだろうと今なら思える。であれば戦うべきだ。誰のためとか。何のためとか。そんなことを一切思わず。ただ犬養部が守りたいものを……この手に。
「マオ! 待て! 君では!」
勝てない。
そんなことは知っている。それでも彼女が死んで、それによって自我を失えば、つまり世界とは平和になるのだ。自分がこの鬼に勝てないことなど理解している。だがそれより、何より、それを言い訳にして卑屈になっている自分が一番嫌いだ!
「あああああああッ!」
だから刀を振るう。金鬼を殺すためではない。己の弱さを切るために。
そのための犬養部の儀式であり、彼女が覚悟を固め、誓約を破棄する最悪のパターン。
けれど。
けれどもッッッ!
「――――そこまでだ」
だからこれは幻視のはずだ。今目の前の、犬養部が最も欲している男の子がいるなどと。