32:藤原の懸念
「風鬼が敗れただと?」
何をバカな……とでも言いたげに、藤原千方は驚いた。正確には彼のフィールフィールドを継承している転生者が……だ。時間収束の呪いによって千年を超える威力を経て、なお千方の呪詛によって式神として縛られた風鬼。その鬼としての威力ははっきり言って異常だ。八年前、金鬼を失ってから、式神の強化は千方にとってお題目だった。それこそ呪術師では勝てないレベルの呪いを式神に注いできたはずだ。その風鬼が祓われたという。どんな伝説の殺鬼人がそれを為したのか。興味というか、いっそ戦慄で千方は聞く。
「一人は猿飼部頼光です」
「猿飼部の令嬢だな。そもそも彼女を殺すために風鬼を差し向けたはず」
「もう一人は、彼女からご主人様と呼ばれておりました」
猿飼部の主人。もちろん吉備マルコではない。彼は既にこちら側に堕ちている。では……と考えて、そもそもの吉備マルコの憤怒について思い出す。彼は自分のものにならなかった裏鬼門御三家の令嬢に怒っていた。つまり令嬢たちが真に忠誠を誓うご主人様がいるわけで。それがつまり件の。
「その者の情報を集めよ。ただし祓われるな。それだけは明言しておく」
「承知」
そして気配でも消え失せた様に隠形鬼は虚空へと消える。
「どうかしたか?」
式神に下がるように言った千方。その彼に話しかける誰か。可憐な乙女声だが、かかるプレッシャーは一介の女子のものではない。さっきの報告より、さらに身を引き締めて千方は声の主に頭を下げる。
「失礼をば。わたくしめの式神が敗れたそうです」
「水鬼はここにいる。隠形鬼を使い潰すとは思えん。であれば風鬼か」
「お察しの通り。猿飼部を誅すように言って、返り討ちに」
「ほう」
こっちの戦力が裂かれた。そうと知って、だが乙女は愉悦に笑む。その彼女から血の匂いが漂ってくる。可憐な少女だった。白髪の大和撫子で、鋭利な瞳と、愛くるしい尊貌を並列させている。男に限定して聞けば十人のうち十人が可愛いと評価するだろう。その乙女の足元には死体が転がっていた。乳房のついた女体。だが、顔は乙女が持っている。首を引きちぎって、綺麗な女子の頭部を愛でているのだ。残された肉体の方は用済みとばかりに。鬼は愛らしい女性を好む。それは千方が頭を下げている乙女も同じらしい。
「温羅様。女性は足りておりますか?」
「今のところはな。見よ。こやつの絶望する顔。首を引き千切られて悲鳴を上げかける断末魔。やはり人とはこうでないと」
「お飽きになりましたら、またいずこからとも調達いたします」
「ああ、千方。貴様の選ぶ乙女はどれも可愛い。この女子に飽いても、退屈はしないだろうな」
ちぎられた女性の頭部を、まるでボールを愛する球技選手のようにかき抱く乙女……温羅。彼女の腕の中で、既に物言わぬ生首と化している女性は何も言わない。
「しかし余に敵わんとはいえ、風鬼も千年を超える時間収束を得た鬼。伝説に語られる存在だろう。誰が殺しうる?」
「猿飼部……それから猿飼部を従える人物がいるそうですが」
「吉備マルコ……ではないのだな?」
「あれは既に取り込んでおります。今は帝国海軍の愚連隊を従えている最中でして」
「とすると吉備の血筋とは別に、猿飼部が忠誠を誓う存在……か」
「時間をください。調べてみせます」
「隠形鬼の手管には信頼をしている。特に責めているわけではないぞ」
「お優しい……鬼王様」
「しかし、そもそも論理として鬼は人に負けておる。二千年前でさえ、余は吉備の血筋に負けた。酒呑童子、大嶽丸、両面宿儺、余より後に発生した鬼王を冠するカーステラーさえも討伐されたのだろう。この世で最も呪われているのは、あるいは人かもしれんな」
「鬼の世を太平とすべく、わたくしめも動いてはおるのですが」
「鬼王には及ばずとも、藤原千方の四鬼も十分威力的だ。その金鬼と風鬼が敗れ去る。いつの時代も英雄というのは厄介よの」
「温羅様に置かれましては……どのようにすべきかと思われているでしょうか?」
「吉備の血筋がアレだ。使い捨てるにしても、もうちょっと余を興じられればいいのだが。それを求めるのも酷な話か」
誓約呪詛によって温羅の手駒となった吉備マルコに期待することはそんなにない。
「余にとって最も警戒すべきは犬養部の娘。だがアレは追い詰めてもカウンターカースを使わない。余と金鬼。二度襲ったが、いずれも息災だ」
「吉備の愚人があの有様で、裏鬼門御三家の人材が温羅様の脅威となり得ますか?」
「語られる伝説が古いほど、呪いはより強力になる。吉備の血はトンビを生んだろうが、裏鬼門御三家の血筋がそれに倣う義理もあるまい」
「犬と猿と鳥が、あなた様の首元に届きうる刃となりますか」
「不可能ではないだろうな」
それが温羅の結論だった。その彼女の腕の中で、乙女の頭部が転がされる。
「そう言えば、そろそろ犬養部が墓参りをする頃だな。少し揶揄ってやるとしよう」
「温羅様へ申告するのも恐ろしいのですが、大丈夫でしょうか?」
「さての。未だ鬼の太平は来ず。いまだに日本帝国は人のもの。今までカーステラーなる鬼霊化夷が幾度も挑み、そのたびに人は返り討ちにしてきた。その絶対性が那辺にあるのか。それを知るのも鬼の世を得るために必要な情報であろうよ」
「温羅様をして、人とは難解なるや」
「故に余は人を過小評価するつもりはない。日本帝国に限っても、呪いによる治世が働いていない。結局、サイレントマジョリティなる存在の強さは、鬼の及ぶところでもないのかもな」
「温羅様を超える戦力など存在しません」
「余が強いことは台風や雷光と同じだ。ただ自然としてそこにあるだけ。だがそれを耐え抜くいじましさが人にはあるということだ」
「やはり全面攻性には踏み切りませんか」
「鬼ヶ城の戦力は整っておらぬ。戦力の逐次投入は下策というが、とはいえ全面攻性に踏み切っても勝てぬだろうな」
「わたくしめには、勝てる勝負だと思っているのですが」
「よい。余が警戒しすぎているのは自認しておる」
「温羅様が勝てぬとなれば、わたくしめでもどうしようもなく」
「なので、千方に頼んでおるのだ。裏鬼門御三家を排せよ……とな」
「この命に代えましても」
その覚悟が温羅には好ましい。
「余を誅しえた裏鬼門御三家。これさえ排せれば、余はレコンキスタに踏み切れる。この世を鬼の時代に変革しうる」
「であれば、より一層わたくしめの活躍が求められますね」
「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべし……か。良き歌だ」
「これはしたり。わたくしめの本音にございます」
「鬼が人を従える時代。それを求めるのが間違いだと……誰が決めたのやら」
「温羅様の膝元に全ての人間を傅かせましょう」
「期待しておるぞ」
「我が全力を以て」
千方にとって温羅とは希望だ。この腐った世の中に楔を打つための英雄。であれば鬼において最強である温羅に忠誠を誓うのは当然で。この世の鬼の中で最も高名な鬼。桃太郎という語るのも腐るべき英雄譚において、伝説となった鬼だ。
「温羅様のために、わたくしは存在しますれば」
残るは隠形鬼と水鬼。その双方を使って、判じなければならない。風鬼を祓ったのが誰であって何であるか。かの鬼を祓うに足る呪術師の威力を。鬼が太平を得るために必要な、敵の情報。それによって排除すべき戦力を把握するのが温羅が千方に望んでいることただ鬼を差し向けて勝てるだけなら桃太郎の結末はあんなものにはならなかった。人間が脆弱であるという固定観念からの脱却。それが千方に求められる認識なのだから。




