04:自分を呪う
鞍馬寺でのこと。犬養部は夜空に昇っている月を見上げていた。何を思うでもない、今ここで自分が死んでいないことを、誰より犬養部は嘲笑っている。
「…………」
語る言葉はそう無い。そもそも誰に対しての言い訳なのかも、犬養部には分かっていない。仮に誰かを論破できる弁舌を駆使できたとして、それで自分が納得できるのか。
「過去を見るなら膝立ちがいいぞ」
その自虐の海の際に立っている犬養部に、そんな声がかかる。
「…………?」
見れば、いつの間にか。近くに愛三が立っていた。百八愛三。シャナに愛され、鞍馬山で育った山の民。彼は犬養部の事情を何も知らないはず。であれば彼女には語るべき何物もない。ただ、膝立ちがいいというのは少し気になった。
鞍馬寺の接客用の部屋。そのバルコニーめいた場所で、夜の月を眺める犬養部。彼女の隣に座って、愛三は月を眺める。
「月ってのは地球から毎年四センチ離れているらしい。だから過去の月を見たいなら、立ち上がるのが正解だ。目視の高度が低くなるほど、それは地球から見た月に近くなる」
だから過去の月を見たいなら、立っている方が理想的……ということらしい。
「ま、気休めだがな」
そうして愛三は茶を犬養部に差し出す。彼女の事情は聴いている。それに何を思うでもない。けれど別にそのまま傷付いていろとも言えないわけで。
「残念だったな」
何があったのかは鳥取部から聞いている。犬養部マオ。彼女は少し前に母親を亡くしている。鬼に殺されたらしい。それも彼女の目の前で。呪術でどうにか出来なかったのか……と言われても無意味だろう。どうにか出来ているなら、犬養部はここまで憔悴していない。
「……お前に……何がわかる……」
唇でも噛み切りそうな呪詛を孕んだ声で、犬養部がそう毒づく。彼女にとってそれはトラウマだ。触れてほしくない心の傷。だが、別に安直に同情しているわけでは、愛三もないわけで。
「気持ちはわかるぞ。俺も親を鬼に殺されたから」
赤子の頃。我が家を蹂躙した鬼。その一切を愛三は覚えていた。自分に微笑みかけてくれた人間が暴力によって死ぬ光景。それを悪夢に毎度見る苦痛。夢見が悪くて嘔吐したことなど、数えるのも面倒な程度には覚えていた。
「……愛三も……親を?」
決して安易な同情ではない。それを知って、けれども犬養部は心を開かない。自分と同じトラウマを持ち、けれど愛三にはそのことを悼む気持ちが見て取れない。彼と自分は違う。自分が思っている自傷の感情を、この百八愛三は持っていない。
「まぁな」
その愛三は夜空に浮かぶ月を見て、別に犬養部を説得する気があるわけではないことをぶっちゃける。そもそも犬養部が何を思っても、彼にはどうでもいいのだ。
「師匠曰く。最も呪いやすいのは自分らしい」
「?」
「伝死レンジの問題になるのか? とにかく自分を呪うのが一番簡単なわけだ」
「……だから拙は……拙を呪う」
「きっついよな。あれは」
湯呑の茶を飲みながら愛三は苦笑した。
「ただお前が自裁して、誰がソレを喜ぶんだ?」
「……死んだお母さんが」
「ザマァ見ろってか」
「……拙の術式は役立たず。……とてもじゃないけど人を守れない」
基本的に鬼霊化夷に対処する術が呪術であるから、攻撃に使えないっていうのは何ともはや。
「どういう術式だ?」
「……聞くの……それを」
相手の術式を聞くのが失礼というのを、この時の愛三は知らなかった。
「……まぁいいけど……殺害殺しだよ」
「殺害殺し」
なんとなく傷名だけでは想像がつかない。
「……誓約系の呪詛。……こっちはあなたを攻撃しません。……だからあなたもこっちを攻撃することを禁止します……って奴」
つまり攻撃しないことを誓約に絶対防御を展開する呪術だ。殺害殺しとはよく言ったもの。ククッと愛三は笑った。
「世界平和を具現するための呪術だな」
「……そうかな?」
誰もが相手を攻撃しない誓約を結べば、たしかに世界は平和になるだろう。
「別に何とも思ってはいないんだが。親の気持ちを分かった気になるのも違うんじゃないか」
「……だって」
「お前が今自分を呪っているのも、そこに親の気持ちの欠落があるからだろ。母親に愛していると言われない限りお前の自裁は止められない。ただ……もう言ってもらえないんだろ?」
「……言ってもらえない」
「じゃあ責めることの理由にしない方がいいんじゃないか? もしかしたら最後までお前の母親は、お前を愛していたかもしれないじゃないか」
「……でも……拙は何もできなかった」
ポロポロと犬養部は涙を流す。圧倒的な涙の奔流に、せき止める瞼が存在しない。
なんとなく、その葛藤は察する。犬養部の殺害殺し。それがあればどんな鬼が襲ってきても問題にはならないだろう。だが彼女の呪術が安全を保障するのは自分だけ。その目の前で鬼に殺された母親は、その術式対象ではない。結果鬼を攻撃することも出来ず。母親を守ることさえできず。彼女の目の前で母親は死んだはずだ。
「ッ」
少し頭痛がして、愛三は額を抑えた。克服したと思っていたが、中々そういうわけでもないらしい。
「……?」
「いや。俺もさ。両親が殺された時のことはよく思い出す。で、考えるのよ。俺にあの時何が出来ただろうかって」
赤子に何もできるはずもなく。ただ今、成長した愛三であればもしかしたら何か出来るかも。出来ないかもしれないが、それをここで考えるには値しない。
「なわけでな。またああいうことがあったら、次こそは取りこぼさないように……って思ってる。別にお前に真似をしろと言っているわけじゃない。ただ悲しいことは人に話した方がいいんでない? っていうだけだ」
湯呑の茶を飲んで、コトンとテラスに置く。
「俺は寝る。何か言いたいことがあるなら、俺で良ければ聞くからな」
そう言って立ち上がり、寝室に戻ろうとする愛三。
「……ッ」
その腰に犬養部が抱き着いた。
「……せ……拙は……役立たずです……誰も救えない……自分だけが大事な……自分本位な人間です……」
「じゃあお前は何で泣いてるんだ?」
「……なんで……ですか」
聞いてるのは俺なんだが。とか思いつつ、けれども苦笑するより他になく。
「優しいな。お前は。自分から誰も攻撃しないって、そう誓約を立てているんだろ?」
「……そのせいで……誰も救えない」
「じゃあその時は俺を呼べ。力の及ぶ限り、お前の救いたいものを救ってやる」
「……できますか?」
「さてな。保証できるほど、今の俺も強くないわけで」
だから愛三は強くなる道を選んだのだが。