ピクニック ーブリジットー
アベルとの約束の日。
侍女が持ってきた衣装はとてもラフなお出かけ着だった。
ブリジットはてっきりお茶会か趣味の集まりが友人宅であるのかと思っていた。
「ピクニックだと聞いておりますが。」
(お茶会のような畏まった集まりじゃないってことね。)
侍女に言われそう納得し用意を済ませた。
馬車で迎えにきたアベルもラフな格好をしていた。
御者とセバスチャンもブリジットを待ち構えている。
出発すれば騎馬の護衛もついて来た。
向かい合わせで座るとむず痒かった。
しかしアベルは何食わぬ顔で座っていた。
先日の口付けなどなかったかの様に。
気にしているのはブリジットだけだ。
どこか納得のいかない気持ちはあれど、ブリジットは気合を入れ直すことにした。
(まだ私は婚姻解消していないのだからアベル様が皆の前で恥をかかぬようしっかりしなければ。)
きゅっと唇を引き結ぶ。
「サイラスの領地にとても綺麗な湖があるんだ。そこでお昼を食べよう。」
「ご友人は何人くらいいらっしゃるのでしょう。」
ブリジットが聞くと柔らかい笑みを浮かべていたアベルが不思議そうな顔をした。
「サイラス?なぜ?呼ばないが。」
呼んでない?
ではこのお出かけの目的は?
ブリジットは聞きたかったが、アベルの笑みが崩れるのが怖くて聞けなかった。
「さあ着いたよ。」
そう言われてブリジットは馬車を降りる。
そして目の前に広がる景色に思わず歓声を上げた。
「まあ……!」
スラビーズ領とはまったく違う景色が広がっていた。
湖は大きく、湖面は鏡のように空を映して青くきらめいていた。
湖の周りは緑が溢れており眩しさに目を細めた。
「こっち。こちらでお昼を食べよう。」
そう言って満足そうな顔をしたアベルが手を差し出す。
ブリジットも少し戸惑いながら差し出された手を取った。
少し小高い丘に登ると湖を見渡す事が出来た。
木陰にセバスチャンが昼の用意をしてくれていた。
キラキラと太陽の光を跳ね返し幻想的に輝く湖を見ながらの食事。
ブリジットは胸がいっぱいであまり食べられなかった。
「口に合わなかったか?」
「いいえ、美味しいです。とても…とても…」
心配そうに言うアベルにブリジットは胸が詰まりそんな事しか言えなかった。
食べ終えると目の前に本が差し出された。
「続き、気になっていたんじゃないか?」
領邸の離れに置きっぱなしの読みかけの本だった。
アベルは自分の本も出すと、ゴロリと寝転がり本を読み始めた。
「……」
ブリジットは黙り込んだ。
一体今日はどういう日なんだろうか。
まるで夢の中の様だ。
アベルに嫌われていると思っていた。
怒っていると。
その認識は悪女の誤解が解けても変わることはなかった。
これがまだスラビーズ領に来た頃なら都合よく解釈して浮かれることも出来たのかもしれないが、今はもうお別れする事が決まっている。
(……決まっているからかしら。)
ふとそう思いたつ。
(関係の悪いままお別れするのは後味が良くないとか、そういった事なのかもしれないわ。)
彼に嫌な態度を取らせていたのはブリジットのせいだ。
本来アベルは面倒見が良く優しい人だろう事はブリジットは良くわかっていた。
そのようにしてブリジットは自分の中から湧き出る違和感に説明をつけた。
ならばこの美しい景色を思い出に、初恋にも綺麗にお別れできそうだ。
そう思うとブリジットは本を開きアベルの横で読書を楽しむことにした。
「アベル様。ブリジット様」
声をかけられブリジットはパッと顔を上げた。
いつの間にやらセバスチャンが傍にいて声をかけていた。
「奥様に日が暮れる前に必ずタウンハウスに戻るようにきつく言われております。そろそろ戻りませんと、奥様に叱られてしまします。」
どの位そうしていたのか、2人して読書に没頭していたらしい。
「え、もうそんな時間が経っていたのか?」
アベルが慌てたように飛び起きた。
影を見ればずいぶん動いていた。
ブリジットは何だか可笑しくなった。
「ふふ、確かに思ったより時間は経っていたようですね。」
くすくす笑ってハッとする。
アベルが笑うブリジットをジッと見つめていた。
ブリジットは慌てた。
「は、はやく片付けましょう!」
勢いよくアベルから顔を背け、立ち上がった。
(どもってしまったわ……)
その上レディーらしからぬ大振りな所作。
泣きたくなった。
せっかく完璧な振る舞いを続けていたのに。
せっかく美しい思い出になるはずだったのに。
最後に失態を見せるとは。
(だってアベル様が……)
自分を見てると思わなかった。
「ああ、そうだな。」
優しさなのか、気にしていないのか。
アベルは変わらぬ態度で本を仕舞うと立ち上がり、ブリジットに手を差し出した。
ブリジットは胸の前で握りしめていた手をおずおずと差し出すと、2人で馬車に戻った。
「サイラスの領地はとても広大で景色がいいところが多いんだ。うちは農地ばかりだけれどね。」
「各々の領地に個性も活気もあって素敵です。」
ブリジットの家の領地はそれこそ農地ばかりだ。
スラビーズ領のように栄えた街などない。
「そうか。」
アベルは顔を綻ばせ頷く。
「サイラスの領地は街も賑やかで栄えている。次は街歩きをしよう。」
次?
ブリジットは思わず眉を顰めた。
(次なんていつあるのかしら。)
もしや、婚姻解消のその日まで今日の様なことを続けるつもりなのか。
何のために?
返事がないからだろう。
アベルが窺うようにブリジットを見た。
「街歩きはあまり好きではない?」
「いいえ、その様なことは……」
「街より自然の景色の方が良いか?」
「いいえ、その様なことは……」
ブリジットは同じ言葉を繰り返す事しかできない。
そんなブリジットをみてアベルは顔を曇らせた。
「今日は楽しんでもらえなかっただろうか。」
「いいえ!その様なことは!!」
ブリジットは即座に否定した。
アベルはブリジットの言葉に安堵の表情を浮かべると「ならばよかった。」と微笑んだ。
ブリジットは今日が楽しく無かったわけではない。
ただ次がある事が理解できなかった。
次がある事が嫌なわけでもない。
事実今日は楽しかった。
美しい湖面をみて感動し、素敵な景色を見ながらアベルと2人で木陰でサンドイッチを食べ、読書に没頭した。
人によってはつまらないと感じるかもしれない。
でもブリジットにとってはまるで理想のデートだった。
そう、理想そのものと言ってもいい。
理想そのもの…………
理想…………
ーーヒュッ
ブリジットは自分の息を呑む音を聞いた。
サーと音を立てて血の気が引いていく。
「ああ、日が暮れる前にタウンハウスに戻れたな。」
そんな事に気付かぬアベルが呑気な声で言った。