サーカス
かつて暮らした町の夜は静かで、眠りにつくにはなんとも都合が良さそうだった。
天幕の隙間から忍び込むガス灯の光の中を小さな羽虫が飛び回っている。羽虫は時に蝋燭のそばまでやってきては熱に怯えたように逃げ出すけれど、中には炎に近づきすぎて命を失うものもいた。蝋燭の手前に置いた水桶の中、ゴマのように浮かんでいるのはそうした愚かものたちだ。
冬は刻々と近づいてくる。羽虫もじきに見られなくなるだろう。短い命は季節が変わる前に尽きる。
少ない荷物の中に隠し持っていたナイフを取り出すと、よく磨かれた刃が炎を映してきらめいた。美しいものに触れて尽きることは、きっと幸福に違いない。羽虫たちが怯えを忘れて炎に近づくのは、揺れる炎の美しさゆえのことと思えてならなかった。
水面に映る炎の上にそっと手を滑り込ませ、掌を上向けてみる。どれほど慎重に指を曲げても、水面の炎を手中にすることなどできないと分かりきっていた。
刃の背に指を当て、水面を見下ろす。心臓の音が跳ね上がるようだ。鉛でできていると思っていたはずの心臓が、こうも音を立てるものだったとは。そのままいくつ音を数えたか分からない。
やたらと乾く口の中を唾で湿らせ、呼吸を整える。その瞬間を迎えようと大きく最後の一息を吸いかけた時、怒号が静かな夜を裂いた。続いて、いくつもの地を蹴る乱暴な足音。跳ね上がるほどに驚いて、頭の中が真っ白になった。
右手から抜け落ちたナイフは地に転がっている。呆けた顔を向けた先を男たちが走り抜けていったようだ。
公園に設けられたサーカスの天幕はとても大きく、中はいくつにも仕切られ、合間には布がかけられている。布の揺れは男たちが走り去った後もしばらくは治まらない。
盗人が入り込みでもしたのだろう。よくあることだ。
ため息をつくと、青年はナイフを拾い上げ刃を内側へと折り込んだ。
今夜はいい夜であったに違いないのに、意気地のなさばかりはどうにもならない。ようやくここまでたどり着けた気さえしていたものを、よもや引き返すはめになろうとは。
せめて退屈な夜をしのぐ本でもあればよかった。与えられた食事をとり、仕事もなく眠るほかにない長い一日。さっき走り去っていった男たちが戻ってきたなら、本の一冊もねだってみようかと仕切り布に目を向けた時、その片隅にうごめく固まりがあることに気がついた。少しばかりの驚愕を感じはしたものの、先ほどの衝撃に比べたらないも同然だ。
「へへ」
鼻の下をこすりながら身を起こしたのは、十かそこらの少年だった。近くに人がいることを知っていたのだろう、青年を見ても特に驚くようなそぶりは見せない。
「誰だい、あんた。──ああ」
薄暗闇から投げかけられるものでも、値踏みされるような視線だということはよく分かった。誰と尋ねられても答えようのない青年の近くに堂々と歩み寄り、残り四、五歩ほどの距離を残して少年──おそらくは盗人だろう──は目を大きく見開いて立ち止まる。
ガス灯の光が落ちるこちらと薄暗闇になったあちらの間に呼気さえも届きそうな沈黙が落ち、そして、すぐに破られた。一足飛びに残りの距離を駆け寄った少年は、青年の懐に飛び込んで胸板に手を当てる。
「胸がない!」
おのれの立場をわきまえているとは思えない大声に、青年はこらえきれずに吹き出した。気高い女神の面のようと評されたこともあるほど、風貌に恵まれたことなら知っている。
「こっちだ! 声が聞こえた」
笑いを収める間もなく聞こえた大声に少年は肩を跳ね上げ、ガス灯の方向へ目線を走らせた。外にもどうやら、すでに追っ手の気配がある。荒々しく布幕が開かれるのとほとんど同時に、少年はそそくさと青年の後ろに回りこんだ。
「その子供をよこすんだ」
布幕の向こうから現れた男の体躯は大きく、その上、一人ではない。隠れられるはずもないのに後ろに回りこんだ少年を肩越しに振り返ると、少年はたいした危機感もなさそうに舌を出していた。いきり立つ男が道化に思えてくるようだ。
正面を向き直ると、青年はくすくすと笑いながら男に言った。
「お待ちよ、なんだってそんなに慌てているのかな。イタチか猫でも入り込んだんじゃないのかい? このあたりではよく見るよ」
弾む雨音のようなおのれの声が時に強力な防具になることを、青年はよく知っていた。
「この子はわたしが呼んだんだ、あまりに退屈だったから。今夜で何度になるか分からないほどだけど、これまで気づいてもいなかったのかい?」
「退屈?」
男はいかつい顔をしかめておうむ返しする。後ろに控えた他の男は、先陣の出方を見計らっているようだ。
「退屈さ、座長も誰も構ってくれやしないもの。町の子供を慰みにするしかないじゃないか」
いけしゃあしゃあと青年は言ってのけた。
「ふん、へへ。それなら、呼ぶ相手はいくらでもいるだろうにさ」
品のない笑い声を上げて男が仲間を振り返るのと同時に、青年もまた後方の少年に目配せを送ってそっと笑む。
これは思ってもみなかった形で見逃してもらえたものだ。身を起こした少年は、青年の足首から伸びる鎖に気づいてぎょっとした。
「おれが誘ったんじゃないぜ、なあ。たまにはこんなこともなくちゃ、連れ出した甲斐もないよな」
女神のように美しいこの青年は、とらわれの身であったのか──。
後ろ髪を引かれるような思いに駆られながらも、少年はそっと天幕を抜け出した。男たちの関心はすっかり青年に移っているようで、追いかけてくる者も呼び止める者もいなかった。すばしっこさに自信があるとは言え、なんとも拍子抜けだと少年は天幕を振り返る。まさか青年の言い分を信じたわけではなかろうし、第一、鎖につながれた青年にそれほどの発言力があるとも思えなかった。
「へへ」
数日が過ぎ、ガス灯に照らされた隙間から少年が天幕に入り込んだ時、青年は荷物を枕に眠りかけていたところだった。
「また来たのかい。呆れた」
身を起こした青年の声は、どうやらため息まじりのようだ。
「だってさ。この間、収穫ゼロだぜ」
「そういうことじゃなくて──」
「それよりさ、なに、あんた男娼?」
話をまるで聞く気がない少年の問いかけに、青年は静かに息を呑んだ。
「……わたしは死人だよ」
青年が応える間にも少年はずかずかと入り込み、青年が枕代わりにしていた荷物の包みを勝手に開く。
「すっげぇ、王様みたいな服だ」
呆れて声もない青年の様子などお構いなしに、少年は包みから出てきた服を広げて無邪気な声を上げた。
「違うか、王子様だな。あんたまだ若いから」
少年が広げた服にはいくつもの宝石が縫い付けられ、薄暗闇の中でさえきらめきを放つようだ。他にもこんな荷物があるのだろうかと少年はきょろきょろと周囲を見回した。
「わたしの荷物にだったら、いくら触れてもいいけれど……」
「ああ、なんだ。死人ってそういうことか。あんた、荷物の見張り番なんだ」
最初からここに潜り込めばよかったな、などとぼやく少年には、かけらほどの反省の色もない。
「おれ、ツバメ。あだ名さ。でも、囲われ者ってわけじゃないぜ」
青年は小さくため息をついた。
「君は葦に恋でもしたの? 冬を越すなら、早く暖かい場所に行かなくては」
「葦?」
「ねえ、ツバメさん。お願いがあるんだ」
きょとんとした少年の様子などお構いなしに、青年は歌うような調子で言った。
「その服についた宝石を外して、街の人たちに施してやってはもらえまいか。寒さに震える子供たち、マッチを売る女の子。そうだ、劇作家のエンツォは今も十一番街の狭い借家にいるのかな。彼はとても才能のある人なんだ」
断られるかもしれないなどとは微塵も思っていない表情の青年から宝石に彩られた服へと視線を行き来させ、少年は沈黙してしまう。
「その衣装は、わたしが所有を許された数少ない財産だから」
周囲の荷物の届け先は決まっているからね、と青年はほほえんだ。
「……分かった」
消え入りそうな声で応えると、同じ荷物の中から出てきたナイフで少年は宝石を丁寧に取り外していく。
服ごとくすねて独り占めしてしまってもよかったけれど、こんなものを持ち歩いたんじゃ目立つし、宝石ひとつで何日分のパンが買えるのか見当もつかない。
何より、数少ない財産と言われたものを、目の前でそっくりいただくのは気が引けた。
誰もが寝静まっているであろう深夜、青年がサーカスの天幕から連れ出された先は、大通りから外れたところにある寂れた酒場だった。照明が落とされ、営業しているようは見えない酒場へ、両手の枷に引っ張られるようにして入っていく。
青年が乗せられてきた馬車から酒場へ、男たちが黙々といくつもの穀物袋を運び入れていた。少し離れた場所には見張り番が立ち、人目を忍ぶ輸送であることは明らかだ。
最小限まで灯りを落とした酒場では、すでに密談は終わっているようだった。
「こっちはたいして儲かりもせんのだよ、なにしろ経費がかさむからな」
座長の隣に座り、男が苦言を呈している。まあ、そうおっしゃらずとなだめる座長を無視して、男はちらりと青年を見やった。
「連れ帰っても?」
「それはご遠慮いただかなくては」
しかめっ面を作りながらも、男の目はすでに色に染まって見える。こうした時の愛想笑いに、青年はいつしか慣れてしまったようだった。そんなおのれを遠くから眺めているような気分だ。あるいはこれは、夢の中の出来事なのかもしれない。
町へ着いた頃にはまだ先のように思えていた冬は目の前に迫り、夜ともなれば寒さに凍えてしまいそうだ。
この町には半月ほど滞在の予定と誰かが言っていたのだったか。現世におのれを繋ぎとめる枷の冷たさが肌に沁みる。
外に連れ出される時、馬車の窓にはいつもカーテンが下りていて、懐かしいはずの景色を見ることはままならなかった。いや、馬車に乗り降りする際に見る景色はいつも暗く寂れていて、知っていた町とはまるで違う町のようにも思える。
瞼を伏せれば、浮かぶのは華かな衣装に身を包んだ紳士淑女、初々しく頬を染めた少女たちの憧憬のまなざし、何百人もの観客に埋め尽くされたきらびやかな舞台へと至る道だった。青年が通ればそこここで噂話に華を咲かせた人々はぴたりと口をつぐみ、一挙一動に注目し、次々に賞賛と期待の言葉を投げかけたものだ。
凍てつく夜の町を、寒さに手足がかじかむということを知らなかった。身の回りはただただ美しいものに囲まれ、望めばありとあらゆるものが手に入った。今は宝石を取り外してしまった衣装は、当時の恋人の父親から贈られたものだった。お返しに発注してあったトケイソウの刺繍が入ったドレスは、彼女のもとへと届いただろうか。
……今や羽虫が入り込んでくることもなくなった天幕の隙間から小さな物音が聞こえて、青年は我に返った。もう来ることもあるまいと思っていた、盗人の少年だった。決して大所帯ではないとは言え、そうやすやすと何度も入り込めるほど警備が緩いとも思えないのだが。
「話し相手はいらない?」
初めて天幕に入り込んだ時とは打って変わって、やけにしおらしい少年の声に青年は静かに笑った。
「いつまでもとどまっていては凍えてしまうよ、ツバメさん。早く南に渡らなくては」
低く調子のよい青年の声に、少年はとまどったように立ち尽くすばかりだった。
「……おれの母ちゃん、お針子なんだ。手がかじかんで、縫い針もまともに持てやしない。あかぎれの血が服についたら売りものになんてなりゃしない。弟は病気でずっと寝ている」
ややあって少年が話し出した時、青年は返す言葉もなく少年を見つめるしかなかった。お針子というのは怠けもので、仕事が遅いと言った女がいた。あの時自分は、どんな言葉を返しただろう。そのとおりだと思っていやしなかったか。
「この間もらった中で一等豪華な宝石を残しておいたんだ」
「それなら」
口の中がひどく乾いているようだった。
「……それなら、その宝石を早く売って山ほどのオレンジでも買っておあげ。よい医者にかかることもできるだろう」
「だめだったんだよ」
少年はゆるゆると首を振り、うつむいた。
「なんで? 王子様の服についてた、こんな小さな石ころの一つや二つ。今までだったら買ってくれた故買商もいたのに、誰も、どこも──」
震え、絞り出されたかのような声を聞く誰かが他にいたとして、その誰かは応えるべき言葉を持っていただろうか? かつて暮らした華やかな世界とこの天幕の中は確かにつながっているのだろうか、これが浮世か。町から町を渡る中、浮世の苦などとうに知り尽くしたようなつもりでいたのに、まだ足りてはいなかったらしい。
「あんたは、誰?」
羽虫のはばたきかと思うほど小さな声に何かを答えようとした時、しんと凍りついたかのように静かだった天幕の外に銃声が響いた。
その晩の憲兵隊の襲撃は突然のものと見せかけて、実際には入念に準備されていたことのようだった。サーカスに何人がいたのかを青年は把握していなかったけれど、見覚えのある顔のほとんどは拘束され連れて行かれる列の中にあったように思う。
少年が持っていた分不相応な宝石が呼び込んだ憲兵隊は、実によい仕事をしたようだった。
天幕から押収された禁制品入りの穀物袋が大型の馬車に積み込まれていくのを、青年はぼんやりと眺めていた。足の枷はなく肩からは温かな外套をかけられて、すぐそばには現場が片付くまでと焚かれた炎がある。
そばにいた事情聴取役の憲兵は手元の手帳にしきりに何かを書きつけており、少し離れたところではあの少年が若い憲兵を相手に興奮気味にまくし立てていた。
「さて」
炎の前に座り込んで動かない青年の隣にしゃがみ込み、憲兵は青年の顔をのぞきこむ。
「詳しくは詰所に帰ってから聞くとして。取引の報酬に使われていたという話は聞いたが、名はなんというのかね」
ずかずかと踏み込むような物言いも、たいして心を動かしはしなかった。
ぼんやりとどこを見ていたともしれない目を瞬き、現世に引き戻されたばかりのようにゆっくりと周囲を見回した後、青年は憲兵をじっと見つめる。深く澄んだ光沢のある青藍色の瞳はまるでサファイアのようで、埃に汚れてはいても際立って美麗な面には実によく似合っていた。
「ああ──」
ずいぶんと長いこと憲兵の顔を見つめてから開かれた唇からこぼれる声もまた、鍵盤を弾む光の粒のようだ。
この時、不法取引で解散に追い込まれた新興歌劇団の一員であり、何年も消息を絶っていた歌手の名をぽつりと口にしたきり、その青年は二度と声を発することがなかったという。
ろくな食事を摂っていなかったのか体は極端に痩せ、その年初めての雪が降った日に高熱を出して床に伏せって以来、その蒼玉の眼を開くこともほとんどなく、静かに息を引き取ったという。
この作品は2012年6月、オスカー・ワイルド「幸福な王子」に寄せて執筆・発表したものです。
公開に当たり、一部文章を修正しました。