9. 訪問
“大切なイグナーツ・トット様
あなた様からのお手紙を、私は信じられない思いで受け取りました。以前いただいたお手紙と同じ筆跡だとわかると、まるで天にものぼる心地でした。
ええ、私は晴れてビアンカ・リッツとなりました。これからは侯爵令嬢と呼ばれないと思うと胸がすっといたします。
ユルゲン・リッツ様も夫人のドロテア様も、とても素晴らしい方です。確かに侯爵家のときよりも使用人は減りましたが、父の制限がありませんから前よりもずっと快適な生活をしています。
いいえイグナーツ様、あのときは私も焦ってしまって言葉が足りませんでした。でももちろん“奥方様”の意味はあなた様のご友人のおっしゃる通りで、間違ってはおりません。そして私は考えを改める気はありません。
あなた様を戸惑わせてしまったことに関してお詫びいたします。でも、きっとそのうちあなた様が手元に置きたくなるような軍人の妻に成長してみせます。そうです、私はもう貴族ではなくなりましたもの。どうかイグナーツ様の視野に入れてくださるようお願い申し上げます。
もしわがままな女だとお思いになるのなら、そうおっしゃってください。私はあなた様のお役に立ちたいだけなのですから。
毎晩あなた様のご健康をお祈りしております。厚かましいことに、あなた様が少しでも私のことを思い出してくださるようにとも祈っております。
過ぎた願いと存じますが、またこうしてお手紙をいただけることを期待してもよろしいでしょうか。
それではまた。
あなたを慕うビアンカ”
手紙を読み終わったイグナーツは、顔を真っ赤にさせながらそのままベッドに突っ伏した。
デニスから“奥方様”の意味を聞いたイグナーツは、訓練の合間に一週間かけてビアンカ嬢宛てになんとか一通の手紙を書いた。
まず自分があまりにも無知であったことを詫び、友人からその意味を聞いて耳を疑ったこと、自分は平民で軍人だからビアンカ嬢の夫には見合わないと思っていることを伝えた。
それなのにこの返事だ。
イグナーツは、顔にシーツを押しつけたままため息をつくと顔だけずらして手紙の文面をちらりと見た。
“視野に入れてくださるように”だって? こちらはあの最初の舞踏会から片時も目を離せたことなどないのに!
イグナーツは再び顔面をシーツに押し当てて熱を冷ました。しばらくしてからむくりと顔をあげ、もう一度手紙をざっと見た。
最後には“あなたを慕うビアンカ”と書かれている。どうやらほんとうに彼女は自分との結婚を望んでいるらしい。
リッツ夫人から軍人の奥方様としての役割を学ぶと言っていたっけ。イグナーツは、以前大佐の屋敷に第三部隊の連中と一緒に訪れた時、リッツ夫人が「主人がいつもお世話になっております」と言いながらもてなしてくれたのを覚えている。宴会の席では「俺の酒が飲めないのか」と強要してきたあの熊のような大佐を、「あなた?」の一言で飼い犬のように従順にさせるすごい人だと、第三部隊全員に記憶させた。
ビアンカ嬢はああいう風になりたいのだろうか。いや、リッツ夫人はまた特殊なのではないか。とにかく想像ができない。
そもそも軍人の妻と言うが、戦争が始まったら未亡人になる可能性は十分にある。彼女を悲しませることになっていいわけがない。いや、その前に俺が死んだとき彼女は悲しんでくれるかわからないが。
イグナーツはもしも彼女と結婚したときの弊害を考えようとして、「あっ」と声を漏らした。
俺……隊舎暮らしじゃないか。
リッツ家みたいに管理するような屋敷なんかないし、お金もないから仮住まいを手に入れることもできない。ちょっとまてよ、そもそも俺には母親の残した借金があるんだった!
やっぱり結婚なんてできないとイグナーツはため息を吐いた。借金持ちの平民軍人の妻だなんて、彼女への負担が大きすぎる。諸々の理由で無理だと彼女に伝えなければならない。
イグナーツは書き物机に向かった。椅子に座って紙を取り出してペンを走らせようとしてーーすぐに手を止めた。
だめだ。手紙を完成させるのに、また一週間かかってしまう。借金について書くのだ、もっとかかるかもしれない。ビアンカ嬢がリッツ家の養女になってまだ一週間。彼女が考え直して貴族と結婚するのなら早い方がいいはずだ。直接会って伝えるか。
イグナーツは“面会願い”と文字を綴った。
面会願いを出したはいいが、恋人ではないのだからすぐに会わせてもらえるかわからない。大佐の許可が必要になったらどうしようと心配していたイグナーツだったが、面会は意外にもあっさりと承諾された。リッツ夫人から“次の休みはいつですか、そのときにいらっしゃい”と返事が来たのである。
面会日当日、イグナーツは一番汚れの少ない軍服を着て、緊張しながらリッツ邸に出向いた。
リッツ大佐はこのことをご存じだろうか、会ったら説教されたりするだろうか。“俺の娘に会うんなら、その前に腕立て千回だ”くらいは言われる可能性がある。
イグナーツは心の準備をして身構えていたが、屋敷を訪れたとき、リッツ大佐本人は意外にも不在であった。
使用人に広いロビーに通され、そこで待っていると、リッツ夫人が二階に繋がる階段から「まあまあまあまあ」と言いながら降りてきて歓迎してくれた。
「よくいらっしゃいました、トット准尉! お会いできて光栄ですわ、さあさあ!」
前にここへ来たとき、リッツ夫人からは夫を律する冷静沈着な印象を受けたが、今日はなんだか勢いを感じる。イグナーツは後ずさりしそうになるのをこらえて「ど、どうも」とぺこりと頭を下げた。
「ご主人が不在のときに訪れてしまい、申し訳ありません」
「あらあらあらあら、あなたが会いに来たのは夫ではなくてビアンカの方でしょう。あの子には客間で待ってもらっていますの、どうぞこちらへ」
リッツ夫人は早足でせかせか廊下を進んでいくのを、イグナーツは慌てて追いかけた。
リッツ邸は、どの部屋もきちんと手入れが行き届いているようで、窓から差し込む光で床がピカピカして見えた。前に来たときは夜であったために気づかなかったが屋敷の窓はどれも大きく、上等なガラスがはめ込まれているようだった。
リッツ大佐ってお金持ちだったんだなとイグナーツは改めて思った。
食堂を過ぎたところに金で縁取られた客間の扉が現れた。
リッツ夫人がコンコンと叩いた後「ビアンカ、開けるわよ」と呼びかけて、扉を開けた。
開いた先の部屋にもやはり大きな窓があった。そこから差し込む日の光の差すところに、こちらを向いて立ち上がった女性の姿があった。ビアンカ嬢である。
舞踏会のときや外出着のような豪華さはない、飾りのないシンプルなドレスを身にまとっている。それでも彼女の気品は一ミリも薄れていないとイグナーツは思った。
「ごきげんよう、イグナーツ様」
彼女が優雅にお辞儀をしたのに、イグナーツも「ど、どうも」とぺこりと頭を下げた。
「……」
「……」
二人は顔を上げた後にそれぞれ照れたようにそっぽを向いてしまい、沈黙が降りた。
リッツ夫人はわざとらしく「お、おほん」と大きな咳払いをした。
「さあさあさあさあ、立ち尽くしていないでお座りなさいな! トット准尉、こちらへどうぞ」
イグナーツはリッツ夫人に急き立てられるままにビアンカの向かいの長椅子に座った。彼女もそれに合わせて座る。
リッツ夫人は「アリサ、新しい紅茶をお願い」と部屋にいたメイドに言いつけてから、二人の方を向いた。
「トット准尉はせっかくお休みの日に来てくださったんですから、二人とも日が暮れるまでじっくりお話しくださいね。アリサには紅茶を運んだら下がってもらいましょうか? なんなら扉に錠をかけてもかまいませんからね、その長椅子ならきっと二人で横になっても……」
「リッツ夫人!」「ドロテア様?」
イグナーツとビアンカ嬢は同時に夫人の言葉の先を阻んだ。
なにを言い出すかと思ったら! 焦るイグナーツが口を開く前にビアンカ嬢が冷静に後を続けた。
「アリサには下がってもらいますが、扉はもちろん開けたままにいたします。どうぞお気遣いなく」
ビアンカ嬢がそう言うと、リッツ夫人は「あらそう?」と少し残念そうな顔をした。
「それじゃトット准尉、ゆっくりしてらしてくださいね」
リッツ夫人はそう言うと客間を出ていった。
やれやれ、ひやひやすることを言うお人だ。その背中を見送ったイグナーツは息を吐く。
「わざわざおいでくださり、ありがとうございます」
そう声をかけられ、イグナーツは正面を向いた。ビアンカ嬢が困ったように微笑んでこちらを見ていた。彼女のピンと伸びた背筋に、こちらも慌てて姿勢を正す。
ビアンカ嬢が言った。
「もしご不快な思いをされてしまいましたら、私からお詫び申し上げます。ドロテア様はとても良い方なんですの、その、少し気を遣いすぎますけれど」
「あ、いや別にそれは」
イグナーツは慌てたように首を振った。
「え、ええと、ビアンカ嬢がお元気そうで何よりです。ご不便はありませんか」
「ええ、ありがたいことにとても快適に暮らしております」
このときメイドのアリサがお茶を運んできた。白いカップに注がれるお茶を見ながら、ビアンカ嬢はアリサに「薔薇ね……わざわざありがとう」と言った。アリサは「いいえ、お嬢様」と微笑むと、ビアンカ嬢の耳元でなにやら囁いた。
ビアンカ嬢は少しだけ頬を赤らめた後、咳払いをしてイグナーツの方を向いた。
「あのイグナーツ様、その後私のお手紙は届きましたでしょうか」
「あ、はい」
イグナーツは頷いてから「ええと、その、そのことで話をしに来たんです」と視線を落とした。アリサが興味深そうにこちらをちらちらと見ていたが、やがてお茶を注ぎ終えると客間を出ていった。
その背中を見届けてから、イグナーツは向かいに座るビアンカ嬢の方を向いて言った。
「そ、その、とても、こ、光栄なお話だと思うのですが……お、お断りさせていただきたく参りました」
そう言ったイグナーツは恐る恐るビアンカ嬢の顔色を窺ったが、お茶を飲む彼女の表情は歪んだりはしなかった。静かにカップを置くと真剣な様子でこちらをじっと見つめた。
「そうですか、理由をお聞かせ願えますか」
感情のない静かな問いに、イグナーツはひやりとしたが、「ええと……その、俺はあなたに言っていないことがたくさんあります」と床を見つめながら言葉を紡いだ。
「俺は……俺には死んだ母親の残した借金があるんです。母はその、ご存じと思いますが高級娼婦でした。賭け事の好きな人で、結局俺に回ってきて……だから俺は上官たちみたいにお屋敷も持ってないし、その、前にお見せした通り古い銃を買い替えるお金もありません。ですから……」
「ですから私と結婚できないとおっしゃるのですか」
イグナーツは顔を上げることができずにこくりと頷いた。
ビアンカ嬢は「イグナーツ様」と呼びかけた。
「私は、あなたにお屋敷やお金がほしいと申しましたか」
ビアンカ嬢の声色が下がったことに気づき、イグナーツはぎくりとして顔を上げた。
ビアンカ嬢は相変わらず真剣な顔でこちらを見ている。
彼女は続けた。
「私はそんなもののためにイグナーツ様の奥方様になりたいと申しているわけではありません。借金があって困っておられるのなら私がお返しいたします。屋敷がほしければ私が購入します。元々私自身の持参金もありますし、爵位を返還したのでその分も十分に余裕がございますの。どうぞご心配なく」
“私が返す”?! イグナーツは「だ、だめですよ!」と慌てて言った。
「屋敷なんかいりませんし、借金は俺の問題で俺が返すものです、それだけは譲れません!」
「それだけというのであれば、それ以外は好きにしてよろしいということですの? こちらとしてはあなたに借金があろうとなかろうと一向にかまわないのですが」
ビアンカ嬢が涼しい顔で言ったのに、イグナーツは怯んだがすぐに「ほ、ほかにも理由はあるんです!」と続けた。
「そ、その、俺は平民ですから、作法も何も知りません。あなたに恥をかかせてしまうこと請け合いです。こ、この前の舞踏会でも、俺はあなたのダンスの申し出を断ってしまいました」
「あれは私が考えなしだったからと申し上げましたでしょう。それに舞踏会の作法など、貴族が勝手に必要としているものであって、平民になった私には関係のないことです」
イグナーツはうぐ、と言葉に詰まったが「で、でも」と続けた。
「その、俺は軍人ですから、戦が始まったら長く家を空けます。その、早いうちに死ぬかもしれません。あなたを未亡人なんかにさせられない」
ビアンカ嬢はすっと目を細めた。
「もとよりそれは承知の上です。軍人であるあなたを好きになったのですから、仕方のないことです。それにこう言ってはなんですが、人は誰しもいつ死ぬかわからないものですわ」
イグナーツは「でも」と言葉を返そうとしたが、後に続く言葉がなくなってしまい、そのまま黙り込んでしまった。
なんだか今日のビアンカ嬢は強気だ。というより、いつも優しい言葉をかけてくれていたことにいやでも気づかされる。こんな彼女と口論しても勝てる気がしない。それはそうだ、相手はあのエルネスタの友人であり、社交界を生きてきた元侯爵令嬢なのだ。口下手なこちらがいくら主張しても言いくるめられてしまう。
イグナーツが次はどんな理由を並べようかとぐるぐる考えていると、ビアンカ嬢の方から「ふっ」と息を漏らす声がした。
思わず顔を上げると、ビアンカ嬢が赤い顔で俯いていた。
「ごめんなさい」
ビアンカ嬢は片手で口元を覆いながら言った。
「このように必死に追い縋って、恥ずかしい姿をさらしていることは重々承知しております。しつこい女だとお思いでしょう。でも……どうしても私はイグナーツ様のおそばにありたいのです。こんなに恋焦がれたのは生まれて初めてですの」
“恋焦がれた”って……よくわからないけどたぶん好きってことだよな。イグナーツは戸惑いの表情を浮かべながらも顔を赤くした。
ビアンカ嬢は続けた。
「いつからこのような気持ちになったのかはわかりません。あのハンカチを渡されたときなのか、お手紙をいただいたときなのか、窮地を救っていただいたときなのか。私、イグナーツ様のようにお優しくて、気配りに長けていて、謙虚で、かつ芯がお強くて、志の高い方をほかに知りませんわ」
イグナーツは俯く彼女の方を見つめた。優しくて、志の高い? 誰だ、それは。彼女の話している男はほんとうに自分のことなんだろうか。
ビアンカ嬢は続けた。
「きっとあなたに救われた命は大勢あるのでしょう。でも、その中で私のようにあなたへの想いを募らせる方がほかにいらっしゃるのではと思うと、私は……」
いや、残念ながらそんな人はいない。だめだ。彼女はやっぱり俺のことを誤解している。ビアンカ嬢は正直に胸の内を話してくれた、自分も正直に話すべきなのだ。
イグナーツは息を吸うと「ビアンカ嬢」と口を開いた。
彼女が顔を上げてこちらを見ると、イグナーツはまた反射的に目を逸らしそうになった。しかしぐっと拳に力を入れて耐えると彼女と目を合わせたまま言った。
「俺はそんな理想的な男じゃありません。優しくなんかない……むしろその逆です」
「そんなこと」
ビアンカ嬢が戸惑うような表情を浮かべたが、イグナーツは肩をすくめた。
「謙遜なんかじゃありませんよ。あなたの申し出をお断りする理由を申し上げると……ほんとうは俺、怖かったんです。その、厚かましいかもしれませんが、ビアンカ嬢は、他の軍人と比べて俺に気を許してくれていると感じておりました。そしてそう思えば思うほど、あなたに嫌われるのが怖くなりました。俺はあなたを助けたかっこいい英雄であり続けたかったんです。結婚した後になって幻滅されたら、きっと俺は立ち直れないから」
「幻滅なんて、まさか……」
「いいえ、きっとします。ほんとうの俺はあなたが思い描いているような男じゃありませんーー先ほど俺に救われた命は大勢あるとおっしゃられましたが、実際にはそれを上回るほどの命を俺は奪っている。准尉になれたのはその証拠ですよ。俺は……人の死に対して無頓着なんです」
イグナーツはビアンカ嬢から目を逸らして、遠くを見た。
「デニスーー俺の友人は、戦場で敵の命を奪った後の数日は毎晩その人物のことを夢に見るそうです。彼だけじゃない、同じように人を殺めるたびに相手の顔を刻みつけたり、殺した相手の家族のこととか故郷のこととか考えて祈りを捧げる軍人もいます……殺したことで心を病む隊員も多い。そう考えるのは“人として当たり前だ”と、同僚は言っていました。でも俺は…………今まで何度か戦場に出てきましたが、なんとも、なんとも思わないんです」
イグナーツは戦場での様子を思い返しながら続けた。
「敵と戦うとき、俺は必ず脳天か目、口を狙います。それが一番確実に動きを止められると思っているからですーーだから相手の顔が見えないはずがないんです。でも俺は覚えていない……弾の的としてしか見ていないから。友人は、俺が12の時から軍隊にいるからだと言っていましたが、俺は逆に人としての情緒をこの第三部隊で学びました。彼らと共感できないのは、俺には元々人としての心がないからだと思うんです」
イグナーツは再びビアンカ嬢と目を合わせた。彼女は眉尻を下げ、泣きそうな表情でこちらを見ている。
イグナーツは「ですから」と言った。
「俺はビアンカ嬢が思っているような、優しい人間ではありません。罪悪感も哀しみもなく人の命を奪えてしまう、あなたのような気高い方が一番近づいてはいけないような男ですよ。俺はどうせ戦場で果てる人間です、一緒になったところであなたを苦しめるだけで、何の得も……」
「やめて……やめてください!」
ビアンカ嬢は声を上げてイグナーツの言葉を遮った。そしてすっくと立ち上がると、イグナーツの前で跪いて、彼の片手を自分の両手で握った。
ビアンカ嬢は彼を見上げて言った。
「それ以上イグナーツ様がご自身を侮辱なさるなら、私が黙っていませんわ。あなたに心がないですって? それなら私を助けるために銃を撃ったりなんてしないはず。わざわざ私を助けるために規律を破って駆けつけて、私の名誉を守るために銃を撃った理由を言わなかったあなたに、心がないわけがありませんわ!」
イグナーツはビアンカ嬢の勢いにやや圧倒されながら「で、でも戦場では……」と口を開こうとしたが、彼女は「戦場でもです!」と先を続けた。
「戦いのときにイグナーツ様が相手のことを考えないようにしているのは、考えてしまえば撃てなくなるからですわ。それはすなわち自分の死を意味しますもの。きっと無意識のうちにイグナーツ様は銃を撃つ時にそうしているのですわ。生と死の狭間を経験しているのですから、当然のことです」
一度も戦場に出たことがないはずなのに、ビアンカ嬢の言葉は説得力のあるものだった。あれ、そうなのかな。深く考えないようにしているのか、俺は。
イグナーツにとって銃で人を撃つことはあまりにも自然であるので、それはわからなかった。とにかく正確に当たるように撃つと学んできたことは確かだ。でなければ引き金は引けない。引けなければ仲間の死者が増えるのである。
イグナーツが考えを巡らせているのをビアンカ嬢はじっと見ていたが、そのうちに「実は」と言った。
「軍人であるあなたをお慕いしていると自覚したとき、私、この国の軍隊の元帥か皇帝陛下、もしくは皇太子殿下の愛人を目指そうかと一瞬考えました」
「えっ」
イグナーツはぎょっとした顔でビアンカ嬢を見た。彼女はふふっと笑った。
「愛人としてうまく口出しできるようになれば、イグナーツ様を危険なところへ出動させないようにできますでしょう。戦争だって回避することはできますもの。もちろん、私の腕と話術次第ですけれど、あの父の娘ですからね、自信はありましたのよ」
そう微笑んだビアンカ嬢はいつにも増して艶麗に見え、イグナーツはごくりと唾をのんだ。
ビアンカ嬢は続けた。
「でも……すぐに考えを改めました。この国が軍隊を必要としなくなったら、イグナーツ様のお仕事を奪ってしまうことになりますから。私はあなたの生き方を否定するつもりはありませんし、あなたに銃を持ってほしくないなどと言うつもりもありませんの。ただ、あなたの無事を祈りたい。あなたのおそばにいてお支えしたかったのです」
イグナーツを見つめるビアンカ嬢の目は力強い光を放っていた。
「イグナーツ様にはちゃんと心があります。私が保証しますわ。近づくなとおっしゃられても、残念ながら従うことはできません。私はあなたをもうすっかり愛してしまっていますもの……イグナーツ様が私をお嫌いならそうおっしゃればよろしいのです。恋人はいないと聞いておりますが、あなたに振られたのなら潔く修道院に入りますから」
ビアンカ嬢は、離したりなどしないとでもいうかのように、握る手にぎゅっと力を込めた。言っていることと行動が逆である。イグナーツはそのことにじわじわと顔を赤らめながら「そ、そんな……」と呟くように言った。
「あなたを振るなんてこと、俺ができるわけないでしょう。俺はあの夜会のときからずっと……」
イグナーツは言いかけたが、ビアンカ嬢のきらきらした目を見ると何も言えなくなってしまった。顔どころか全身から熱が噴き出しているかのようだ。
だめだ。彼女には俺の気持ちなんてとっくにお見通しなんだろう。
握られていないもう片方の手で目元を覆いながら、「勘弁してください」と俯いた。
「俺ほんと……こういうのに慣れていないんです。気の利いたことも言えないし……俺を選ぶなんてセンス悪いですよ」
イグナーツが小さな声でそう言ったのに、ビアンカ嬢は「センスに関してはお互い様ですわ」と言った。
「ふふ、でも私はまだまだイグナーツ様の奥方になるために学ぶことがありますの。準備ができましたら、改めて求婚させていただきますから、お覚悟くださいまし」
そう笑ったビアンカ嬢は、とても嬉しそうだった。あの夜会のダンスホールではほとんど見せなかった表情だ。この笑顔を大切にしたいとイグナーツは思った。
父親クラッセン侯爵のことがあってつらいことも多かっただろうに、俺との結婚でこんな喜んでくれるんだったら、もうなんでもやろう。そうだ、ダンスを踊れるようにしたらびっくりするんじゃないだろうか。リッツ夫人は前に夜会に参加したことがあったから、きっとビアンカ嬢がまた夜会に出る機会があるかもしれない。と、そこまで考えたとき、イグナーツはデニスが言っていたことを思い出した。
「あ、あの! ええと、せ、戦時中のことなんですが……リッツ夫人が戦場まで来て物資を届けてくれることがあって……」
ビアンカ嬢が「ええ」と頷いた。
「差し入れですわね? 夫人は以前、毛布や枕をお届けにいったら隊員みんなが喜んでくれたとおっしゃっていましたわ。私もぜひ機会がありましたら」
「いや、絶対にやめてほしいんです!」
今度はイグナーツが彼女の両手をぐっと掴んだ。
「戦時中はいつどこから弾が飛んでくるかわかりません。野営地なんかはとくにそうです。訓練を受けているわけでもないし武器もないのに、そんな危ないところに来てはいけません。これは…………け、けけ、結婚する上での条件です」
うわ、俺何言ってんだ! イグナーツは自分で言って恥ずかしくなり、再び顔を赤らめて目を逸らした。ビアンカ嬢は「まあ!」と声をあげて笑みを深めた。
「それは私の求婚を承諾したということですわね、嬉しい!」
そう言ってイグナーツの左腕を抱きしめるので、かつて嗅いだことのある彼女の匂いが鼻をくすぐり、イグナーツは座っている腰の力が抜けてしまいそうになった。
慌ててがばっとその場で立ち上がると、ビアンカ嬢から距離をとるようにして手の平を彼女に向けた。
「ちょ、ちょ……ほんとに勘弁してください、慣れてないって言ったでしょう!」
突然大声を上げたイグナーツに、ビアンカ嬢はふふと笑いながら「ごめんなさい」と肩をすくめた。
「でも、ユルゲン様が言うには、イグナーツ様は誰とでも距離を取りたがるから強引にした方が早く慣れてもらえるとのことでしたので……」
大佐? 養女に入ったばかりの令嬢にそんなことを吹き込んだんですか?
「早いうちに慣れてもらわないと、結婚しても初夜まで十年かかると言われて……」
そんなことあるか!
イグナーツは熱い額に熱い手を当てながらため息を吐いた。
さすがに十年はない。十年はないが、確かに彼女が俺のお嫁さんになったとき、俺はどうなってしまうんだろう。毎日恥ずかしくて情けない姿を見られることになってしまうんだろうか。
その前にリッツ大佐から何かしらの洗礼を受けるかもしれない。結婚するにあたって、イグナーツはそれが一番恐ろしかった。
ビアンカ嬢は何か聞いているだろうかとイグナーツが尋ねようとしたときだった。
部屋の外から「まあ」とか「いつお帰りに」とか「お待ちを」などとざわつく声がした。それからダダダと足音が近づいてきたかと思うと、男が客間の入り口から姿を現した。
屋敷の主人、ユルゲン・リッツ大佐である。ここまで走ってきたようで、はあはあと肩が上下している。なにより怖い顔をしていた。
イグナーツははじかれたように背筋を伸ばして敬礼の姿勢をとった。
「リ、リッツ大佐、お、お邪魔しておりますっ!」
リッツ大佐はじろりと青年に目を向けると「ああ」とだけ言った。
なんだかいつもと様子が違う。これは……やはり養女となった娘の婿になる男が気に食わないからだろうか。
イグナーツがそんなことを思っていると、客間に「あなた、ほんとなの!?」とリッツ夫人が飛び込んできた。何か知らせを聞いたようで青い顔をしている。さっきまでにこにこしていたのにどうしたんだろう。何かあったんだろうか。
リッツ大佐は夫人に「ああ、ほんとうだ」と言うと、二人の若者の方を向いた。
「悪い知らせだーー東の国境が破られた。俺はもちろんだが、トット准尉……お前にも出動命令が出ている」
イグナーツは敬礼の姿勢をとったまま目を見張った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
今回のお話では戦争について触れておりますが、作者が戦争を賛美する意図はありません。