45: 倍六九《バロック》
「しゃはぁ!」
愛三目掛けて襲い掛かる吉備マルコ。その手に握られたロープライスロープ。斬撃を避けつつ、愛三は温羅の声に耳を傾ける。
「倍六九そのものの原理は簡単だ。九割九分九厘九毛九糸九忽以上の純度で練られた呪詛が、九割九分九厘九毛九糸九忽の伝達率で相手を呪った場合に起こる現象のことだからな。六つの九が二つ並ぶから倍六九と呼ばれている」
九割九分九厘九毛九糸九忽の純度のホロウボースを練り、それを九割九分九厘九毛九糸九忽の割合で伝達する。何となく無茶苦茶言われているのは理解する。例えるなら表面張力ギリギリまで水を注がれたコップを握って、それをこぼさないように運べと言われているかのような。いや、温羅の言っていることを吟味すれば、難易度はその比ではないだろう。
「成し得たら何が起きるんだ?」
「一刻の間、衆妙門からのエギオン供給が一時的に増大する。つまり一刻の間、呪術を使いたい放題になる」
「九割九分九厘九毛九糸九忽の純度と伝達率……ね」
「死ねぁ!」
温羅と会話している間にも吉備マルコは襲い来る。少し待てんのかとは思うが、待てないのだろう。彼にとって裏鬼門御三家の令嬢とはBSSであって、つまり愛三とは寝取り竿役おじさんなのだろう。
「ちょうどいい被検体もいるだろ?」
そんな温羅の言葉に少し嘆息する。たしかに被検体はいるが。吉備マルコ相手に倍六九を決めろとでも。
「九割九分九厘九毛九糸九忽の純度で呪詛を練るのだ」
と、言われても。普段は呪詛の純度など気にしたことが無い。より高い純度で呪詛を練る……となれば、それは意識しないとできないが、意識すればできるというものではない。エギオンをホロウボースに変換するだけでもそもそも純度は保たれていない。その自分の色に着色したホロウボースにとって純度とは一体何か。例えるなら九割九分九厘九毛九糸九忽の純度の赤色とはどういう赤を指すのか……という議論にもなりかねない。だが言ってしまえば、その呪詛変換において愛三がおざなりであったのも事実だ。
ホロウボースは人によって、その色彩が違う。それこそグラデーションのように何色になるかは人次第。それだって完璧に同一の色合いのホロウボースというのは神の奇跡でも信じなければあり得ないだろう。
「ちなみに倍六九を具現するのに最も簡単なのは拳打だぞ」
「呪術では無理って事か?」
「無理ではない。無理ではないが、術式を介して倍六九を行うのは希代の天才が一生に一度起こしうるか否か……と言われておる」
術式を介して倍六九を起こす。それは先の例えを再度用いるなら、マジックハンドでコップを掴み、こぼれないように持ち上げる作業にも似る。確かにそう言われると難易度としては跳ね上がるのだろう。
「…………」
いつもの調子で呪詛を練る。そもそも呪詛の正解は愛三の中にはあるが、それに全く正答した覚えが彼には無い。陰陽二兎に適応させる呪詛を練るというのは子供の頃からしていたが、それを術式に適合率を九割九分九厘九毛九糸九忽で行っていたかと言えば出来ていなかったのだろう。
「ふ……うぅ」
呼気を吐く。超絶的な集中力で、胎蔵領域ないのエギオンに声をかけ、そのエギオンをホロウボースに変換する。いつもの練り方ではない。自分の中にある一定のエギオンを全て自分に適応した純色のホロウボースへの変換。それを手に集めて相手を呪う。
「ふっ!」
吉備マルコの斬撃を躱して、カウンターで拳を埋める。
ズダンッッ、と音がして、床が跳ねた。俺の踏み出しの音が響いたのだ。だが倍六九は成立しなかった。それは何となくわかる。
「そもそも狙って発現できるものじゃないからの。ある一定の集中力は必要だが、そこまで押さえて、後は運否天賦だ」
温羅はそう言う。
「温羅は出来るのか?」
「正拳に限って、数十回に一回……と言ったところだな」
それは確かに難しい。倍六九を経験している温羅をして、条件を設定した上で数十回に一回。つまりそれだけ難しいのだろう。だからできるかどうかというのなら、ほぼ出来ないも同然なのだろうが。
「ふぅうぅぅぅ」
呼吸をする憎怨に入るのは慣れている。すでに何度も通った道だ。だがそれによって練られるホロウボースの純度となると意識したのはさっきからということになる。
「てめっ! 百八ぁ! 大人しく斬られろ!」
相手は懲りていないらしい。さっきから散々剣を躱しているはずだが、当てられる妄念をまだ持っているようだ。別にその無茶は嫌いじゃないが。吉備マルコの大上段からの振り抜き。
「くっ」
それを避ける愛三。さすがにロープライスロープで斬られるのは上手くない。死にはしないとしても、ロープライスロープの呪いはこっちの呪術防御を貫通する。つまり斬られればすごく痛い。
九割九分九厘九毛九糸九忽の純度の呪いを、九割九分九厘九毛九糸九忽の伝達率で相手に伝える。そもそも九割九分九厘九毛九糸九忽の純度の呪いとは。九割九分九厘九毛九糸九忽の伝達率とは。分からないことだらけだが、だから諦める理由にはならない。
倍六九。
その呪いの可能性があるのなら試してみたくなるのが人情だろう。とはいえ、本当に倍六九なるものが存在するのか。
「ふぅぅぅ」
自らの最高位。純度九割九分九厘九毛九糸九忽を求めてはダメだ。それでは九割九分九厘九毛九糸九忽には届かない。求めるのは完璧。百パーセントの純度。それによって人間の意識が一忽ズレる差を利用する。つまり倍六九を成立させるためには、百パーセントを目指す必要がある。
「愛三ぉぉぉ!」
刀を握って襲い来る吉備マルコ。だが既に剣閃は見切っている。であればギリギリまで相手への意識は排除。敵となるのは雑念。自分は最高の味方として存在を許される。温羅によれば温羅のレベルでの呪いが倍六九を成立させるのが正拳に限定して数十回に一回。であれば不可能と言うほどの確率ではない。
九割九分九厘九毛九糸九忽の純度の呪いの生成。
九割九分九厘九毛九糸九忽の相手への伝達率。
その双方によって得られる新たなる憎怨。
カリッと意識の中で何かが噛み合った。
「ッ!」
その感覚のままに、愛三は襲い来る吉備マルコに対処する。相手は既に剣を持っている。それを回避しつつ一撃入れる。九割九分九厘九毛九糸九忽の伝達率で吉備マルコを呪う。
「げ……え!」
「くっ」
振るわれる刀の間合いより更に内。クロスレンジで打たれた正拳が、だが倍六九を成立はされない。呼吸をこれ以上ないレベルで逆流させている吉備マルコには悪いが、検証は必要だ。
「ほら。立て。まだやるぞ」
ヒョイヒョイと指を曲げてかかってこいと愛三が訴えるが、吉備マルコの方は心が折れていた。
「ひ……ぃい……」
それでも性格が卑しいのだろう。愛三の刀を手放すことはしなかった。ロープライスロープを握ったまま、吉備マルコは去っていく。そういえば外って今どうなっているのか?




