39:鬼の王
デコピン。温羅がとった仕草はソレだった。
東京の都会の中。逃げ惑う人々とそれを襲う鬼。その鬼を狩っていく鬼子。騒々しい風景の中で、温羅と対峙している愛三は、腰溜めに剣の柄を握っている。いつでも踏み込める。その結界の想定の中で、だが相手の結界が読めない。見てくれは乙女相応のフィジカルで、それが呪いによって強化されている。仕草そのものが無意味に過ぎて、温羅の結界が読み取れない。視覚として視認している情報では無力な乙女だが、そこから発生する速度は愛三の認知を超えていた。
パシュ。
気の抜けた音がして、愛三の耳元が震える。親指で中指の先を押さえ、溜めた威力で弾く。まさにデコピンの原理。それによって打たれた空気が、指弾となって愛三を襲う。およそ戦慄として最上級だ。デコピンで空気を弾いて弾丸とするなど、愛三のフィジカルをもってしても不可能だ。なるほどこっちの結界を退けるわけだ。温羅にとっては単純なステータスで、見下せる程度には彼我の威力が段違いと言える。
「であれば」
愛三の側がチャレンジャー。挑む側と言える。弟子が師匠に教えを乞うように。温羅に胸を借りて挑む。腰に差しているのは鬼切りの刀ロープライスロープ。手にするは京八流の使い手。その抜刀速度は雲耀にも似て。
「ひゅ」
パンッッ。
空気の破裂する音がした。ほぼ神速と呼んで差し支えない速度の踏み出し。不条理の倍の倍で温羅へと間合いを詰めた愛三の、その鞘に収まった剣が抜刀される。
京八流の三抜手の一つ。溜抜。
それは千年前に成立した抜刀術。最古の居合。放たれる一撃は霹靂にも似て。だが腰から放たれる一撃は……打った剣閃が水平に空気を切って。そう思った瞬間、愛三の視界には上下逆さまになった温羅がいた。ムーンサルトにも似た軌道で跳び上がった温羅が、それによって居合を躱し、そのまま愛三を蹴り穿つ。ヒュンと背筋を寒からしめる暴虐の蹴りを身を低くして避けて、だがソレで終わりではなかった。温羅は跳び上がったその大気を蹴って姿勢を制御している。最速で居合を振るった愛三は残身もままならない……わけもなかった。
「ッッッ?」
違和感。それを覚えた温羅は聡明だろう。居合は抜き放った瞬間に死に体となる。一撃必殺は成立しなければ、つまり一手で必死となる。抜刀を躱されて、それでも温羅の飛び蹴りを回避するだけのリソースがあるだけでも愛三の非凡さは証明されているが、そこから展開する剣術には見るべきものがない。……と温羅は思っていたが。
「なん……」
なんだ。と言葉にするより先に、納刀されている愛三の刀が、摩擦の原理で以て抜刀される。鞘走りの音がするが、その音より早くロープライスロープが抜き放たれる。雲耀にも匹敵する速度の抜刀は、だが温羅の天翔によって瓦解する。トトンと宙を蹴って間合いを取る温羅。その温羅の残像を居合で切った愛三は、手にした剣を納刀して、また構える。
「神速の抜刀術……」
愛三が振るった居合のことだ。その一撃を二撃とした不条理は、つまり。
「神速の納刀術……」
そういうことになる。抜刀術と同じ。あるいはそれより早く、抜き放った刀を納刀する。つまり抜刀術における死に体を蘇生させる御業。
「京八流の裏の抜手が一。再抜だ」
抜刀術と対照的な納刀術。戦闘という極限状態において、居合を連続させるために必要とされる場の仕切り直し。再抜。つまり愛三の居合に死に体はない。
ゾクリと温羅も戦慄した。愛三の持つ刀は間違いなく呪物。少なくとも温羅の首くらいは断つだろう。鬼の首を切る名刀は数ある。その内に一振りであってもおかしくはない。であれば油断は即死に繋がると見ていい。
「貴様の名を聞こう」
「百八。百八愛三」
「ももや……と来たか。吉備津彦の転生体か?」
「いや。そういう前世のしがらみは俺には無いな」
「裏鬼門御三家の令嬢が付き従っているのは?」
「単なる偶然」
もちろん今の発言を聞けばマオたちは否定するだろうが。
「ちなみにだが。殺してもいいのか?」
それは覚悟を問う言葉。鬼王温羅に相手取って、無事息災で済まそうとする、その甘さがあれば批難する言葉だったが。
「どうせ死なないし」
それが愛三の結論だった。だが温羅にとっては聞き逃せない言葉でもあって。
「……永久呪詛」
「然りだな」
呪いは時に永遠を約束する。不死と呼ばれる異能をこの世に顕現することもあり、愛三はその一人であった。
「不死……ね」
「位階的にはそうでもないがな」
五段階あるイモータルの下から二番目。どうあっても死ぬことは無い呪い。だがそれでも、呪いとしては温羅より上だ。温羅の不死性は最下位である不滅なのだから。つまり時間を無視して究極的な極論で言えば、イモータルである愛三と温羅の戦いには意味が無いとさえ言える。
「よいよい。では死なぬ身を死なせるのも鬼の務めよ」
トントンと地面をつま先で蹴る温羅。愛三は身体を練って、刀に柄を握る。京八流の抜刀術、溜抜。それに活路を見出すしかない。
「あれ? 声が。遅れて。聞こえる」
そのジョークのような声が聞こえた瞬間。ゾワッと寒気を覚えた愛三が前方に踏み出し、その残像を温羅が蹴った。暴風が吹き荒れるように悲鳴を上げ、反転した愛三が居合の間合いで温羅を捉え。そして放たれる一撃を、だが温羅も躱してみせる。残像を切った。そう認識した愛三の刀が華麗な動きで巻き戻る。神速の納刀術。再抜。視界に温羅は捉えている。だが、捉えていてもなお見失うほどに温羅の動きが早い。一瞬で納刀しても、その結界を破綻させるが如き超神速の動きで温羅は愛三を翻弄する。
「ひゅう!」
次なる抜刀を放とうとした愛三。その頭上をとった温羅の蹴りが愛三を叩きのめす。反転系統の呪術を展開して、だがそれより大きい出力の蹴りが、愛三の呪術を破綻させる。蹴られた頭部が眩暈を起こし、それも時間回帰で何とか持ち直し、ついでに叩きつけられた真下への衝撃を、反転系統によって無効化する。そのまま結界で温羅を捉え、神速の居合を放つが。
「ふ……」
鮮やかに躱される。ほぼ斬撃の距離で居合を躱されるのは師匠であるシャナ以外では他にいない。鬼一法眼に至ってはそのレベルですらなかったのだが。蹴られた頭部がグワングワンと意識軽薄に眩暈を起こす。それでも意識を保って、次なる居合に繋げようとして。
「金剛破砕」
それよりも早く温羅の一撃が愛三を襲った。
何を、と思うより早かった。もはや金剛とも呼べる一撃が愛三を襲い、そして吹っ飛ばす。まるで冗談のように吹っ飛んだ愛三は東京の都会で高層ビルの高層階……その側面に叩きつけられた。どれだけの威力で吹っ飛ばされたのか。例えるならホームランを打たれた野球ボールのごとく、遠く高く軽く叩きのめされていた。
「ぐ……は……」
これが鬼王のフィジカル。人体など木っ端に破壊する肉体ステータス。高層ビルの窓ガラスが割れ、その高層階にいたサラリーマンが混乱に陥る。いきなり高高度の高さのビルに人が一人叩きのめされたら、それは驚く。
「強えぇ。シャレになってねえ」
真っ先に思ったのはその本音。まるで地面でも歩くように、温羅は空中を散歩するように歩いて、その高度にある愛三を眺めた。そして気に入ったのか愛三を確保する。
「確かに不死らしいな。余の金剛破砕を受けて原形をとどめているだけでも賞賛に値する」




