33:乙女の涙
「ごめん……なさい……ごめんなさい……」
風鬼を祓ってからこっち。猿飼部頼光は襲い来る自己否定感に涙を流していた。
「えーと」
その彼女を襲っている罪悪感に何と申すべきか悩んでいる愛三だが。特に何をしたわけでもない。ちょっと追い詰められて、梵我反転を使っただけ。だが、それが頼光には我慢ならないらしい。梵我反転を使うと、フィールフィールドに死をも覚悟する痛覚を誘発する。その状況に追い込んだ自分の虚しさに頼光は泣いているのだ。
「大丈夫だぞ? ケガもしていないし」
「そういう問題ではありませぇぇぇんぅぅぅぅ……」
その原因に頼光が成った。ただそれだけのことが彼女には重く響く。
「マオ!」
一晩中泣いた後、頼光はマオに声をかけた。
それはともあれ。
「で、引きこもっていると?」
六波羅機関の教養講義に出ている愛三は、同じ席に座っている鬼子に、今時点での状況を伝えていた。彼女が温羅との戦いでキーマンになり得る以上、愛三の側でも居場所を把握するのは結論的に自然。そもそも温羅の転生者という鬼子が何故こうまで理性的に今時点で存在しているのか。そこから彼には分からない。普通の意識を乗っ取られれば、鬼として振る舞うことさえ自然なのだが。
「まぁそういうわけでちょっと寂しい俺だ」
ちなみに先に言った「同じ席に座っている」比喩でも冗談でもなくそのままの意味だ。愛三は鬼子の膝に座っていた。その彼を抱きしめて、匂いを移してマーキングしている鬼子はそれだけで幸せそう。ついでに胸を揉んだりして。爆乳である愛三の胸は、一般的にはサイズの合う下着が無く、それも含めて鬼子がオーダーメイドの下着を注文していた。金を出したのはツバサだが。
「えーと?」
で、講義終わり。マオも頼光もいない中で、つまり構ってもらえなくて寂しい思いをしていた愛三は、学長に呼ばれる。その彼に付随するように鬼子も一緒に。鬼子とは入試からの付き合いだが、どうにも女子に反転してから距離が近い。鬼が美女を好きだという理論は彼にもわかるのだが、だからおっぱいを揉もうという結論にはハテナだ。鬼は女子を妊娠させるのが目的だが、鬼子は彼のおっぱいだけに執着している。まぁ鬼がどうのというより、彼女の性癖なのだろうが。
「臨時収入?」
で、学長に呼ばれ、愛三が鬼子とともに出頭すると、そんな話が待っていた。
「お金をくれるということですか?」
「その通りだよ」
何も生産的なことをした覚えもないのだが。
「どうにも藤原千方が暗躍しているらしい。かの朝敵は放置すると危険だ。つまりその悪意から日本帝国を君は救ったわけだ」
「風鬼を倒しただけだが」
それだってついでのようなもので。多分だが、風鬼の目的は裏鬼門御三家。猿飼部頼光を殺すことだったのだろうとは思っていて。
「で、だ。君は風鬼を祓ったわけで」
それ自体は否定も出来ない事実。
「その事実を六波羅機関に売ってくれないか?」
「?」
何を言っているのか。
「つまり風鬼を祓ったという事実……その栄光を六波羅機関の手柄にさせて欲しいわけだ」
「まぁ別に構いはしないが」
愛三。ならびに裏鬼門御三家は公認呪術師ではない。誓約呪詛による強化というメリットと、それに際して求められる制限のデメリットを勘案した結果、無理だと結論している。
一般的に公認呪術師であればカーステラーを祓うと金がもらえるが、非公認であればそれも難しい。だが風鬼を祓ったという事実そのものが、愛三を至高の座に押し上げている。その栄光を六波羅機関が手に入れたいと思うのも事実で。つまりここで金銭が発生する。千年以上前の伝説の時代のカーステラー。それを祓ったという事実を六波羅機関に売り払うことで金を得る。そういうビジネススタイルが日本では確立されていた。
「ちなみにお望みの金額は御有りかな?」
「え? こっちで好きに決めていいのか?」
「もちろん国民への説明もあるので法外な金銭は払わないが、要求は聞くよ。ちなみに相場を教えようか?」
「できればその相場で支払ってくれると嬉しいんだが」
「ではそうしよう。銀行の口座を教えてくれ」
「ぎんこーのこーざ?」
「…………」
学長は説明を求めて鬼子に視線を振る。だが問われても鬼子も困る。そもそも愛三が社会に適応していないのは彼女の責任でもない。とはいえここでキャッシュを支払うわけにもいかず。振込先の口座を作る羽目に陥っていた。
「金を管理する機関……か」
特に急ぎで金が必要というわけでもないの、愛三は庵宿区の銀行にのんびり口座を作りに行っていた。同行しているのは鬼子。マオと頼光はどうにも忙しそうで、ツバサは教職がある。愛三についていなくていいのかという話はあるが、そこは信頼されていた。荷物持ち程度には使えるが護衛そのものは必要ないという結論で。
「マイナカードでプロフィールを……」
戸籍については事前に登録しており、カードも持っている。顔認証も済んで、速やかに口座を……、
「全員手を挙げて黙れ!」
作ろうとした段階で、銀行強盗が襲ってきた。どういう確率かは愛三にもよくわからない。その彼に銃を突きつけて、脅すように強盗は言う。
「シャッター下ろすなよ? 警察も呼ぶな。コイツを死なせていいなら話は違うが」
「…………」
チラリと愛三が鬼子に視線を振る。さっきの学長と同じリアクション。説明してくれというものだが、やはり鬼子は何も言わなかった。あたりでは悲鳴を上げかける利用者に溢れ、だが愛三の命がかかってまで騒ぐ人間は然程いない。だが銀行側にも異論反論はあり。
「…………」
静かに警察への通報は済んでいた。人質がいなければサイレンの音を鳴らして盛大に警戒させるのだが、こういう事態に備えて静かに対処する手段も持っており。
「このカバンに金をあるだけ詰めろ!」
この呪詛大国日本で、どうやって銃を手に入れたのかも聞かざるを得ず。
「ところで俺は何で人質になってんだ?」
「あぁ? 黙って怯えてろ!」
金さえ貰えば、逃げる手段があるのかないのか。
「多分呪術で追跡されるぞ」
それを言っていいのかはともあれ。そこでピクリと震えた銀行強盗の呼吸を読み取り、次の瞬間愛三が掴んだ強盗の衣服がまわしとなった。それこそ鮮やかに投げ飛ばす愛三。柔道であれば決着だったが、生憎と今はルールが存在せず。
「テメッ!」
投げられてもトリガーを引かなかったのは良心ゆえか小心ゆえか。その疑問に答えるはずもなく。今度こそためらいなく強盗はトリガーを引いた。自分に逆らった相手を銃殺する。その一心でトリガーを引き、だが達成は困難だった。撃たれた銃弾の悉くが愛三に触れた瞬間停止して、ハラハラとその場で自然落下する。
「っ!?」
その呪術の不条理さに驚いたのは、まず鬼子だった。彼女は愛三の術式を知っている。だがそれは反転系統を応用した不動縛呪のまがい物。銃弾を受け止めるには伝死レンジの問題が自然と存在する。接触距離であることは納得しても、事前に術式を展開していたのか……それともその場で対応したのか。場合によって愛三の呪詛技術は途方もないものになる。可能か不可能かなら可能だが、あえて言うなら机上の空論に相違なく。
「ところで学長に教える口座番号って……」
その発想すらない愛三にとっては、キャッシュカードの番号の方がまだしも興味を引けるらしい。