41:鬼子の過去は
「ニコ。ニコ。貴方の名前はニコ」
笑顔で命を祝福されたニコは、けれどもその存在根幹として命に疑念を持っていた。何故この親は私を見てこんなにも嬉しいのだろう。
「お姉ちゃん……」
そのニコには双子の妹であるニナがいて。そのどちらもが人間として破綻していた。幼いながらに知っていた。どこか知識によらない確信があった。自分たちは異常だと。
「ニナ! ニコ! 何をしているの!」
「……え?」
悲鳴のように叫ぶ親が、こちらを見る目が気に食わない。何をしているも何も。雀を握りつぶして血をすすっているだけだ。まだ温かい血を飲むことに、なんの不明があるというのか。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん。美味しいね」
「うん。美味しい」
グチャリと握りつぶした雀の遺体から流れる血がとても甘美だ。ニコもニナも、その事に疑念を覚えない。
「よく聞いて。ニコ。ニナ。この世には不文律というものがあるの」
二人が異常であることを、親の側でも何となく察したらしい。昆虫を殺すくらいなら子供の無邪気で済んだが、場合が雀ともなると座視できないようだ。そこにどれだけの差があるのかを、ニコもニナも未だ知らず。
「この世の命はどれ一つとっても大切なモノなの。それを奪うことはこの世の誰でも許されることじゃないのよ」
鶏の唐揚げを食べた口で、そんな矛盾したことを言う親の説教が、ニコとニナには通じない。
「じゃあ何で鳥や豚は食うの?」
疑問だった。そもそも命を殺してはいけないのなら、人間社会を取り巻く全てが深刻なパラドクスを抱えている。あまりに純粋で、だからこそ反論が出来ないニコの疑問に、母親はビンタで答えた。
「屁理屈を言うんじゃありません!」
屁理屈を言っているつもりはニコには無い。純粋に疑問だ。そもそも命が死ぬという能力を持って生まれるのに、その限界性をどうして尊ぶのか。死ぬことが悪であれば、何故命は細胞に限界を求めたのか。
「殺しはいけないの! 命を弄んではいけないの! 分かるでしょ! ニコもニナも誰かに殺されたくないでしょ!?」
当たり前だ。二人とも誰かに殺されることは勘弁してほしい。であれば『殺されるより前に殺すべき』ではないのか?
「……ッッ」
実に明快な二人の結論に、親の口の端が引きつる。いたって単純で、これ以上ない真理。相手が殺すなら殺し返せばいい。殴られれば殴り返せばいい。そうして自分が絶対であれば、それより幸福なことなど他にあるのか。
「ば……化け物……」
自分が相手を殺すことと、相手が自分を殺そうとすることは、等価ではない。そんな子供でも分かる理屈が、実の親には理解されない。
「ねえ。お姉ちゃん。私たちは間違ってるのかな」
妹のニナが鬱屈するのも頷ける。自分たちが当然と思っていることが、そもそも人間社会の理屈には含まれていない。殺されるのは勘弁だが、殺すのは別にいいだろう。そんな誰でも思っていることを、けれど親も知人もアドバイザーも社会も、誰も彼もが肯定しない。ニコとニナが信仰している真理がことごとく社会には通用しない。
ニナが自己否定に陥るのも無理はない。この世界ではそもそもニコとニナの弁舌は本質的に無力であるのだから。
「命を殺すのは……ダメなことなの?」
ニナは一縷の希望を姉のニコに縋った。二人にとってそれはダメなことではないのだが、人は人を殺してはいけないらしい。
「ダメじゃないよ。私たちは間違っていない」
ニコにもわからないことはある。けれどその生まれついて存在するアイデンティティを否定することまでは、彼女にもできなかった。
「忌み子……」
二人が住んでいた場所は、都会と言うほど発展しておらず、田舎と言うほど寂れてもおらず。その住人の間で二人の悪評は波紋のように広がった。小鳥を殺した。野犬を殺した。友人のペットを殺した。殺した。殺した。殺した。何かの命を奪うごとに二人を見る周囲の目は悪意に塗れ、忌み子と囁かれるようになった。既に親の指導という問題でもなくなり、両親はともに精神的に病んで追い込まれていった。そうなると生活もままならず。そもそも二人には親が自分たちの何に悩んでいるのかさえも理解できていなくて。
「このクソどもが!」
母親がすすり泣く横で、アルコールに脳まで浸された父親が殴る。幸せいっぱいにニコとニナを祝福していた過去の両親は見るも無残に消えていた。周囲の悪評に心労を募らせ、生まれ落ちたニコとニナを殴るだけの毒親となった。そのドメスティックバイオレンスさえも、親の指導として肯定される始末。
震えるニコは次の朝が来ることさえ怖かった。朝になって、次の日が来れば、また父親は殴るだろう。母親は泣くだろう。ご近所が囁き、ニコとニナを蔑むだろう。何でこんなことになったのか。まるでニコとニナは産まれてきてはいけなかった……とでもいうのか。
グシャ。
だから終わりはあっさりと訪れた。
精神的に追い詰められた父親のせっかん。泣く母親。既に家庭として崩壊している二人の親と二人の子供。その親が死んだ。ニナがそれを為した。
「ふむ……」
癇癪をよりどころに暴力を振るう父親の胸を貫いて、その肋骨を粉砕。心臓を握りつぶして、どこか達観している。夫を殺されて狂乱する母親をも殺して、そうして全て終わった。
「え……?」
そこでニコはニナの暴威に自問した。
殺したのか? ニナが? 自らの親を? 二人とも?
「これで自由だよ。お姉ちゃん」
鮮やかとも言える笑顔で、ニナはお姉ちゃんに微笑んだ。まるで親を殺した自分を褒めてくれと言っているような。事実、その通りであろう甘えを。その現実を理解して、ニコは嘔吐した。内臓がひっくり返っている。殺していい命は存在する。だが子供が算数で習う一足す一の本質を知らないように、そもそもニコとニナにとっては親であるというだけで殺さないに足る存在ではない。そこまで分かって、だが一足す一を二だと納得するニコと、納得しないニナの常識が此処で相対した。親を殺してはいけないという最終ブレーキを持っているニコに対し、その躊躇さえニナには無かった。
「これで殴られなくて済むよ。褒めて。お姉ちゃん」
心臓を抉られて死んでいる父と母。その血を浴びて微笑んでいる妹。そこでようやくニコは理解する。自分たちは産まれたことそのものが罪だったのだと。ただ生きているだけで否定されるべき存在。心の底から失望されるべき存在。
「大丈夫だよお姉ちゃん。私たちは何も間違ってない。人は死ぬ。殺される。そこにトリガーを引いた殺人者の責任は存在しない」
つまり殺されて死んだ方が悪い。
「この世に転生した私たちが双子だったことは予想外だけど、何も問題はないの。お姉ちゃんを殴るものは私が殺す。全部殺す。お姉ちゃんを詰った者も、唾棄した者も、見捨てた者も、責めた者の、説いた者さえ殺す。あ、じゃあそうだね。この世界の全ての人間を殺そう。そうしたら、誰もお姉ちゃんを殴らないよ?」
既にこの家庭は崩壊している。それでも一抹の理性を持っていたニコより尚破綻して、ニナは優雅に笑んでいる。
鬼。神話に語れる人類の天敵。
温羅と呼ばれるその逸話は知らなくても。その脅威をニコは正しく受け止める。自分とニナはその転生体。ただ存在するだけ人の世の悪意となるもの。だが、二人が鬼だとして、ではどうすればよかったのか。生まれたことが罪悪であるなら、なぜ母親は抱いたのか。なぜ父親は微笑んだのか。
「お姉ちゃんを否定した全ての人間を殺してあげる。だからお姉ちゃんはそんな私に頑張ったねって頭を撫でてね!」
どこまでも純粋な笑みで、ニナ……鬼奈はそう言った。




