1 クリスとモイモイ
「大変だよモイモイ! 僕好きになっちゃったんだ!」
渡り狸のモイモイは、突然乗り込んできた友人のクリスにたたき起こされた。
タヌキが現在、定宿にしている酒場の二階の客室。藁のベッドの脇に立ってぐんぐん揺さぶる8歳の子供が、この街を治めるシェパード男爵の三男坊クリストファー。
貴族が訪れるには余りにもみすぼらしい空間ではあったが、宿のオーナーでさえおなじみの光景とばかりに、あえてかまうことなどしない。
「朝からどないしたんやボン? 誰を好きになってん?」
タヌキは、体を起こし、シッポに引っ付いた藁を難儀そうに払いながら尋ねた。
「女の子だよ。 聖女様」
まるで自慢するようにニヤリとクリスは口の端を上げた。
「……そらぁ。 ……ホンマに大変やな」
タヌキの眠気は、一発で飛んでいった。
「僕どうしたらいいかな?」
タヌキは目をつむり、答える。
「ボン。 それは恋いうやつやな」
クリスはなるほどと頷く。
「こい? これが恋か ……もっといい気分になるのかと思ってた」
「せや。 恋や」
クリスは右手で頭をガシガシ掻きながら、
「嫌われたくないんだ。 ボクはどうしたらいいかな? きのうからずっと考えたんだけどわからないんだよ」
「恋した男がまずやること、っていうのがあるんや。 知っとるか?」
タヌキは声のトーンを落とし上目使いで弟子に質問した。
クリスはしばらく悩んで、
「……ぜんぜんわからないよ」
「あれ? なんやったかな? ……もう少しで思い出せそうやねんけど」
とぼけるタヌキを、この世の終わりを告げられたような顔で揺さぶりながら、クリスは懇願した。
「ぼくのために、思い出してよ! モイモイ!」
「ちょっと今、ハラへってんねん。 何か食べればすぐ思い出せると思うんやけど……」
「だいじょうぶ! ボクお金もってるんだ! すぐに下で食べてよ」
タヌキの手を引き、クリスは階段に向かって駆け出した。
「あら。 すまんなぁボン。 ありがとう。 ほなすぐいこ」
タヌキは、トコトコついて行く。
二人がたどり着いた食堂には、先に朝食にありつく労働者が数人居たが、領主の末息子に黙ったまま軽く会釈をするだけで、食事の手を止めるものはいない。
この宿で、貴族の子供とタヌキが同じテーブルにつく姿を見とがめる人間は、しばらく前から存在しない。 そういうものだと各々勝手に納得し、放っておくことを決めていた。
二人がテーブルに着くのとほとんど同時に運ばれてきた朝食を、タヌキはガツガツ食べ始めた。
クリスは周りの客に聞こえない声で、秘密を打ち明ける。
「今、聖女さまたちがボクの家の、はなれに泊まってるんだ」
「お父さまとアル兄さま以外、会ってはいけないことになってるんだけど、きのうの夕方ボクが本を読みに図書室へ行ったら聖女さまがいたんだよ」
「それでいっぱい話をしたんだ。 とってもかわいい人でさ」
うふふと微笑むクリスを、タヌキは鼻先をシチュー皿に突っ込んだまま片目で眺める。
「ボクの話をニコニコ笑って聞いてくれるんだ。 ……でもあっというまに、夕食の時間になっちゃって。 セバスがボクを呼ぶ声がしたんだ。 見つかったら大変だから急いで部屋に戻る前に、聖女さまに、明日も会えますか?って聞いたんだ」
シチューを無心ですすっていたタヌキが、ようやく口元をぬぐって顔をあげた。
「ええやないの。 ほいで ほいで?」
クリスも笑顔になって、おそらく昨日聖女がしたであろう仕草を繰り返した。
「にっこり笑って、うんって」
「ほう。 そうなんか。 ボン。 パンもう一個だけ頼んでええか?」
ふざけたタヌキの合いの手に、クリスはついに酒場に来た理由を思い出した。
「いいけど、ボクがなにするんだか思い出してよ!」
タヌキはペシペシ机を叩きながら、
「あたりまえやないのぉ。 もうノドまで出かかってるっちゅうねん」
「ほんとに頼むよモイモイ。 だれにも相談できないんだから」
クリスは財布から小銭を取り出し、指を鳴らしておやじに注文した。
届いたパンを丸呑みにしたタヌキは、酒場のオヤジがテーブルを片付け立ち去るのを待ってから、ようやくクリスに切り出した。
「ええか? 恋した男はな、プレゼントを渡さなアカンねん」
クリスはテーブルに身を乗り出し、
「プレゼントか!! うん! やってみる。 ……なにがいいかな?」
タヌキは短い腕を組む。
「なんで俺が朝ごはん食べたかわかるか? ボン」
「え? みんな食べてるよ。 だからじゃないの?」
弟子の手柄を称えるかのように、眉間にしわをよせ表情をキリッと整えたタヌキは重々しくうなずいた。
「せや。 みんな食べてるからや」
「つまりやな、聖女さんも食べ物を食べるんや。 だったらプレゼントは食べ物や!」
クリスは顔を輝かせて、
「食べ物か! わかった! ……でも、なにがいいかな?」
「そこが、大事なんや。 ええか、よく聞き。 ……答えは甘いモノや!」
たっぷり間を取ってタヌキは宣告した。
目を斜め上にさまよわせたクリスは、浮かんだ答えを確認する。
「……お菓子とか?」
タヌキは机をたたいて喜んだ。
「よくわかったやないかボン!! 完璧や!!」
師匠の講義はここまでと判断したクリスは、勢いよく立ち上がり、
「聖女さまと夕方に約束してるんだ! 今から料理人におかしをたのんでみるよ! ありがとう モイモイ」
言うなり、タヌキの返事も待たず、クリスは酒場の出口を駆け抜けていった。
後には数人のおっさんが静かにシチューをすする音だけが残った。
タヌキは、屋敷の方向にむかって走り去るクリスの背中を窓から見送る。
「……ボンが恋なぁ。 相手は聖女さん。 ホンマに大変なことになったなぁ」
空は雲ひとつなく晴れている。
今日も暑くなりそうだ。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたのなら、幸せです。
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