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7. 再び舞踏会で


 第一皇女の誕生を祝う舞踏会は、華やかなものであった。床はぴかぴかに磨かれ、あちこちに花の生けられた花瓶が飾られて、花飾りがあちこちの壁にかけられている。

 広いホールの天井からはシャンデリアがいくつもぶら下がっており、その下ではギラギラした衣装を身にまとった人々がひしめきあっていた。精鋭の楽団員たちがずらりと並び、とにかくひっきりなしに音楽が流れている。ホールの中央では、音楽に合わせて大勢の男女がくるくると優雅に踊っていた。


 イグナーツはそんな様子を遠くから眺めていた。

 入り口で差し出されたシャンパンはすでに飲み干してしまった。ホールの奥に行けば行くほど人が多く熱気がある気がして、イグナーツは入り口付近でとどまっていた。きっと彼女はあの中にいる。

 クラッセン侯爵令嬢が心配だからと夜会に繰り出したが、イグナーツはとてもあの辺りにいる連中と渡り合える気がしなかった。それどころか軍服を着ている自分が近づけば場違いだと放り出されそうである。前の夜会で気軽に話しかけてくれたディーボルト中尉も今夜は任務だ。

 ほんとうであれば、最奥の玉座にいる皇女に誕生日のお祝いの言葉を言うべきなのかもしれないが、イグナーツは彼女と顔を合わせたことがない。貴族たちに囲まれているのなら自分が近づくこともできないだろう。

 せめて彼女の姿を探すか。ダンスになんか誘えやしないけど、遠くから見守ることならできる。

 イグナーツは通りかかった召使いに空のグラスを渡すと、のろのろとホールの中央へと足を進めていった。


「皇女殿下はますます美しさに磨きがかかって」


「ロールフント子爵をご覧になった? 上着にダイヤが6つも並んでいたわ」


「今夜は皇女殿下とお話しできそうにないな」


「公爵が彼女をダンスをお誘いになったけど断られたそうよ」


 あちこちで飛び交う噂話に、イグナーツは頭がくらくらしてきた。しかし、今のところクラッセン侯爵令嬢の悪口ではなさそうだ。よかったよかった、と胸を撫で下ろしたそのとき、どこからか“クラッセン”という名前が聞こえた気がしてはっとした。

どこだ、誰だ。

 イグナーツは耳をそばだてて辺りに注意を配った。


「……でもクラッセン侯爵ご自身は何の手立ても打たなかったらしいわ」


「まあ、それでは侯爵家にはお金がないのかしら」


 あそこだ。イグナーツはバルコニー近くで会話している中年の女性二人の会話を聞きつけると、そろりそろりと近づいていった。


「いいえ、大変なお金持ちよ。私が思うに、相手が領民だから本気にしていなかったのかしらね」


「ビアンカ嬢にはお気の毒」


「軍隊が出動して助けられたってきいたわ」


「軍人ってこういうときにしか役に立たないけど、まあよかったわね」


 こういうときにしか役に立たないって。イグナーツは少し複雑な気分になったが、まあビアンカ嬢の悪口ではないからいいかと聞き流した。

 それから二人の婦人は今度は皇女の話をし始めたので、イグナーツはほっとして再びほかの招待客に関心を向けた。



「まあその扇、なんて素晴らしいのかしら」


「あの人無作法ね。あのいやらしい目を見た?」


「なんとか口実をつけてお会いしたいものだ」


「我々にもダンスに誘うチャンスはあるということかな」



 不穏な会話は聞こえてこないが、とにかく情報量が多い。イグナーツはくらくらする頭を抱えながら、件の令嬢の姿が見えないことに不安を感じていた。

 今夜は父親がいないから、暗い部屋の片隅でうずくまっているということはないはずだ。これだけ大勢の人がいるのだから見つけにくいのは承知の上だが、このまま見つけられずに帰ることになるかと思うと、ちょっぴりがっかりである。

 人の多い玉座の方に近づいてみようかと思ったそのときだ。再び“クラッセン”という名前がすぐ近くで聞こえた。


「軍隊が助けたというけれど、まさかそんなことが起こったなんて驚きね」


「農夫たちにさらわれるなんてこと、どうして許したのかしら。領民を管理しきれていないということでしょう」


 これは間違いなくクラッセン侯爵の一件である。話しているのは、テーブル近くにいた若い婦人二人のようだ。イグナーツは自然な様子で彼女たちの背後に回った。


「お父上はすぐに助け出そうとはなさらなかったようよ」


「軍隊が駆けつけて農夫たちが諦めて出てきたって聞いたわ」


「クラッセン侯爵のご令嬢が誘惑したのではないの」


 なんだって? 聞き耳をたてていたイグナーツは眉をぐっと寄せた。


「ああ、たしかにお父上が厳しい方だから、領民に自分から手を出そうとしたということは考えられるわね」


「今回の騒動は彼女の不始末がまねいたスキャンダルではなくて? ビアンカ嬢が誘い込んでさらわれたと見せかけて取っ替え引っ替えやってらっしゃったのかも」


「まあお下品だこと、ふふふ!」


 イグナーツは思わず「お言葉ですが!」と大きな声を出して彼女たちの会話に割り込んだ。


「そんな憶測でものを話している方が下品かと思いますよ。それにご令嬢が突然暴漢にさらわれたのは紛れもない事実で、危ないところを軍隊が駆けつけてお助けしたのです。真実でもないことをこうした社交の場で話すのはやめていただきたい。ご本人に大変失礼ですよ」


 イグナーツが言い切るのを二人の女性はぽかんと見つめていた。しかし、真っ赤になって謝るーーということはなく、ぐっと顔をしかめて心底嫌そうな表情を浮かべた。


「んまあ、軍人風情がなまいきに!」


「他人の会話に割り込むなんて、礼儀をわきまえなさいよ。こっちこそ失礼しちゃうわ」


「二度と話しかけないで」


 二人はふんと鼻であしらうと、身を翻してすたすたとどこかへ行ってしまった。すぐ近くにいた男女の若いカップルが、様子を見ていたのかくすくすとこちらを見て笑っている。

 残されたイグナーツは、目をぱちくりさせた。あれ、この状況……俺が失礼な男になってる? 以前の侯爵令嬢のように諫めたつもりだったのに、これじゃあめちゃくちゃかっこ悪いじゃないか。イグナーツは肩をしゅんとさせて俯いた。

 だめだ、やはり自分はこういう場所に向いていない。彼女の力になるどころか恥をかくだけだ。もう帰ってしまおうか。

と、そのときだった。すぐわきから「イグナーツ・トット様」と声がかけられた。


 振り向くと、驚いたことに件の令嬢がすぐ後ろに立ってこちらを見上げていた。


「ビ! ビ、ビビビアンカ…………ビアンカ・ロートバルト・フォン・クラ、クラッセン様」


 イグナーツは思わず名前を呼んでしまったのでフルネームを述べながらぐるりと身体を彼女のほうに向けて、頭を下げた。

 いつのまに!? こんな近くにーーもしかして今の恥ずかしいところを見られてはいないだろうな!?

 慌てた様子のイグナーツに、侯爵令嬢はふっと小さく笑みを浮かべた。


「顔を上げてくださいまし、イグナーツ・トット様。私の名前を憶えていてくださって光栄ですわ。でも、どうかただ“ビアンカ”とお呼びください」


 呼べるわけないだろ。なんだか前の夜会のときと比べてうんと親しげである。というか明るいところでこんなに間近に彼女と接近するのは初めてじゃないか。

 イグナーツはシャンデリアの光が反射しているのかまぶしすぎて彼女を見ることができなかった。ビアンカ嬢の美しい空色のドレスの裾まで視線を上げることでせいいっぱいだ。

 イグナーツが顔を上げられずにいるまま、ビアンカ嬢が言った。


「イグナーツ・トット様、先ほどは私のことをかばってくださってありがとうございました」


 ひえ、やっぱり見られてたのか! イグナーツは顔にかっと熱が上がるのを感じた。


「いえ……その、無様な姿をお見せしてしまって……け、結局俺が怒られてしまったので、あなたにもご迷惑を……」


「何をおっしゃいますの」


 侯爵令嬢は遮って言った。


「迷惑だなんてとんでもありません。嬉しく思いましたし、とてもスマートでした……あのような非常識な方々はあちこちにおりますの。どうか気になさらないで」


 な、なんだ、スマートって。後で隊舎に帰ったらデニスに聞こう。冷や汗を流しながらイグナーツは顔も上げずに「はあ、恐縮です」と相槌をうった。

 いつまでたっても顔を上げないイグナーツに、ビアンカ嬢は一歩近づいてきたかと思うと、「イグナーツ・トット様」と再び名を呼んで彼の左手を自分の両手でぎゅっと握った。

 イグナーツは息が止まりそうになるほど驚いて思わず「ひっ」と声を漏らした。同時に真剣な表情でこちらを見る令嬢と目を合わせてしまった。

 どうしよう、とても近い。なんだこの距離。顔の熱がどんどん上がっていくのを感じる。

 ビアンカ嬢は下を向いているイグナーツの視界に入り込むと言った。


「先日の舞踏会のとき、私はあなたに大変失礼な態度をとってしまいました。それなのに誘拐されたあの日、父が無関心だった一方で、あなた様が気にかけて助けてくださったと知り、胸がいっぱいになりましたわ。心から感謝いたします」


 ビアンカ嬢が一生懸命礼を述べているのがわかるが、イグナーツはそれどころではなかった。

 口をぱくぱくさせてやっとのことで「そ、そそそんな俺は別に」まで言えたが、その後は声が出なかった。この距離ではまともに会話などできない。手を離してくれないと、手袋ごしでも手汗がだらだら出ていることがわかってしまう。

 イグナーツはぎゅっと目をつぶると「あ、あの……!」と恥を忍んで言った。


「す、すみません、おお、俺、手汗がひどいので、て、手を……は、離していた、いただけませんか、ほんとにすみません」


 失礼な言い方になっていないだろうかとイグナーツは心配したが、ビアンカ嬢は気を悪くすることなく「あら、ごめんなさい」とすっと手を離してくれた。


「突然お手を触れたりして申し訳ありませんでした……でもどうか顔は上げてくださいまし。お話できませんわ」


「う、申し訳ありません、その、な、慣れていなくて」


 イグナーツは言いながらじりじりと後ずさることに成功して、やっと令嬢との距離を保つとほっと胸を撫で下ろした。失礼のないようにと今度はビアンカ嬢の顔をちらちらと見るようにしながら言った。


「ええとその……あの日のことですが、咄嗟にやったこととはいえ、あなたを怖がらせてしまったことを、あ、謝らなければならないと思っておりました。急に目の前にいる人間が撃たれて、驚いたでしょう。そ、その、癖でと言いますか、ためらいもなく撃ってしまったから」


 イグナーツは双眼鏡の向こう側を覗いたとき、彼女の顔が青ざめていたことをよく覚えている。軽傷になるよう狙いを定めたが、銃弾の音は聞き慣れていなければ誰でも怖いはずだ。

 ビアンカ嬢は目を丸くさせてからふっと優しい笑みを浮かべた。


「いいえ、その前の出来事の方がよほど恐ろしかったんですもの。実際のところあのときは何が起きたのかわかりませんでした。あの人たちが急に倒れてほっとしたことは確かですから、怖いと思うはずがありませんわ」


「そ、そうですか、それは……」


 イグナーツは安堵してへにゃりと笑ったが、「あっ」と思い出して言った。


「そ、そのそ、丁寧なお礼状もいた、いただいて……それからその、こちらこそあなたが証言してくださったおかげで、こうして自由の身になれました。ありがとうございました。でも、そ、その俺のせいで、先ほどのような噂が流れるようになってしまって、申し訳ありません」


 イグナーツがぺこりと頭を下げると、ビアンカ嬢は「まあ」と首を振った。


「私が証言したのは当然のことですわ。噂はただの噂ですし、私はそういうことに関してはほんとうに平気なのです。イグナーツ・トット様が気に病むことではございませんのよ」


 にっこり笑ったビアンカ嬢の顔を前にして、イグナーツは心臓が高鳴り思わず下を向いてしまった。

 ビアンカ嬢は続けた。


「こうしてお会いできてほんとうによかったですわ。今夜父は来ていませんから、堂々とあなたとお話できますもの……皇女殿下とはお会いになって?」


 イグナーツは「あ、いえ」と言うと、ホールの奥の玉座にちらっと視線をやってから答えた。


「そ、その、貴族の人たちが集まっておりますし、それに面識がないので会ってもご迷惑かと」


 ビアンカ嬢は目を丸くさせた。


「そんなことはございませんわ。私ヘルミーネ殿下とは親しくさせていただいておりますが、あなたのことをお話ししましたら、ぜひ会いたいとおっしゃっておりましたのよ。一緒にまいりましょう」


 イグナーツは「え、でも」と断ろうとしたが、ビアンカ嬢に腕を取られてあっというまに玉座の方へと連れていかれてしまった。

 まずいまずいまずい、俺は皇族を前にしたお辞儀の仕方も知らないんだ。内心悲鳴をあげていたイグナーツは、皇女の少し手前でやっとのことで足を止めてビアンカ嬢に言った。


「あっ、あの、俺、やめておきます、ど、どうしたらいいか、わからないので、も、もしかしたら不敬罪で捕まるかもしれないし」


「不敬罪だなんて」


 笑ったビアンカ嬢はイグナーツの腕を取ったまま解放してくれそうにはなかった。


「皇女殿下は時々市井に出て広場の子どもたちと遊ぶようなお方です。あなたが突然逆立ちしたって怒ることようなことはありませんわ」


 さすがに逆立ちなんかしないけど。イグナーツはクラッセン侯爵令嬢の冗談にも笑みを浮かべる余裕はなかった。

 結局混乱した頭を抱えたまま、令嬢に引っ張られて皇女の前まで来てしまった。


「ヘルミーネ殿下。再び御前に参りました。彼がお話しさせていただいたイグナーツ・トット准尉ですわ」


「で、殿下、この度はお誕生日おめでとうございます」


 とにかく言うべきことは言わなきゃならないと思い、イグナーツは敬礼をして視線は皇女の足元だけを見た。あれ、ドレスを着ていないぞ。

 イグナーツは興味を引かれて少しだけ顔を上げた。

 ヘルミーネ殿下と呼ばれたこの国の第一皇女は「連れてきたか!」と快活な声で言った。


「ビアンカのお気に入りの軍人というから気になっていたんだ。今日は礼節などいらないぞ、トット准尉」


 言われるままにイグナーツは手を下げたが、恐れ多くて視線を皇女の顔まで上げることはできなかった。

 皇女はドレスではなくいつか見た皇子と似たようなすらっとして見える黒とグレーの正装服を着ていた。そういえば前にリッツ大佐が、第一皇女は活発なお方で剣の腕がいいって言ってたっけ。

 皇女は言った。


「射撃の名手と聞いている。先の戦以来、私の剣の師であるリッツ大佐がべた褒めしていたから、お前の名前はよく覚えていた。今回の事件ではビアンカの危機を救ったそうだな。遠くの木から窓越しに暴漢の腕と肩を、しかも軽傷になるように狙ったらしいじゃないか。敵だったらまっすぐ脳天を貫くのだろう、すごい腕だな。敵には回したくない男だ」


 や、やめてくれ! 軍人の界隈では嬉しい言葉だがここは舞踏会場である。脳天を貫くとか、隣にいるビアンカ嬢が聞いたら怖がるかもしれないじゃないか。

 しかしもちろんそんな抗議などはできず、イグナーツは声が震えそうになるのをこらえながら「ま、まぐれです」とだけ答えた。


「謙遜するな。まぐれなら先の戦はまだ片づいていない。それに……聞くところによると、ビアンカの名誉のために銃を撃った理由を言わなかったそうじゃないか。なかなかに紳士だな」


 皇女の言葉に、イグナーツはくっと歯を噛み締めた。


「……ですが、結局はビアンカ嬢の名誉を傷つけることになってしまいました。他の者ならもっとうまく事を運べたのかもしれません」


 そう、結局自分は本部の会議に訴え出ることも、現場に乗り込むこともしなかった。銃で撃って相手の動きを止めるということしかできなかったのだ。

 しかしヘルミーネ皇女は「そうでもない」と言った。


「他の者ならお前のような考えには至らなかったし、お前のような銃の腕は持っていない。社交界の噂なら一週間もすれば消えてなくなるが、ビアンカの心に傷がついてしまえばそれは一生引きずることになるのだ。私からも礼を言わせてくれ、トット准尉。ほんとうによくやってくれた」


 皇女の思いがけない言葉に、イグナーツは初めて彼女の顔を見た。

 ヘルミーネ皇女は慈愛のこもった目でこちらを見ている。いつか戦場で遠くから見た皇帝の顔に似ているような気がした。

 これが皇女様か。

 イグナーツは「もったいないお言葉です」と自然と頭が下がった。




 玉座の前を辞した後も、ビアンカに腕を取られたままであった。イグナーツは皇女を前にして歩き方を忘れてしまったように固まってしまったので、結局ビアンカの助けを借りたのである。

 彼女はこころよくホールの隅にまで連れていってくれた。気を遣われて壁際に導かれるなんて、普通俺がやらなきゃいけないことだったんじゃないか? イグナーツは内心焦りながらなんと言葉を紡ごうかと考えていた。


「イグナーツ・トット様」


 ビアンカ嬢がこちらを向いて言った。


「大丈夫ですか? 何かお飲み物を取ってきましょうか」


「い、いや、そこまでは……あなたにそんな風に言わせてしまって申し訳ありません。本来ならば男である俺が気を配らなければいけないのに」


 令嬢はなんでもないことのように「あら、そんなこと」と言った。


「私は仮にも侯爵家の人間ですのよ。宮殿には何度も来ていて勝手もよく存じておりますし、慣れている者が動けばよろしいのです」


 未だ混乱の極みに達しているイグナーツにとって、ビアンカ嬢の言葉はありがたいものだった。


 それからイグナーツとビアンカ嬢はしばらく壁際に佇み、ホールの様子を眺めていた。

 まさか皇女の前で挨拶をするとは思わなかったな、とイグナーツは思った。変なことを言わなかっただろうか。機嫌はそこねなかったか。それにしても快活そうなお方だったな。剣なんか、俺よりもよっぽどできるんだろうな。

 イグナーツが考えを整理している一方、ビアンカ嬢は何か言いたげに彼の方をちらちらと見ていた。

 やがてビアンカ嬢は咳払いをして少しかしこまったように「あの」と口を開いた。


「もしお時間がよろしければ、もうしばらくこうしてイグナーツ様とお話しさせていただいてもかまいませんか」


 イグナーツは「え……も、もちろんです」と答えて首の後ろをかいた。

 もちろんだなんて言ったけど、自分は気の利いたことや令嬢の喜びそうな話題は一つも考えつかない。


「でも、その、ビアンカ・ロートバルト・フォ……」


「ビアンカ。ビアンカとお呼びください。私もイグナーツ様とお名前を呼ばせていただきますから」


 イグナーツ様、だって。イグナーツは声が震えないように息を吐いてから「ビ、ビアンカ嬢は」と言い直した。


「ビアンカ嬢はほかの方と踊られるのではないですか。せっかく厳しいお父上がいらっしゃらないのですから、今夜は楽しんだほうが良いですよ」


 ビアンカ嬢は「あら」と目をぱちくりさせた。


「父がいないから好きにしているのですわ。私、ずうっとイグナーツ様とこうしてお話ししたかったのですもの」


 話すと言われても何を話せばいいんだ。イグナーツは困ったように眉尻を下げて再び首の後ろに手をやった。貴族令嬢相手に手紙の返事をどう書いたらいいかわからず友人に相談したことが頭によみがえる。


「俺は……その、軍人なので、話題が豊富ではありません。上官の将校たちみたいに冗談も言えませんし」


「ディーボルト中尉、でしたわね? 確かにあの方は社交界に出入りする貴公子のように慣れた様子でしたわね。ダンスもお上手でしたわ……そういえば今夜は軍の方々が少ないようですわね。もしかして父の不在と何か関係しているのですか」


 イグナーツははっとした。そうか、上官たちの今夜の標的は、目の前にいる令嬢の父親なのだ。

 イグナーツはどう言おうか迷ったが、嘘を言っても仕方ないと思い、小さく頷いて声をひそめた。


「実はその通りです。ビアンカ嬢は……今夜お父上がどこに向かわれたかご存じですか」


「どこだったかしら。どこかの港の波止場まで行くからと、執事に地図を用意させていましたけど」


「今夜そこでなんらかの取引が行われます。上官たちはその現場を取りおさえるために向かったんです。ですから、もしかしたら今夜中に……」


 イグナーツは言いかけてやめたが、ビアンカ嬢が言葉を引き取った。


「今夜中に父を捕らえることができるかもしれないということですね。そうなることを願いますわ……苦しむ領民に人質として連れていかれるのはもうごめんですもの。父は裁かれるべきですわ、それも早急に」


 ビアンカ嬢は誇り高く天井のシャンデリアを見上げて言ったが、少し悲しげだった。どんな男だろうと彼女にとっては父親なのだ、良い気はしないだろう。ああ、そんな顔をさせたくなかったのに。

 イグナーツは何と声をかけたらいいのかわからなかった。やはりディーボルト中尉のように、気の利いたことは言えない。


「申し訳ありません」


 イグナーツは一歩下がって彼女から距離をとると言った。


「こういうときにどう言うべきなのかわかりません。お父上が捕らわれるだなんて聞きたくもなかったでしょう……俺はいつもこんな話しかできない」


 すると、ビアンカ嬢は「あら」と笑みを浮かべた。


「私にこのような話をしてくださるのはあなただけですのよ。あの夜もそして今夜も、あなたはごまかさずに真実を話してくださっているわ」


 ビアンカ嬢はイグナーツがとった距離を詰めて続けた。


「ですからあなたにありがとうと言わせてくださいまし。あなたとお話しするのが嫌ならとっくに退けていますわ。私、そういうのは得意ですから」


 ビアンカ嬢は自信ありげにそう言った。ディーボルト中尉が、ダンスしながら話を聞き出すのに苦戦したと言っていたことが思い出される。

 イグナーツは彼女がしっかりとこちらを見て話していることに急に恥ずかしくなり、下を向いて「そ、そうですか」と言った。また沈黙がおりる。

 彼女からの視線を感じながら、イグナーツは何か、何か話題をとぐるぐる考えてから自分の胸ポケットから出ている布が目に入った。これだ!


「その、お貸ししたハンカチを、わざわざ軍の隊舎まで届けてくださってありがとうございました。ハンカチの刺繍が見事でびっくりしました」


 イグナーツは言いながら胸ポケットに手をやった。


「まさか自分のハンカチがここまで変わると思いませんでした。ええとこれです、この真ん中にある薔薇の……」


 言いながらイグナーツは件のハンカチを取り出して広げて見せようとした。するとビアンカ嬢は突然かっと目を見開くと慌てたように「ちょ、だめ、だめですわ!」と青年からそれを取り上げてしまうと、くしゃくしゃに丸めて手に収めてしまった。


「まさか、持ってきてらっしゃるなんて! こんなところで広げるのはおやめくださいまし、恥ずかしいわ」


 焦ったようにハンカチを隠してこちらに背を向けた令嬢に、イグナーツは目を丸くさせた。顔を赤くして俯いているその様子は先程までの大人びた侯爵令嬢から一転して、少女のような表情をしている。これにはイグナーツも頬を緩ませ、「恥ずかしいことなんかありませんよ、力作ではありませんか」と言った。


「お世辞はおやめになって。うちのお針子の方がよっぽど上手なんですのよ……やっぱりこれは回収させていただきます。へたで恥ずかしいもの、こんなものを送りつけるなんてどうかしていました」


「だめですよ、俺の宝ものなんですから」


「た、宝ものだなんて……センスのお悪いこと」


「軍人にセンスなんか求めちゃいけませんよ。さあ返してください、もともとは俺のハンカチです」


 ビアンカ嬢は頬を赤くしてイグナーツが差し出した手を見つめた。それから少し困ったように迷っていたが、自分の両手の中に丸めたハンカチを小さく畳むとそっと彼の手に乗せた。


「ありがとうございます」


 イグナーツは受け取ったそれを大事そうにポケットにしまった。ビアンカ嬢は赤い顔を逸らした状態で「そこに入れたまま一生取り出さないでくださいまし」と言った。


「まさかこんなところに持ってきているなんて。薔薇などの刺繍にしてしまったから、使わずに引き出しにしまっているものと思っておりましたわ」


「最初は額縁に入れて飾っておこうとしたんですが、それではもったいないと思って常に軍服に入れているんです」


 ハンカチを見返すことでビアンカ嬢のことを思い出して元気が出るので、お守りとして身につけているのである。


「額縁だなんて。お上手ね」


 ビアンカ嬢はこちらを見て笑ったが、イグナーツは本気でそう思っていたので肩をすくめるしかなかった。

 そのとき二人の後ろから「クラッセン侯爵令嬢」と若い男の声がかけられた。

 振り向くと、豪華な衣装に身を包んだ若い貴公子がにこやかに微笑んでいた。ぴかぴか光っている上等な生地の上着には高価な金のボタンがずらりと並んでいる。この服装、そして堂々とした佇まいからして、上位貴族だなとイグナーツは思った。

 貴公子が言った。


「申し訳ありません、やっとお姿を拝見できましたので、声をかけさせていただきました。いやあ、今夜はまるで六月に咲く薔薇のようにお美しいですね。あなたがいることで蝶がやってくるのではないかと心配になりますよ」


 もうすぐ冬になるのでそれはない、とイグナーツは思ったが、社交辞令とはこういうものなのかとこっそり頷いた。


「これはレジナルド侯爵、全く気づきませんでした」


 ビアンカ嬢の声の温度が急に下がったのに、イグナーツはびくりとして彼女を見た。感情をあらわにしない、彫刻のような表情を浮かべている。クラッセン侯爵令嬢としての顔だとイグナーツは思った。

 ビアンカ嬢はそのままの声色で言った。


「今夜はあまりにも人が多いですから、まさかお会いできるとは思いませんでしたわ。皇女殿下にご挨拶は?」


「ええ、済みました。殿下は相変わらず活発なお方だ、先ほどご婦人を相手にダンスをしておられましたよ……こちらは?」


 レジナルド侯爵がビアンカ嬢の隣にいたイグナーツの方に視線を向けると、イグナーツはどきりとして思わず背筋を伸ばした。


「こちらはイグナーツ・トット准尉ですわ。イグナーツ様、こちらはアルブレヒト・レジナルド侯爵です」


 イグナーツはどうしたらいいのかわからず固まったが、ビアンカ嬢が紹介してくれたので口を開かずにすんだ。

 レジナルド侯爵が「はじめまして」と右手を差し出してきたのでなんだろうと一瞬思ったが、すぐに握手だとわかって慌てて彼の手を握った。

 あれ、剣だこがあるぞ。


「トット准尉ーー射撃の名手でしたか。先ほど皇女殿下が声高におっしゃっておられました。ご本人にお会いできて嬉しいな」


 レジナルド侯爵がにこやかに言ったのに、イグナーツは「こ、こちらこそ」と言った。


「レジナルド侯爵は剣をおやりになるのですか」


 イグナーツが問うと、レジナルド侯爵は少し瞠目した後嬉しそうに「ええ」と笑った。


「最初は嗜みとして習っているだけだったのですがね、結構楽しいんですよ。手を触っただけでわかるなんてさすがですね」


 イグナーツは「一応軍人ですので」と小さく笑みを浮かべた。普段は隊員たちとこんな風に握手なんかはしないが、隊舎内のラウンジでよく腕相撲をやらされる。

 しかし貴族でも剣をとるということを知り、イグナーツは少し気落ちした。自分は軍人だから戦えるということが取り柄だが、侯爵という身分もあるのに剣術をやるなんて。それに俺はもしかしたらこの人より弱いかもしれない。

 イグナーツがそんなことを考えていると、ビアンカ嬢は咳払いして「レジナルド侯爵」と呼びかけてきた。


「申し訳ありませんが、私次の曲でイグナーツ様と一緒にダンスを、と思っておりますの。よろしいでしょう、イグナーツ様」


 ダンス。

 ビアンカ嬢の申し出に、イグナーツは背中にすっと冷たいものが走り、次に顔面の熱がどっと上がるのを感じた。あのときディーボルト中尉に言われた後に練習をしておけば……! しかし今更後悔しても遅かった。引き受けたところでダンスの真似事すらもできない。


「申し訳ありません」


 イグナーツは喉をナイフで抉っているかのような心地で言った。


「その、は、恥ずかしながら、俺は……踊れません。練習をしたこともなくて」


 ビアンカ嬢とレジナルド侯爵はイグナーツの言葉に目を丸くさせた。

 当然だ、踊れもしないのに舞踏会に来ているなんて、いい笑い者である。


「そ、そうですの。残念ですわ」とビアンカ嬢は言ってくれたが、イグナーツは恥ずかしくて俯いてしまった。ああ、もう消えてしまいたい。前にディーボルト中尉が、女性のダンスの誘いを断ることはひどく失礼だと言っていたことは彼の記憶に残っていた。

 気まずい沈黙が流れてしまったので、レジナルド侯爵が「ええと、それでは」と切り出した。


「クラッセン侯爵令嬢、どうか一曲私と踊っていただけませんか。もちろん彼の代わりにはなりませんが、ぜひお願いしたい」


 ナイスフォローである。しかも踊れないイグナーツをばかにしなかった。良い人だとイグナーツは床を見つめながら思った。

 ビアンカ嬢は一瞬だけ困ったようなそぶりを見せたが、すぐに薄い笑みを返して「わかりました」と言って差し出されたレジナルド侯爵の手を取った。イグナーツはその場がおさまったのに少なからずほっとして、やっと顔を上げることができた。


 ビアンカ嬢は、ホールの中央に行く前に、イグナーツの方を心配そうにちらりと見たが、すぐにレジナルド侯爵と曲に合わせて踊り始めた。

 くるくると音楽に合わせて踊るその姿は絵のように美しく見える、とイグナーツは思った。さっきレジナルド侯爵が言っていたように、まるで花が咲いているようだ。


「まあ、クラッセンとレジナルド侯爵家のお二人じゃない?」


「お美しいわね、それにダンスがとってもお上手」


「お二人とも踊り慣れていらっしゃる」


「それはそうよ、二人とも社交界の花ですもの。私たちじゃ近づくこともできないわ」


 周りで囁かれている声が、イグナーツの耳に嫌でも響いてくる。

 社交界の花の二人。イグナーツはホールの中央を眺めながら無意識に拳を握りしめた。

 もしも踊ることができたら、あそこでビアンカ嬢と踊っていたのは俺だったんだろうか……いや、そんなことは想像もできない。聞こえる囁き声と笑い声、また音楽がイグナーツの頭をぐわんぐわんとこだまする。


 俺はこんなところでなにをしているんだろう。踊ることもできないのに、舞踏会場にいるなんて場違いにもほどがあるじゃないか。

 イグナーツはそう思って口をぎゅっと結ぶと、身を翻してホールを出ていった。







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