3. 少佐の懸念
翌日の昼休み、イグナーツは晴れ渡る空の下でひとり、隊舎裏で薪を割っていた。
昨日、イグナーツはデニスに諭されて、クラッセン侯爵令嬢への手紙の返事を書いた。
一度書き終えると妙な達成感があったが、すぐに文字の間違いがあることに気づいた。再び書いて読み返すと、同じ言い回しがいくつもあった。何度も何度も書き直しているうちに、夜練開始の時間が過ぎ、そしていつのまにか朝を迎えていたのである。
隊舎の窓口前でエルネスタに無事に手紙を渡し終え、清々しい朝日を浴びているところをリッツ大佐に見つかった。
昨日の夜練の剣術担当であった大佐は「てっきり腹でも下したのかと思ったがなんだ、元気そうじゃねえかトット准尉、え?」と怖い顔で睨みつけると、無断で休んだ罰としてイグナーツに昼休みと昼練の時間に薪割りを命じたのである。
一人でもくもくと薪を割るのは腰も腕もひどく疲れるのだが、イグナーツの心は晴れやかだった。
今頃、彼女は俺の手紙を読んでくれているだろうか。数十回書き直した上に数十回読み返したので、少なくとも失礼な文面ではないはずだ。
カーン、カーンと音を立てながら斧を振っていると、誰かがこちらへやってくるのを気配で感じた。イグナーツは手を止めて誰だろうと身構えたが、見えた姿にすぐに警戒を解いた。
やってきたのは今日の昼練担当の人物ーーそしてイグナーツが軍部で一番敬意を抱いている上官であった。
「やっていますね、トット准尉」
「ランクル少佐」
イグナーツは右手でビシッと敬礼をした。
ランクル少佐は、40を過ぎているらしいが姿は若い貴公子のようで、物腰が柔らかくいつも穏やかな笑みを浮かべている。しかし戦場では手持ちの大砲を肩に担いで、前進しながら敵の大将に見事当ててみせるような豪胆な面もある男だった。
ランクル少佐が言った。
「罰が薪割りとは、リッツ大佐も相変わらず古風なお方だ。いくら剣術の力を鍛えるためとはいえ、これほどの量を一人でやらせるなんて身体を痛めてしまいますから、ぜひとも休み休み行ってくださいね」
イグナーツはぺこりと頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます。これでも見逃してもらった方だと思います、食事を抜かれることはなかったので」
「トット准尉は相変わらず謙虚ですね。リッツ大佐にはもっと図太く接してかまいませんよ。あの人は自分の言動をその日の夜にはもう忘れてしまいますから」
リッツ大佐に対してあまりの言いようであるが、この上官が大佐を心から嫌悪しているわけではないということは知っているので、イグナーツは苦笑いするだけにとどめた。
ランクル少佐は、「それにしても」と続ける。
「無断欠席とは、あなたにしては珍しいこともあるものですね。大佐から聞いたときは体調でも崩したのかと思いましたが」
イグナーツは慌てて「あ、い、いえ!」と否定した。
「身体はいたって健康で、ええと……完全に俺の落ち度でした。夕食後にその、作業をしていたら、訓練の時間がいつのまにか過ぎていたみたいで、気がついたら朝になっていました……その、俺の気が抜けていたんです」
下を向いてぼそぼそとそう言ったイグナーツを、ランクル少佐は微笑みながら見つめて「そうですか」と言った。
「何の作業か気になるところですが、プライベートですからね、訊くつもりはありませんよ。それよりも別件であなたにお尋ねしたいことがあります」
イグナーツは「別件、ですか」ときょとんとした表情を浮かべたのに、ランクル少佐は頷いた。
「ええ。この前あなたが出たくないと突っぱねたところを無理やり参加させた夜会のことです。覚えていますか」
「夜会……はい、もちろんです」
「あなたは来てすぐに私に挨拶してくれましたね。あれからどなたかと踊ったりしたのですか?」
なんでそんなことを訊くんだろう。イグナーツは戸惑いながらも答えた。
「いえ、俺はダンスはからきしですので見ているだけでした。ディーボルト中尉と少しだけ話して……寄り道せずに夜更け前には隊舎に戻りました」
事実である。しかしランクル少佐は「そうですか」と微笑みながらも、瞳の奥には探るような色をちらつかせているようだった。
少佐は言った。
「あの夜会に関して、小さな出来事が問題になっておりましてね。実はクラッセン侯爵家のビアンカ嬢が人気のないところで泣いていたそうなんですが、それを見かねた誰かがハンカチを渡し、ご令嬢の侍女を呼んでくれたのです」
イグナーツはどきりとした。ランクル少佐は続ける。
「その侍女の話によれば、その人物は軍服を着ていたとのことでした。しかしもちろん私には身に覚えがありませんし、あの夜会に出席していたディーボルト中尉も他の将校たちも、ダンスホールで侯爵令嬢を見かけることはあったが彼女の泣いている姿など見ていないということでした。夜会に出席できる軍人は限られていますからね、中尉たちは軍人に扮した間者か何かがご令嬢との接触を試みたのではとふんでいます。ところで、トット准尉。あなたは誰か怪しい人物を見かけていませんか? ご存知の通り、彼女の父親クラッセン侯爵は数々の悪事を行っていますから、誰かが彼を狙っていることも十分可能性が……」
「あ、あのう、ランクル少佐」
イグナーツは躊躇いながらも上官の言葉を遮った。
「すみません、そ、その、じ、侍女を呼んだのは……おお、お、俺です」
そう言うと、ランクル少佐は驚くことなくにこっと微笑んだ。これはわかっていた顔だ。
「やはりあなたでしたか」
ランクル少佐は微笑みながら言った。
「私は最初からあなたではないかとふんでいました。泣いている女性にハンカチを渡して侍女を呼ぶなど、そんな親切な間者はいないと思ったのですよ。やはりディーボルト中尉たちの早合点だったわけだ……それで、あなたは侍女を呼んだ後はまっすぐ帰ったのですね?」
イグナーツは気まずい思いを抱えながら「はい」と答えた。間者だなんて、上官たちの間でそんな話が出ていたのか。たしかにクラッセン侯爵の娘と接触したならば、報告するべきだったかもしれない。
イグナーツは「そ、そのう」と迷いながら言った。
「俺が帰ろうとしたとき、灯りもない小広間の方で誰かが怒鳴っている声が聞こえたんです。行ってみると、そこにはクラッセン侯爵親子がいました。娘のビ、ビアンカ嬢は……父親に手をあげられていたようでした」
ランクル少佐は目を細めて「ほう」と言った。イグナーツは続けた。
「ご令嬢がディーボルト中尉と踊ったことに、クラッセン侯爵は腹を立てたようでした。彼女が“軍人に知られたら困ることでもあるのか”と尋ねたら、侯爵は急に慌てた様子になりました。彼はビアンカ嬢にすぐに帰れと言ってホールに戻っていきました。俺はその、泣いていた彼女にハンカチを渡して……ちょ、ちょっとだけ話をして、その後に侍女を呼びにいきました」
ランクル少佐は頷いた。
「なるほど……親子の間に割り入ったわけではなかったのですね。侯爵にはあなたの存在は知られていないようだ……そしてその聞こえてきた会話から判断すると、ご令嬢はやはり父親の悪事には加担していませんね」
「それはそうですよ!」
イグナーツは思わず声をあげた。
「ビアンカ嬢は、軍部が父親に目をつけていることに気づいています。でも本人にそうとは言っていませんでした。令嬢は父親が牢に入ることを想定していましたし、自分は彼の子どもだからやはり同じように牢に入るのだろうかと悲観していました。使用人のことまでも心配して……彼女が父親と結託しているとは到底考えられません!」
イグナーツが捲し立てるのをランクル少佐は目を丸くさせて聞いていたが、「そうですか」と微笑んだ。
「大丈夫ですよ。むしろ証拠がないと侯爵家の人間などは捕らえられませんからね。彼女のことには私も気を配ると約束しましょう……このことを私以外の誰かに話しましたか?」
「いいえ。あ、いや、デ、デニスに……ええとロルム軍曹には話しました」
「ロルム軍曹ですか。彼なら……まあ問題なさそうですね」
ランクル少佐は、一歩イグナーツに近づくと声を低くさせて言った。
「良いですか、トット准尉。あなたが彼女とそういう話をしたということは、ほかの誰にも口外しないでください。もちろん、軍曹にも口止めをしておくこと」
イグナーツは予想外の言葉に目を瞬かせた。
「え……で、でも、報告しなくていいんですか、警戒している人物の娘の情報なのに」
「もちろん彼女に関することは報告しますよ。ただしトット准尉。あなたが彼女と接触し、そこまでの情報を得たことは伏せるつもりです。もしもあなたが彼女とそこまで打ち解けたことが上に知られれば、捨て駒として使われるかもしれませんから」
打ち解けたわけではない。ハンカチを貸して、お礼状とともに返してもらっただけである。
しかしランクル少佐は珍しく笑顔を消した真面目な顔で、まっすぐに部下の目を見た。
「ディーボルト中尉やリッツ大佐なんかは情に厚い男ですから心配ありませんが、この件の総指揮官であるバルツァー中将は隊員の名前すらも覚えようとはしない。一人の人間をチェスの駒のように扱います。多少の犠牲が出ようと作戦の効率だけを優先させる、それがあの方です。私は第三部隊随一の狙撃手であるあなたを失いたくありません」
「は、はあ」
イグナーツは頭をかいた。ランクル少佐は青年の方にぐっと顔を近づけて「本気にしていませんね」と目を細めた。
「良いでしょう。とにかく私以外には夜会の出来事を話さないと約束してください。わかりましたね」
少佐は念を押すと、身を翻してその場を去っていった。
上官の背中を見送ったイグナーツは、自分の肩の力が抜けるのに気づいた。あの人が笑顔を消すのはあまり見たことがなかったからかな。笑っていないと結構怖いな。
それほど気にかけてくれているのはありがたいことだが、話題に上がったバルツァー中将などイグナーツは顔すら見たことがなかったので、なんだかあまり現実味がなかった。それに俺が捨て駒にされるだって? 狙撃ならともかく、剣術などの接近戦はさっぱりなのに。駒として動けるかどうかも微妙なところだ。
まあとにかく軽はずみな行動を取らなければ問題ないだろう。イグナーツは再び斧を握り直すと、薪割りの作業に戻った。