10:最強の呪術師
「梵我反転……それは要するに胎蔵領域の拡張だ」
「何……を?」
「自我を構成する呪詛。その構造を体外に投射する技術を梵我反転と呼称するわけだ」
既に金鬼は動けない。であれば、愛三にはもはやまな板の上の鯉も同様だ。
「相手の胎蔵領域に触れるには、こちらも胎蔵領域を展開しなければならない」
「グルアアアア!!!」
「動けないだろう?」
風景そのものは変わっていない。だが何か。致命的な何かに包まれているような感触を金鬼は感じていた。例えるなら無邪気な子供の手に包まれて、いつでも握りつぶされてしまいそうな昆虫のような。
「梵我反転のメリットは二つ。一つは伝死レンジの領域内における問題の解消」
伝死レンジには四つの距離がある。
不届。
類感。
接触。
胎蔵。
不届は呪いの届かない距離。逆に胎蔵は自分という最も呪いやすい距離。一般的に呪術を使う場合は類感と接触を基本とする。
「つまりこの反転領域内であれば、俺はあらゆる全てを呪うことができる。そこに制限もないし。ついでに言えば上限もそんなにない」
ずきずきと痛む魂の痛覚はとりあえず無視して、愛三は次の説明に向かう。
「二つ目のメリットは呪術の威力と精度の向上だ」
梵我反転は自我……つまり胎蔵領域を外界に展開する。最も呪いやすいのが自分だという皮肉を逆手にとって、つまり周囲が自分であればいいという無茶な理論を実践する大禁呪だ。その反転領域内における呪術の威力と精度は、単純に平均で言っても百倍は固い。ほぼ梵我反転を展開しただけで、勝利が確定することも珍しくない。
「で、俺の系統は反転系だ」
「……です……よね……」
それは犬養部も聞いている。金鬼は直感で愛三の呪術系統を汚染系だと思っていた。不動縛呪。要するに金縛りを実現する術式。だが本人曰く反転系らしい。反転系統の術式は、いわゆる陰陽の属性を反転させることが出来る。例えば左と右。男と女。昼と夜。太陽と月。こう聞くと便利な系統のようにも思えるが、実際には扱いづらい系統として知られている。というのも一方通行なのだ。陽を陰に反転させる術師は、陰を陽には反転できない。逆もまた然り。また前後の反転が出来る術師は、基本的に前後だけ。男女なら男女だけ。光闇なら光闇だけ。そのはずだ。では愛三の呪いはどうやって金鬼を縛り付けているのか。
「難しい話でもないぞ」
で、あっさりと愛三は言う。
「この金鬼が動かそうとしている身体のエネルギーを半分だけ呪って、前後左右上下を反転しているだけだ」
何を言われているのか。犬養部にはよくわからなかった。
鬼の肉体エネルギーの半分を奪って反転させることで、結果鬼の身体を止めている……と愛三は言ったのだ。
それがどれほどの超絶技巧の上に成り立っているのかを、少しでも呪術を知っていれば理解できる。むしろ理解できないが正しいかもしれない。つまり金鬼が腕を突き出そうとすれば、そのエネルギーの半分を後ろへ引っ張るエネルギーに反転させることで実質無力化している。足を上げようとすれば下へ。左へ移動しようとすれば右へ。それらの反転呪術を常時起動させて、金鬼の動きを封じていると、この百八愛三はそう言っているのだ。
上下。
前後。
左右。
三次元空間を満たす要素全てを、陰も陽も関係なく反転していると、この男はそう言っているのだ!
「俺の先天呪詛は『陰陽二兎』……無制限反転呪術だ。陰も陽も関係なく対象指定すらもなく、全て自己の意識で反転できる」
無茶苦茶なことを言われている気がする。だが実際にそうでなければ説明がつかない。猿飼部が生き返ったのも、反転による呪詛の疑似回帰であろうし、金鬼を縛っているのも反転による疑似汚染だ。
「ただこの梵我反転。メリット同じだけデメリットも存在してな」
犬養部には見せておきたかった。彼女の術式は梵我反転と相性がいい。それこそ絶対防御の術式『殺害殺し』を梵我反転すれば争いのない世界が出来上がるだろう。そしてこれを習得するためにはどうしても把握しておかなければならないデメリット。
「一つは精神の希薄化だ。それも死亡に直結する」
「……なん……で?」
「梵我反転は自分のエゴで世界を染めようって発想だ。要するに一本のペンのインクで海を黒く染めようって暴挙に近い。それが無理だから、あくまで自分の周囲数メートルの空間に限定しているわけだ。広げれば広げるほど反転領域の維持のために必要な呪詛が幾何級数的に増えていく。今の俺だと半径二十メートルが限界だな」
それでも三次元反転で金鬼の動きを封じているだけでも愛三の無茶苦茶さが浮き彫りになるのだが。
「もう一つのデメリットは……とにかく滅茶苦茶痛い」
「……痛い?」
「超痛い。泣きそうなくらい」
えーと、と犬養部は首を傾げる。
「胎蔵領域は自我を構成する。つまりそれを体外に投射すると、その領域が全て自分の知覚になる」
結果、痛覚神経を外気に晒すようなものだ。風が吹くだけで痛いし、何かに触れるだけで痛いし、まして自分以外の胎蔵領域に触れれば拒絶反応まで帰ってくる。
幻痛。ファントムペイン。
そう呼ばれる精神痛。なので出来ることならば愛三も使いたくはないのだ。今回は完璧にしょうがないので使ったのだが。
「で、これでチェックメイト」
そうして腰に差している刀を振るうと、その刀はあっさりと金鬼の両脚を切り捨てた。抵抗なぞ有って無いようなもの。あらゆるサムライの刀をことごとく弾いた金鬼の金剛の身体を、まるでバターでも切るように愛三の刀は切って捨てた。同時に梵我反転も解消された。正確には術儀ごと強制シャットダウンされたのだが、そこは説明しなくていいだろう。
「グ……ガアアアア!」
足を切られて地面に立つことさえできなくなった金鬼が、駄々のように暴れまわる。とはいえ既に足は斬っているので、その場でと注釈は付くが。
「グラアアアア!!!」
その近場にいる七歳児の愛三へ、振り上げた拳を打ち下ろす。
「……百八」
「大丈夫」
ヒュン、と風鳴。同時に金鬼の腕が地面を叩いた。ただし愛三を打ってはいない。肘から先が斬り飛ばされて、そこら辺に適当に転がる。
「……何……その……刀」
「銘はロープライスロープ」
「……ロープライス……ロープ。……まさか……童子切安綱?」
安い綱で安綱。皮肉に付けた愛三の名刀だ。
「……のレプリカだ。切れ味は保障されているがな」
鬼を切る名刀安綱。であれば確かに鬼を切るのには向いているのだろう。
「この刀は刃に触れた呪いをキャンセルしてな。なわけで金鬼の金剛の身体も意味がないわけ」
サラリと恐ろしいことを言っているような気がしたが。
「なわけでこれを抜刀すると梵我反転も丸ごと切り裂かれるんだよなぁ。どうにかならん?」
「……と……言われても」
「なわけで犬養部。お前の課題は梵我反転を習得すること。一から丁寧に教える気はないから、さっきの感覚をよく憶えとけ。別に覚えたくないなら無理強いはしないが」
「グラアアアア!!!」
そうして足と片腕を失った金鬼が吠える。そこにまたヒュンと風鳴。容赦なく金鬼の首を断ったロープライスロープが、いつの間にか抜刀されていた。いつ抜いたのか。それすらも今の犬養部にはわからないわけで。




