8. 貴婦人の目的
舞踏会の翌日。
イグナーツは朝いつもと同じ時刻にぼんやりと自室のベッドで目を覚ました。酒を飲んだわけでもないのに、頭がぼうっとしている。顔を洗うと眠気はとんでさっぱりしたが、心にはつっかえ棒があるようだった。
ずっと部屋に引きこもっていたかったが、訓練はいつものように行われるし、無断欠席でもしたら罰をくらう。ひとまず朝飯だ。
イグナーツは重い身体を引きずるようにして隊舎の食堂に向かった。
「おはよ、トット准尉。今朝は卵いるかい?」
隊舎の食堂でごはんを配膳している中年女性ゲルダの問いに、イグナーツは「もらおうかな」と言って受け取る。
「そういえばゲルダさん、昨日の茹で卵、ほとんど生だったんだけど何かあった?」
ゲルダは「あーあんたのもだったかい、悪かったねえ」と眉尻を下げた。
「ボイラーがいつのまにか壊れちまったらしくてねえ、まったく散々だったんだよ。昨日のうちに直ったから安心しとくれ」
イグナーツは「それでか」と頷いた。ゲルダは口をへの字に曲げて言った。
「いいかげんガタが来てるんだ、この隊舎。前にほら、リッツ大佐が食べた肉、あれだって蒸し焼きがうまくいってたら腹を壊さずにすんだんだよ。第三部隊のところが一番古いって、あんた知ってたかい?」
「他のとこはそうでもないって?」
「ここ以外は金持ちが多いのさ。ほら、大体貴族出身のやつがいると文句がつくだろ。第三部隊は平民が多いからね」
確かに、第三部隊員はこの隊舎よりも環境の整っていない家から来ている人間は多い。
イグナーツはふっと笑った。
「その方が気は楽だけど……そうか、貴族出身がいる隊舎はきれいなのか」
テーブルについたイグナーツはひとり静かに朝食を食べ始める。卵の殻を破ると、ゲルダの言う通り今日の茹で卵はしっかり固まっていた。むしろ固まりすぎて殻に白身が張りついてるなと思いながらイグナーツが食べていると、「おい、イグナーツ!」と、いきなり大きな声で呼ばれて背中をバシッと叩かれた。
「……デニス、びっくりするから急に叩くのはやめろって言ってるだろ」
現れたデニスは、イグナーツの抗議をさっぱり無視して興奮したように言った。
「それよりビッグニュースだ! クラッセン侯爵がとうとう昨日捕まったらしい!」
イグナーツは目を細めた。上官たちの作戦はうまくいったらしい。
「そうか」
イグナーツは殻をよけながら卵を食べるのを再開させた。デニスはそんな友人に瞠目した。
「そうかってお前、それだけかよ! あの侯爵の話だぞ?」
「昨日の夜が勝負だってランクル少佐から聞いてたから、そうだろうって思ってた。それで、侯爵の処分は決まったのか?」
「あ、いや、今の時点ではまだなんだけどな」
デニスはイグナーツの隣に椅子を持ってくるとガタンと座って話し始めた。
「裁判は明日のうちだってよ、ほかと比べたら異例の早さだろ。もう証拠も何もかも出揃ってるから言い逃れはできねえ状態だそうだ。ただ決定的なのは爵位の剥奪。侯爵領は浮いちまって王家に返されるって話だ」
「え?」
イグナーツは驚いた声をあげた。
「娘がいるだろう、侯爵家を継げないのか?」
デニスは首を振った。
「令嬢は当然無実だし法的にも継げるはずなんだがよ、さっき聞いた噂じゃ彼女は辞退するらしい」
イグナーツは眉を寄せて「辞退?」と繰り返した。
「なんでだ、軍部が無理矢理そう言わせてるんじゃないだろうな」
「ランクル少佐がいるんだからそれはねえ。彼女の独断なんだろ、貴族のご令嬢が何を考えてるかなんて俺にゃわからねえ。だけどさ」
デニスは少し声を低くすると、イグナーツにしか聞こえないように言った。
「ご令嬢は求婚の嵐になるってディーボルト中尉が言ってたぜ。まあ貴族だから今までもそういう話は来てたらしいけどよ。そういうのは侯爵領を狙ってる連中だろ。今朝彼女が爵位を辞退すると発表した時点で、貴族だけじゃなくて資産家とか銀行家も名乗り出てるって噂だ。父親が罪人でも、やっぱり由緒ある侯爵家出身の娘となりゃ箔がつくからな」
箔がつくだと。イグナーツは思い切り顔をしかめた。そして食べかけていた卵を一気に平らげてから言った。
「ばかな輩がいるとはいえ、侯爵令嬢を本気で思ってる貴族の男もいるだろうし、彼女は聡いからちゃんと見分けがつくはずだ。間違った選択はしない」
イグナーツの言葉に、デニスは「はあ?」と声を上げた。
「何言ってんの? お前も名乗り出ろよ。求婚者のなかには軍人将校たちもいるんだ、早くしないと取られちまうぞ」
「取るとか取られるとかっていう話じゃない。彼女がどう選択するかだ」
「おいおい、悠長なこと言ってる場合じゃねえんだって! とりあえず手紙書けよ、もう侯爵の目を気にする必要もねえんだ。堂々と郵便で出せるぞ」
「書かないし出さない」
イグナーツは席を立つと空になった皿を持った。そして隣に座っていた眉を寄せている友人を見下ろす。
「手紙は苦手なんだ……また訓練をすっぽかすわけにもいかないからな」
そう言うとイグナーツは、納得がいかない顔で「ほんとにそれでいいのかよ!」と大声で怒鳴る友人を無視して食器を配膳口の後ろに片付けると、食堂を後にした。
思ったより早かったな、とイグナーツは思った。
まだ侯爵の処遇も決まっていないのに、もう彼女は次の選択を迫られているらしい。彼女の暮らしの面ではランクル少佐が気を配るって言ってたけど、貴族と結婚するのが彼女にとって一番良いはずだ。でなきゃあの洗練された物言いやふるまいが無駄になってしまう。きっとあのレジナルド侯爵みたいな男の求婚を受け入れることになるんだろう。
イグナーツはこのときはそんな風に考えていた。
しかしそれから一週間後のことだった。
夕食後、イグナーツは食堂から隊舎に戻る廊下を歩いていた。
途中でがやがやと話している隊員たちとすれ違う。その噂話は嫌でも耳に飛び込んできた。
「聞いたか? あのランゲル中将とかゲッツィー大佐の息子も件のご令嬢に求婚するって名乗り出てるらしいぞ」
「ひえ、大した人気だな」
「その辺が相手ともなると、フリーゼ少尉は望み薄だな」
「えっ、フリーゼ少尉って第二部隊の!?」
「少尉は母方が男爵家に繋がるだろ。でもやっぱあのご令嬢だって腐っても名家の生まれなんだから結局名家に拾われるんじゃないか」
「父親が大罪人でもか? 俺はちょっと考えるねえ」
「確かに軍人としちゃ、出世に響くことは間違いねえな。だけど彼女を見たか? すっげえ美人なんだぜ、匂いもしてきそうでさ。惜しいよなあ」
勝手なことを言う。彼女のことを知りもしないくせに。イグナーツは聞こえてくる会話に、ふつふつと怒りが湧いてきて思わず拳をぎゅっと握りしめる。彼は自分で気づかないうちに怖い表情を浮かべながら歩いていた。
そのうちに、燭台の灯りで照らされた廊下の向こうの窓口に、軍人が一人と見慣れない姿の人物がふと目に入った。服装からして女のようだ。
もしかして、またエルネスタが手紙を届けにきたのだろうか。そばにいる軍人に追い出されそうになっているのかもしれない。
心配して歩みを早めたイグナーツは、近づくにつれてそこに誰がいるのかがはっきりとわかり、思わず立ち止まってしまった。
嘘だろう、ビアンカ嬢じゃないか。
思わず目を疑ったが、間違いではなかった。
侯爵が捕まったのは一週間前。今日になって彼女は連行されてきたのだろうか。
だがそばにいる軍人がランクル少佐だとわかると、イグナーツはほっとした。連行されてきたのではない、保護されたのだ。
イグナーツは立ちつくしたまま彼女を遠目から見た。
先日の舞踏会のときのような装飾の施されたドレスよりもずっと簡素なワンピースを着ているが、あの背筋の伸びた威厳ある佇まいに変化はない。髪の毛もきちんと結いあげている。
それが目に入るのと同時に、彼女がレジナルド侯爵と踊っていたあの絵のように美しい光景を思い出し、イグナーツは自分の心臓の音が急に大きくなったのを感じた。呼吸も浅くなっている。
だめだ、彼女には会えない。舞踏会でダンスの誘いを断ってしまったことも気まずい。なにより彼女はもうすぐ誰かと結婚してしまうのだ。どんな顔で会えばいいのかわからない。おめでとうと言える気がしなかった。
このまま会うのを避けて自室に戻った方がいいと思ったイグナーツは立ち止まった脚をぎこちなく動かして回れ右をしようとした。
ところが「トット准尉!」とランクル少佐の呼ぶ声が響いた。
イグナーツは、自分は人より視力が良いと自負していたが、ランクル少佐も同じほどの視力を持っていることを思い出した。呼ばれたからには行かなければならない。
イグナーツは自分の痛む胸元をドンと拳で叩いてから息を吐くと、まっすぐに窓口の方に向かった。
「ランクル少佐、お呼びでしょうか」
イグナーツは上官の前まで行くと敬礼をし、少し上に視線をやって彼女を見ないようにした。
このまま用事を言いつけて解放してくれないかと願ったが、ランクル少佐は「私よりもこちらの方に挨拶を」と逃してはくれなかった。
イグナーツは覚悟を決めて客人の方を見た。
「こんにち、あ、いや、こ、こんばんは、ク、クラッセン侯爵令嬢」
きりりとした表情で彼女と目を合わせることができたのにしょっぱなから挨拶を間違えたので、結局赤い顔で俯くことになってしまった。
しかしビアンカ嬢は気にした様子もなく笑みを浮かべた。
「こんばんは、イグナーツ様。先日の舞踏会ではお忙しい中にもかかわらず、お相手していただいてありがとうございました。とても素敵な夜でした」
イグナーツは喉がぎゅっと締め付けられるように感じた。
「とんでもありません。俺はその……」
謝れ、とにかく謝るんだ。イグナーツは懸命に口を開けた。
「あ、あ……あなたにとても失礼なことをしてしまいました。俺のせいで、ほんとうに申し訳ありませんでした」
イグナーツが勢いよく頭を下げたのに、ビアンカ嬢は驚いたように「そ、そんな……頭を上げてくださいまし」と言った。
「私がいけなかったのです。考えなしでしたわ、むしろあなたに恥をかかせてしまって……私も心からお詫びいたします」
イグナーツは頭を上げたが、恥ずかしくて彼女の顔を見ることはできなかった。
少しだけ沈黙が流れた後、ランクル少佐がうおっほんと咳ばらいをして「話をしていいですかね」と切り出した。
「トット准尉、もうすでにあなたの耳にも入っていることと思いますが、クラッセン侯爵は先週のうちに拘束され、今は留置所にいます。爵位剥奪も時間の問題でしょうから、私がこうしてご令嬢を保護させていただいております」
本人がいる前でよくそんなことが言えるなこの人! イグナーツはぎょっとしてビアンカ嬢の顔色を窺ったが、彼女は小さく微笑んだだけだった。
ランクル少佐は「それでビアンカ嬢の今後のことですが」と続けた。
「養女という形である軍人の家に入ることになりました。彼女はこれからそちらへ向かいます」
「養女に、ですか」
親戚だろうか。いや、そうであればもっと早急に手が打たれているだろう。もしかしてランクル少佐が? いや、少佐は独身だから微妙な立場になるか。
どちらにせよ高貴な家柄に違いないとイグナーツが勘ぐっていると、ランクル少佐がため息を吐いて「それがですね」といつになく低い声で言った。
「私としても信じられませんし信じたくもないのですが、なんとリッツ大佐の家なのです」
イグナーツはぎょっとして耳を疑った。
「えっ…………あの、リッツ大佐ですか?」
瞬時に、がははと笑う熊のように大きな軍人の姿がイグナーツの頭によぎる。確かにご結婚されていて夫人もいて大きなお屋敷に住んでいるけど、まさか。
イグナーツの驚く様子を見て、ランクル少佐は浮かない顔で頷いた。
「そう、残念ながら我が国のリッツ大佐といえばあの人しかいません。私は全力でお止めしたのですが、彼女は聞こうとはなさらないのです」
ビアンカ嬢は二人の様子にくすりと笑みを漏らした。
「だって養女にと心よく申し出てくれましたのよ。あの方は父と同じ歳ですし、裏表のない方だとお見受けしましたので」
「だからと言って……」
ビアンカ嬢がそう言っても、イグナーツは同意できなかった。あの人が父親になるなど、俺だったら絶対にお断りだ。第一に身体がもたない。
「ほかに同じような条件の家があるでしょう。そ、それにその……あなたには結婚の申し込みがたくさん来ていると伺いました」
ビアンカ嬢は「あら、そんなもの」と鼻で笑うように言った。
「もちろんお受けするつもりはありません。すべてお断りいたしました」
「え……すべて?」
イグナーツは目をぱちくりさせた。
「冗談でしょう、今まで通りの暮らしができるのに! 貴族の中でもまともな求婚者もいたのでは? 少なくともリッツ大佐の養女になるよりはよっぽど……」
「イグナーツ様」
ビアンカ嬢は真剣な表情でイグナーツを見上げた。
「私は今までのような暮らしは望んでいません。爵位相続を放棄したのもよく考えた上での結論です。実を言うと……私、どうしてもかなえたいことがありますの。リッツ大佐はそれに大いに賛成して、協力すると請け合ってくださったのです。私の目的のためにはリッツ大佐のお力が必要なのですわ。どうかわかってください」
その言い方はもう決めたのだと言わんばかりで、イグナーツは眉尻を下げて上官の方を見た。ランクル少佐は肩をすくめただけだった。確かにこの上官なら、あらゆる説得を試みたはずだ。しかしこの様子では無理だったのだろう。
イグナーツは頭をかきながら言った。
「そう言われては…………もちろんリッツ大佐は良い方ですし、俺も十代の頃からお世話になっています。誰かを見捨てたりするような人じゃないし、隊員からの信頼もあります。なにより情に厚い」
「暑苦しいくらいですよ」
ランクル少佐がやや残念そうな顔をして口を挟んだ。
「トット准尉でも説得できなくて残念です。いいですかビアンカ嬢、あの人はいつでもイノシシのように突進してきますからね……まあリッツ夫人はめんどうみがよく快活な性格ですから、決してリッツ家がひどい環境というわけではありません。ただ覚悟は必要ですよ、このトット准尉だって毎度犠牲になってるんですから」
イグナーツは慌てて「犠牲だなんて」と首を振った。
「確かにきついですけど、相応の訓練です。それにリッツ大佐でも、ビアンカ嬢にまさか一日中薪割りやら剣の素振りやらはさせませんよ」
ランクル少佐はわざとらしく眉を寄せながら「どうでしょう」と言った。
「リッツ大佐のことですからわかりませんよ。とにかく自分と他人の身体を虐めるのが趣味みたいな方ですから。私が入隊したときにはすでにああだったんです。ほんとうにぞっとする」
「でも、俺思ったんですけど、もしかしたらビアンカ嬢に感化されて落ち着くかも……」
「そんなオペラ喜劇のような展開になったら私は泣いて喜ぶどころかあなたの前で逆立ちして隊舎を三周しますよ」
二人の会話に、ビアンカ嬢はくすくすと笑った。ランクル少佐が「ほんとうに笑い事ではないんですよ、ビアンカ嬢。わかっていますか?」と困ったように彼女に言ったのに、令嬢はますます楽しそうに笑い声を上げた。
イグナーツは彼女の顔をちらりと盗み見た。その笑いが造られたものではないとわかるとほっと胸を撫で下ろす。
ビアンカ嬢は笑いを収めてから言った。
「お二人とも、私のためにありがとうございます。私だってリッツ大佐とお話ししましたのよ、その上で決断しました。どうかご安心ください」
ランクル少佐は「やれやれ」と肩をすくめた。
「安心できたらどれだけよかったことか。まあ今更ぐちぐち言っても仕方ありませんからね、こちらも準備をさせていただきますよ」
少佐がそう言って廊下を歩き出そうとした時、ビアンカ嬢がふいに「あ、あの」と引き止めた。
「不躾な願いで申し訳ないのですが、その、もし可能でしたらイグナーツ様とお二人でお話しさせていただけないでしょうか。その、少しだけでもよろしいので」
二人で話す……? 何を? イグナーツは目をぱちくりさせたが、少佐は何も疑問を述べることはなくあっさり「ええ」と頷いた。
「かまいませんよ。なんなら准尉室に行かれては? 後で迎えに参ります」
准尉室って……俺の部屋!? 令嬢を俺の部屋に!? おかしいでしょう! イグナーツは懸命に上官に抗議の視線を送ったが、しっかりと無視されてしまった。
「ありがとうございます」と頭を下げる令嬢に、ランクル少佐は「いえいえ、どうぞごゆっくり」と薄く微笑むと、イグナーツに向かって「さあトット准尉、早くお連れしてさしあげなさい」と有無を言わさない様子で廊下の先を指した。
イグナーツは、せめて誰ともすれ違わないようにと願いながら、ビアンカ嬢を自室にまで連れていった。自分といるところを見られてしまったら、彼女が何かひどい中傷を受けるかもしれないのだ。間違っても“ラミア”だなんて言われたら、イグナーツはもう彼女の前に顔を見せることなどできないと思った。
幸いこの夕食時は、ほとんどの隊員たちが食堂にいるので、誰かと顔を合わせることはなかった。途中で、建物の向こう側に見える渡り廊下からおしゃべりしている隊員たちの影が見えてイグナーツはドキリとしたが、彼らはこちらに気づいていないようだった。
無事に准尉室にたどり着くと、イグナーツはほっと息を吐いて部屋のランプに灯をともした。部屋の中がぼんやりと明るくなる。
部屋は頻繁に上官の見回りがあるためにちらかしてはいなかった。というよりも家具や物をほとんど置いていないので、改めて見る殺風景な空間に、イグナーツは少し恥ずかしくなった。
あるのは備え付けのベッドと書き物机、洋服たんす、それから小さな丸いテーブルと椅子くらいで、壁の隅には小銃と剣がかかっており、小さな棚には軍から支給された肩掛け鞄と双眼鏡を置いているだけだった。
そういえばランクル少佐の部屋に入った時はきれいな茶器が並べてあったし、ディーボルト中尉は蔵書がすごかったっけ。
「そ、その……い、椅子に座ってください」
一つしかない、しかも音が鳴りそうな椅子を勧めると、ビアンカ嬢は「ご親切に、ありがとうございます」と言って優雅なしぐさで腰かけた。
イグナーツはどうしたらいいのかとそわそわとしていたが、ビアンカ嬢が口を開いた。
「お忙しいのにお時間をいただいてしまってごめんなさい。私はその……」
そう言いながらビアンカ嬢は部屋の中を見回していたが、ふと壁際に目をとめた。
「あの……あの銃はイグナーツ様がいつもお使いになっているものでしょうか」
イグナーツは「え? ええ、まあ」と言いながら壁から銃を取った。安全装置の部分を確認してからビアンカ嬢が良く見えるように灯りに照らしてみせた。
「最新式ではありませんから古ぼけて見えるかもしれませんが、一番手に馴染んでいます」
「そう、ずいぶん使い込んでいますのね」
「単に買い替えるための金を持ち合わせていないだけなんですけど」とイグナーツは自嘲するように笑ったが、ビアンカ嬢は真剣な目で銃を観察していた。
銃をこんなに間近で見て怖いと思わないんだろうか。イグナーツがこっそり彼女の顔色を窺っていると、ビアンカ嬢が先端の丸くなった細い棒を指して「これはなんですの?」と言った。
「あ、これはボルトと言います」
イグナーツは銃を抱え直した。
「これを動かすことで次の弾が準備されるんです。全部で五発撃てます」
銃口を下に向けながらイグナーツはガチャンガチャンとボルトを動かしてみせた。
ビアンカ嬢は突然「五発……そうだわ!」と声を上げた。
「イグナーツ様、この銃の弾を取り出すことはできますか」
「え? ええ……できますよ」
ガチャガチャとイグナーツは銃の弾倉を見せると、傾けてジャラリと細長い弾を取り出して手のひらに乗せた。ビアンカ嬢はしげしげとそれらを眺める。
こんなもの、ほんとうに興味があるんだろうか。というか怖くないんだろうか。イグナーツが疑問に思っていると、ビアンカ嬢がためらいながら言った。
「あの……不躾ですが」
ビアンカ嬢は言った。
「どうかこれを私にいただけませんか」
イグナーツは「え」と目をぱちくりさせた。
「た、弾を、ですか?」
冗談を言っているのだろうかと思ったが、ビアンカ嬢は至極真面目な顔をしている。
イグナーツは困ったように「ええと」と言いながら弾を握ったままの手で頭をかいた。
「も、申し訳ありません、その……武器はすべて例外なく、軍部に所属している者以外にはお渡しすることはできないんです。そ、その、事故があったときの責任問題と言いますか……ほんとうに申し訳ありません」
イグナーツが遠慮がちに言うと、ビアンカ嬢はかあっと顔を赤くさせた。
「ご、ごめんなさい! そうですわよね、私ったらほんとうに考えなしですわ。どうか、お忘れください」
恥ずかしそうに俯いてしまった令嬢に、イグナーツは「い、いえ、俺も、その……融通が利かなくてすいません」と慌てて言い繕うと、いそいそと弾を弾倉に戻し、銃をもとあった壁にかけた。
「その」
イグナーツが言った。
「な、なんで、弾がほしいんですか。怖くはないんですか、これ一つで人を殺めることもできる。とても危険なものですよ」
イグナーツの問いに、ビアンカ嬢はぱっと彼の方を見た後、後悔したような顔になって俯いた。
「そう……ですわね。そのような思いを抱きながらイグナーツ様は銃を扱っていらっしゃるのだわ。軍人の方であれば常にきちんと考えてらっしゃるというのに、私は……」
「い、いや、別に大して考えてませんけど、その、驚いて……。ビアンカ嬢が怖がったりしないのは、やっぱり嬉しいですよ」
イグナーツの言葉にビアンカ嬢は顔を上げ、ふっと笑みを浮かべた。それから少しだけ膝の上で握り合わせた自分の手を見つめていたが、意を決したように「イグナーツ様」と言った。
「先程、私にはどうしてもかなえたい目的があると申したことは、覚えておいででしょうか」
「え? ええ。そのためにリッツ大佐の養女になると」
イグナーツが言うと、ビアンカ嬢は頷いた。
「私のその目的をかなえるためにはーーある程度の時間が必要になります。私が未熟ですから……その、つまり、私の目的は」
ビアンカ嬢が珍しく言葉を詰まらせて迷いながら話している。イグナーツはなんだろうと耳を傾けた。
**********
「嘘だろ、クラッセン侯爵令嬢がリッツ大佐の養女だって!?」
ビアンカ嬢が去った後の夜間訓練は、山の坂道の長距離を走るという内容だった。
走りながら、イグナーツは友人のデニス・ロルムにビアンカ嬢の養女入りに関することを話した。デニスはひとしきりぎゃはははと笑ったが、走っているので案の定むせたようにごほごほと咳き込み、苦しそうな顔をして息を整えてから言った。
「はあはあっ、あ、あぶねえ……走りながら大笑いするもんじゃねえな……そんで……リッツご令嬢になるわけか……ま、確かにランクル少佐が心配するのもわかるけど、さすがにあんな令嬢然とした人を前にしちゃ、大佐も圧倒されるんじゃねえかな」
イグナーツは「笑いすぎだ」と言った。
「求婚は全部断ったって言ってた……リッツ大佐の養女になることで、目的を達成したいって」
「へえ、全部ってところが潔くていいな! で、目的ってなんだ?」
「それが……」
続きを話そうとしたところで、「トット准尉、ロルム軍曹!」とディーボルト中尉が後ろの方から怒鳴る声が聞こえた。
「無駄口を叩いている余裕があるようだな! お前らだけ往復3周追加だっ!」
イグナーツとデニスは後ろを振り向かないまま「げえ」と顔を歪ませると、その後はもう黙って走り続けた。
夜半過ぎ、ようやく走り終えたイグナーツとデニスは、ふらふらと隊舎前の水飲み場まで帰ってくると喉の渇きを潤した。
デニスはふうと息を吐いて口元を左手でぬぐった。
「やーれやれ、やあっと終わった……夜明けまで走ることになったらどうしようかと思っちまった」
「ディーボルト中尉もさすがにそこまで鬼じゃないだろ……他のみんなはとっくに隊舎に戻ってるみたいだな」
「くっそー、明日の朝練免除してくれねえかなあ」
友人の言葉にイグナーツはふっと笑ったが、その後しんと静まり返った水飲み場を見渡してから「あのさ、デニス」と呼びかけた。
「お前、オクガタサマって何か知ってるか?」
デニスは眉を寄せた顔を上げた。
「なんだ、藪から棒に」
「そのさ……さっき例のクラッセン侯爵家の令嬢がリッツ大佐の養女になる話、しただろ」
「したした、なんか目的があるって」
デニスはすぐそばの隊舎の石段の上にドサリと腰かける。イグナーツは友人の前に立ったまま言った。
「その目的がさ……その、俺の“オクガタサマ”になるって言うんだ」
「は……?」
デニスは目を丸くさせ、イグナーツは言いづらそうに頭に手をやって続けた。
「デニス、“オクガタサマ”ってなんだ?」
「はあっ?!」
今度は顔を歪めた怒りの形相になった友人に、イグナーツは少し身を縮めた。
「イグナーツ、お前……そんなことも知らねえのかよ!? いや、知らねえってことあるか? 確かにこの前“スマートってなんだ”とか聞いてきたけどよ、わざとか、わざとなのか?」
「……社交界で使われてる単語なんか知るわけないだろ」
イグナーツは小さい声で言い訳したが、デニスは表情を変えぬまま腕組みをした。
「社交界だけじゃねえ、なんなら場末の酒場でも冗談で使われてるぞ……それで? お前、彼女になんて言ったんだよ」
「正直に、“オクガタサマ、とは何ですか”って訊いた」
「だろうな。それで彼女は?」
「びっくりしてたけど、すぐに“ごめんなさい、わかりにくかったですね”って言ってくれた。で、その後は“実は私も軍人のオクガタサマについて何も知りません。だからリッツ大佐の家で学びたいんです”って言ってた」
デニスはじとっとした目で友人を見上げたまま何も言わない。イグナーツは視線を受けながら頭をかきかき続けた。
「ええと、結局彼女との話はそれで終わったけど、それから俺もちょっと、オクガタサマについて考えたんだ。“軍人の”ってことは、軍部のことかなって思ってさ。もしかしてゲルダさんみたいに食堂で働きたいってことかな」
「馬鹿野郎」
デニスは自分の頭をわしゃわしゃとかきむしると、勢いよく立ち上がって友人の肩に手を置いた。
「いいかイグナーツ、よーく聞け」
デニスは咳払いをしてから言った。
「奥方様ってのは、妻、つまり嫁さんのことだ」
デニスの言葉に、イグナーツは目をぱちくりさせた後で苦笑いを浮かべた。
「……そういうのいいから。ほんとうはどういう意味か教えてくれよ」
デニスは眉をしかめて「これが冗談言ってる顔に見えるかよ」と舌打ちしてから咳払いすると、真正面からイグナーツの顔を見て言った。
「こんな大事な話に嘘言うはずねえだろ。クラッセンのお嬢さんはな、お前の嫁さんになりたいって言ったんだ、間違いねえ。奥方様ってのはそういう意味なんだ」
友人の真剣な表情に、イグナーツはようやく理解したようで、まるで新しい景色を見たかのような驚いた表情を浮かべると、「え……え、え?」と声を漏らした。
デニスはやれやれと息を吐いてから言った。
「そのお嬢さん、そんなにお前のこと好きだったんだな。わざわざリッツ大佐の養女になるって話もこれで納得ってもんだ」
「な、んで……」
「あの人、本部でも上の人間だろ。平民のお前を気に入ってる上位の将校なんて限られてるからな。確かにリッツ大佐ならお前との仲を取り持ってくれるだろうし、養女として家に入ればリッツ夫人が軍人の嫁さんとして何してんのかよくわかる。貴族やら資産家からの求婚を全部断ったってのも、そもそもお前以外と結婚するつもりはなかったからってことだ」
イグナーツは目を丸くさせたまま後ずさった。
「え……けっこん……よ、嫁……あの人が? え……な、なんで俺を……」
「知るかよ、自分で聞け。ったく、お嬢さんもなんで“奥方様”の意味も知らねえような奴に惚れちまうんだよ」
デニスはふんと鼻を鳴らした。
「けどよ、イグナーツ。心当たりが全くないとは言わせねえぞ。手紙だってもらってたんだし、何度か話もしたんだろ。しかも今日は部屋で二人っきり。いいか、相手は貴族の家で育ったご令嬢だぜ? しかもついこの前までは軍人に対して警戒してたんだ、そんな彼女がこの第三部隊の誰に対してもおんなじようにふるまうと思うか?」
イグナーツはふらふらとデニスの横に座り込んだ。
確かに。言われてみれば思い当たる。思い当たるが、イグナーツはどうにも信じられなかった。だって俺は彼女に好意をもたれるほど彼女と長く時を過ごしていない。この前の舞踏会で妙に親しげだなとは思ったが、それは窮地を助けたから警戒しなくなったんだと思っていた。それに助けるなんてのは軍人として戦時中にもよくあることだ。
考え込んでいる友人の背中を見て、デニスはため息を吐くとぽんぽんとその丸まった背中を叩いた。
「まあ、手紙でも出して本人に確かめてみろ。こういうのは誤解があっても困るからな。リッツ家なら住所もわかるし。とにかく早く帰って寝ようぜ」
「う、うん……」
立ち上がった友人に促され、イグナーツも頷いて腰を上げた。
それからは二人とも静かな廊下を歩いた。歩きながらイグナーツが小さな声で「あのさ、デニス」と言った。
「その、彼女がリッツ大佐のところで学ぶって、何を学ぶのかな」
デニスは肩をすくめて「いわゆる、軍人の妻がやるべきことじゃねえか?」と言った。
「社交界に参加するってこともあるだろうし、リッツ大佐はでかい屋敷を持ってるから、大佐の留守中の屋敷の管理もしてるはずだ。まあその辺は貴族とそんなに変わらねえと思うが。あ、あとは、差し入れとかじゃねえの」
「差し入れ?」
「そうそう……レート戦のとき、時々妙に飯が豪華だったり、野営地に柔らかい枕と毛布が支給されたの覚えてるか? ありゃ全部リッツ夫人が用意して持ってきたんだって聞いたぜ」
イグナーツはそのときのことをぼんやりと思い出した。
そうだ、あの寒くて今にも雪が降るのではないかと震えていた夜のことだ。作戦会議を終えてリッツ大佐のテントから出た時、ちょうど目の前に大きな馬車が到着したところだった。扉が開いて出てきたのがリッツ夫人だったのをイグナーツはよく覚えている。そうか、あの夜だったな、毛布と枕が来たのは。あれはほんとうにありがたかった。
イグナーツはそのときのことを思い浮かべてからはっとした。
「ちょっとまて。もしそうなら、軍人の妻になったら戦地に出向かなきゃいけないのか? いつ何が起こるかわからないあんな危ない場所に? 訓練も受けてないし銃も持ってないのに?」
イグナーツが少し詰め寄るようにデニスに問うと、彼は「し、知らねえよ」と後ずさりながら言った。
「別に軍人の嫁さんみんながそうしてるわけじゃねえよ。ほら、ドルイ戦の指揮官はバルツァー中将だったけど、バルツァー夫人はそのとき仮面舞踏会に連日通ってたって噂だ。まあ、あれだ……女の世界にもいろいろあるんだよ」
あ、そうか。戦時中は長いこと家を空けるから、妻が浮気しないか心配だって言ってる将校もいたっけ。
しかしイグナーツは、ビアンカ嬢が戦場に差し入れにくる姿も、連日仮面舞踏会に通う姿も全く想像できなかった。そもそも自分の妻になんて、正気だろうか。
ひとまずデニスの言う通り、手紙を書いて確認してみた方がいいかもしれない。リッツ大佐の屋敷にならいつも雑用で書類を送っているから住所も覚えている。
イグナーツがそう考えていると、廊下の分かれ目に出た。准尉室はすぐそこ、デニスの寝床のある部屋はもっと先である。心細そうな表情を浮かべているイグナーツに、デニスは苦笑いを浮かべた。
「とにかく寝ろ。朝練が終わったら一緒に手紙の内容考えてやるから」
友人の申し出にイグナーツはほっとしたような笑みを浮かべたが、デニスは次のようにも続けた。
「けど、イグナーツ。相手はリッツ大佐を味方につけてるからな。万事うまくいったとしても、たとえ除隊しても、あの人からは逃げられねえってことは覚悟しておけよ。今のうちに普段より多めに筋トレしとけ。薪割りとかさ」
そういうと、友人は廊下の先へと歩き始めた。なんで薪割りなんか。イグナーツはデニスの背中を見ながらむっとしたが、ふと思いとどまって考えた。
万事うまくいったとしても。ビアンカ嬢はリッツ大佐の養女になる。もし万が一彼女が俺のお嫁さんになったら? まさか……リッツ大佐が俺の義理の父親になるのか!? そんなことになったら確実に死んでしまう!
「デ、デニス! 彼女の養女入りをどうにか思いとどまらせる言葉を考えてくれないか」
イグナーツが慌てて声を張り上げたが、彼は振り返ることなく手をひらひらと振った。
「応援するぜ、リッツのご子息様。息子には特別訓練が用意されてるかもな」
「デニスッ!」
イグナーツの怒鳴り声とデニスのぎゃはははと笑う声が廊下に響いた。それに対して隊舎の寝床から「うるせぇっ!」「早く寝ろ!」「何時だと思ってやがる!」「リッツ大佐を呼ぶぞ!」という怒鳴り声が反響してきたので、イグナーツは慌てて自室に戻った。