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2. 貴婦人からの手紙

「……ツ、おい、イグナーツ!」


 名前を呼ばれ、イグナーツははっと我に返った。


 朝の訓練を終えたイグナーツは、ほかの隊員たちに混じって食堂で朝食を食べていた。何の気なしにパンをかじっているところで声をかけられたらしい。

 振り返ると、後ろには同期のデニス・ロルム軍曹が腰に手を当てて立っていた。


「あれ、デニス。どうした」


 デニスは眉をしかめて「どうしたじゃねえよ」と言った。


「さっきから何回も呼んでたんだぞ。お前、ここんとこずっと上の空じゃねえか。腹でも下したか?」


「お前と一緒にするな」


 イグナーツは持っていたパンを口に放り込むと、二つ目を取ろうとテーブルの大皿に手を伸ばした。


 デニスの言う通り、イグナーツは最近確かにぼうっとすることが多かった。ほかでもない、あの舞踏会での出来事が頭から離れなかったのだ。

 これまでも夜会には任務で参加したことがあったが、これほど印象的な経験をしたのは初めてだった。デニスに話せば、社交界デビューしたての少女のようだとからかわれるに違いないので言うつもりはないが。

 イグナーツはパンを頬張りながら言った。


「……別に訓練に支障は出てないだろ。今朝の射程記録だってお前よりいいはずだ」


 デニスは「うるせ、ほっとけ」と友人を睨んだ。


「朝は眠いんだ、しかも霧が出てた。あんな状況で的に当てられるのはお前ぐらいだぜ……あ、それはそうと」


 デニスは思い出したように、イグナーツの肩に手を置いた。


「お前に客が来てるってよ。そのパン食っちまったらさっさと窓口に行け」


 客? 誰だろうと首をかしげる。さあさあと友人に追い立てられて、イグナーツは慌ててパンを詰め込むと食堂を出た。


 歩きながら思い当たる人物を考えたが、さっぱりわからなかった。もしも奇跡が起きたのであれば、クラッセン侯爵令嬢のビアンカがハンカチを届けに来てくれるかもしれなかったが、それは絶対にない。そんなことをすれば父親が怪しむし、軍部に出向いたとなればまた頬を叩かれてしまう。

 途中の廊下ですれ違う隊員たちが、にやにやと下卑た笑みをこちらに向けているのに気づいた。

 なんだ? イグナーツはわけがわからず、そのまま窓口へ向かった。


「やはり“ラミア”の子は“ラミア”を呼ぶ」


 囁きが耳をかすめて、イグナーツはびくっとして振り返った。誰が言ったのかはわからなかった。だが自分のことを言われているとイグナーツにもわかった。

 “ラミア”を呼ぶだと? 高級娼婦なんか呼んだ覚えはないんだがな。第一に俺にそんな金はない。


 そんなことを考えているうちに隊舎の窓口に着いた。そこには確かに高級娼婦ーー同時にイグナーツの見知った人物が立っていた。


「あんた……エルネスタ?」


 イグナーツがエルネスタと呼んだ人物は、彼の母親と同じ店にいた娼婦だった。イグナーツが12歳で軍に入隊する少し前に娼館に入ってきた彼女は、イグナーツよりもひとつ歳上なだけなのに、学者も驚くほど博識だった。物を知らないイグナーツは到底口論では彼女に及ばず言い負かされてばかりで、「何にも知らないのね」とよくばかにされていた。そのためイグナーツは彼女が少し苦手であった。

 エルネスタ今では高級娼婦にまで上り詰めている。この隊舎でも娼館に通う者は多いので、多く隊員にも知られていた。


 今日のエルネスタは首元まできっちりとしまった白いブラウスを着ている。

 彼女は前と変わらぬ勝ち気な笑みを浮かべ、懐かしそうに言った。


「久しぶりね、イグナーツ。ますますユリアさんに目が似てきたわね」


 母親の名前を出されてイグナーツは顔をしかめた。全然嬉しくない。似ているからなんだというのだろう。


「俺に何の用だ」


 警戒しながらイグナーツが言うと、エルネスタはあははと笑った。


「そんなに怯えなくてもいいじゃない。あたしがここに来たのはおつかいよ、おつかい」


「おつかい?」


「そう。あんたに届け物を頼まれたの……ほら」


 エルネスタが差し出した物は、丁寧に紙に包まれた包みだった。少し膨らんでいる。

 イグナーツは訝しげにそれを受け取ると、その場で中を開けてみた。中を見て「あっ」と思わず声が漏れる。

 包まれていたのは自分の木綿のハンカチだった。この前の夜会で、イグナーツがビアンカ・ロートバルト・フォン・クラッセンに貸したものである。

 きちんと折りたたまれていたそのハンカチの下には新しいハンカチが、そしてさらにその下には手紙らしい紙が入っていた。


「な、なんであんたがこれを……」


 イグナーツが驚いてエルネスタを見ると、彼女はにっと笑いながら言った。


「それはこっちの台詞よ。なんであの子があんたなんかに手紙を渡すんだか……あたしはね、ビアンカーーええと、クラッセン侯爵令嬢の友達なの。あんたと会うずっと前からよ」


 イグナーツは疑うような表情を浮かべた。娼婦と侯爵令嬢が友達だと?


「あたしの母親が侯爵家の使用人でね、それでお嬢さんと知り合ったってわけ」


 イグナーツは遠い記憶を辿った。


「ああ……あんた、貴族の屋敷勤めだったって言ってたっけ。けどそれにしたって……」


 侯爵家なら、使用人と親しくするなと教育を受けるはずだ。エルネスタはイグナーツが言わんとすることを察したようで「それでも友達なの」と肩をすくめた。


「彼女はいい子なのよ、抜群にね。まあ、あたしたちが仲良くなったのは、あの屋敷の主人がいない時が多かったからよ。あたしは蔵書を片っ端から読ませてもらったわ」


 蔵書。それじゃ、この女は13歳そこらで貴族の家の本を読んでいたっていうのか。口げんかでかなうわけがないじゃないか。イグナーツは彼女とクラッセン侯爵令嬢が本棚に囲まれて談笑しているところを思い浮かべ、はっとした。

 そうか、この前の夜会で令嬢が高級娼婦の娘を庇うような言い方をしていたのは、友人のエルネスタの存在があったからかもしれない。

 エルネスタは言った。


「まったく、彼女を貴族にしておくにはもったいないわ……それよりもほら、手紙をちゃんと読んでやりなさい。あんたに迷惑がかからないようにって、あの子ずいぶん気をつかっていたんだから」


「あ、う、うん……」


 心臓をどきどきさせながら震えそうになる手に力を入れて手紙を広げる。と、イグナーツは顔を上げた。エルネスタが腕組みをしてこちらをじろじろ見ている。


「え、帰らないのか?」


「いいじゃない、あんたがちゃんと読み終わるまで見届けるって約束したの。あたしのことは気にしなくていいから、ほら、さっさと読みなさい」


 するなよ、そんな約束。にやついた笑みを浮かべてこちらを見ている女に背を向けると、イグナーツはおそるおそる手紙に目を落とした。



“ご親切なイグナーツ・トット様


先日の夜会で大変ご無礼をいたしましたことを深くお詫び申し上げるとともに、多大なるお心遣いを頂戴しましたことに御礼を申し上げます。


ここまで書きましたら、友人のエルネスタが「こんなわかりにくい口上はやめた方がいい」と言いましたので、もう少し口語的に書かせていただきます。お気に触るようでしたら申し訳ありません”


 そこまで読んだとき、後ろからエルネスタが「あたしのアドバイス、あった方がよかったでしょ」と言ってきた。イグナーツは「うるさい、ちょっと黙ってくれ」と言って眉を寄せたが、内心では冒頭のような書き言葉が続いていたら理解できなかったかもしれないのでほっとしていた。

 イグナーツは手紙の続きに目を落とした。


“恥ずかしながら今になって、あの夜無様に泣いていた私のそばにいてくださったこと、またあなた様がそれを社交界のどなたにも言いふらさなかったことが、どれだけありがたかったかと思い返しました。心から感謝いたします。

ハンカチをお届けいたしますのに、私が直接出向いては父に怪しまれるでしょうし、屋敷の使用人に頼むことも郵便を使うことも、父に隠れて行うのには難しいと感じました。そこで、古くからの友人エルネスタに相談させていただきましたところ、彼女はあなたのことを知っていると言いました。そして自分なら隊舎に出入りすることもよくあるから怪しまれることなく届けることができると申し出てくれました。

お借りしていたハンカチですが、洗った際にどうしても化粧が取れない部位がありましたので、勝手ながら刺繍を施してみました。と申しましても、私には軍部の紋章は難しく、花の刺繍にしてしまいました。不快に思われたらと懸念しまして、真新しいハンカチも同封させていただきました。お使いいただければ幸いです。


申し訳ありません。イグナーツ・トット様の出自に関するお話を、許可なくエルネスタから少し伺ってしまいました。しかしそのおかげで、先日の夜会であなた様がおっしゃろうとしていたことがわかったような気がいたしました。ご自身の力で今の地位(お恥ずかしいことにトット様の階級を存じておりません。もしよろしければ教えていただけませんでしょうか。エルネスタは“夜会に出席するならそれなりの役職があるはず”と言っておりました)にあることに敬服いたします。私も少し頑張ろうと思えました。


長くなってしまいましたね。お世辞や定型文を抜きにして、またあなた様にお会いできたらと思っておりますが、父の様子を見る限り今は難しそうです。国の情勢として当分は軍の出陣もないと伺っておりますが、どうかお身体を大切にお過ごしください。


あなた様のご健康をお祈りします。


ビアンカ・ロートバルト・フォン・クラッセン”



 イグナーツは読み終えると、震えている自分の手に気づいてぎゅっと力を込めた。

 あの夜会のときは、彼女には父親を監視している“軍人”の一人として疎ましいと思われていると感じていたが、この手紙を読む限り今はそうでもないらしい。それどころか“敬服いたします”だって! あの侯爵令嬢が! 俺に!


 もう一度読み返したいところだが、後ろにはエルネスタが控えている。顔の緩みを気合いで引き締めるとくるりと振り返った。

 相変わらずにやにやとした笑みを浮かべているエルネスタを前に、イグナーツは咳払いをする。


「読んだぞ」


 エルネスタは「そう、よかった」と言った。


「それで? 返事はどうするの」


「え…………返事?」


 イグナーツは戸惑ったように首を振った。


「へ、返事は書けない……その、書くとしても時間がかかる」


 エルネスタは「あー、まあそうね」と目を細めた。


「確かにあんたは、ラブレターを毎日書いてるような連中とは違うわ……でも、返事はなしってことでいいわけ? さすがにそれはないでしょ。わかってると思うけど、彼女とあんたの間のやり取りはあたししかできないし、あたしはこう見えて暇じゃないの」


「わ、わかってる。ええとそれじゃあ、そうだな、明日のこの時間までならなんとか……」


 イグナーツが頭をかきながらそう言うと、エルネスタは「明日。あんたほんと、筆不精ねえ」と言ったが頷いた。


「いいわ。訓練でなかなか忙しそうだったって、ビアンカには言い訳しておいてあげる。じゃあね」


 エルネスタはそう言うと、優雅に身を翻してカツカツと靴音を鳴らしながら隊舎を去っていった。

 すれ違う隊員たちがじろじろ見ているが、彼女はどこ吹く風というように堂々と敷地内を歩き、門の方へ向かっているようだった。

 こそこそと陰口を叩かれて落ち込んでいる自分と比べると、エルネスタはほんとうに強い女だ。久しぶりに会ってもその様子は少しも変わっていない。あの女が、クラッセン侯爵令嬢と知り合いーーそれも旧友だったとは驚きである。


 イグナーツはハンカチや手紙をもう一度紙に包み直すと、廊下を歩き出した。そのまままっすぐ准尉室に戻り、パタンと扉を閉めて息を吐く。

 准尉という階級にあるおかげで自分だけの部屋があるわけだが、このときほどイグナーツがその地位に感謝したことはなかった。一人でないと読み返すことなどできやしない。

 扉を背にして再び包みを開け、手紙をもう三度読み返すと、ようやく落ち着いてきたのでベッドに腰かけた。そして包みの中にある自分のハンカチを広げてみる。

 真ん中に大きな薔薇を模した見事な刺繍が施されている。すごい、これを彼女が……!

 令嬢がせっせと針を進めている様子を想像したイグナーツは、なんとも言えない思いが胸に込み上げてきてぎゅっとハンカチを握った。そして一緒に入っていた新しい無地のハンカチを広げた。こちらは新品で、イグナーツや他の隊員たちが持っているようなものよりもうんと上等な生地であるようだった。

 思わぬ贈り物に、イグナーツはほうっとため息をついた。そしてもう一度手紙を読み返そうとしたとき、“エルネスタ”の文字が目に入ると、先ほどの会話を思い出した。

 そうだ、令嬢に返事を書かなければならない。だが、どう書く? ほんとうに俺が書くのか?

 机の上に転がっている紙とペンをちらりと見た。最後にあそこに座ったのはもう2ヶ月も前だ。しかも任務の報告書を書くのとはわけが違う。イグナーツはとても無理だと思った。しばらくそうして机の上の物を睨んでいたが、そのうち昼練開始の予鈴が鳴ってしまった。



**********



 ダンッと弾丸の音が射撃場にこだまする。

 イグナーツの撃った弾が、遥か先の的の真ん中に見事命中したことを知らせる旗が上がると、周りから「おおー」という低い歓声が上がった。撃った本人は無表情でボルトを直し安全装置をかちゃりと鳴らすと、銃口を上に向けた。


 射撃訓練に関して、イグナーツは彼の所属する第三部隊の中ではトップの成績を収めていた。動かないものに命中させるのは彼にとっては容易いことだった。その代わり接近戦である剣術は苦手なのだが。


「おい! なんであんなに遠いのに真ん中に当たるんだよ」


 列に並び直したイグナーツの背中を、バシッと平手で叩いてきたのは友人のデニスだった。


「あの距離で的が見えてんのお前だけだぜ? どんな目してやがんだ」


 イグナーツは背中の痛みに眉を寄せながら答えた。


「肉眼じゃ見えるわけないだろ。双眼鏡で見て位置を確認してる」


「はあ? 双眼鏡見るったって、覗きながら撃てねえぞ。知らねえのか、腕は二本しかねえんだぜ……ん?」


と、デニスは言葉を途切らせた。

 前の列の方から外れて隊員が二人駆け寄ってきたのである。見たところまだ10代で頬にそばかすがあり、少年を脱したばかりのようだ。

 二人はトーンの高い声で「トット准尉!」と言った後にイグナーツに向かってビシッと敬礼した後、少し緊張した顔で言った。


「あ、あの! どうしてあんなに正確に狙えるのか、なにかコツがあれば教えてください!」


「お願いします!」


 敬礼した二人に、イグナーツは目を瞬かせたが、「え、コツなんかない」と言った。


「やってることはみんなと同じだ。双眼鏡で方向を確認して、それから風向きとか銃の調子と天気を考えて撃つ。お前たちと同じで教官から習ったこと以外、特別なことはない」


「え、で、でも……」


「何回も撃っていればそのうちわかってくる。一年経ったらまた変わってくるはずだ。まずは確実に当たる距離を探せ……ほら、もういったいった」


 イグナーツが追い立てると、二人は戸惑いながらも「は、はい!」と列の後ろに走っていった。


「……お前さあ、“いったいった”って、犬じゃねえんだから」


 デニスが呆れた目で見てくるのに、イグナーツは肩をすくめた。


「ああいうのは苦手なんだ。とくに教えることもないし、俺は教え上手じゃない」


「まあ確かに、最初からできるやつはできねえやつの気持ちはわかんねえよな……うわ、また来たぞ」


 デニスの予告通り、また隊員が二人こちらに向かってやってきた。先ほどの青年たちより少し年上で、二人とも嫌な笑みを浮かべている。今度は真面目な質問ではなさそうだ。

 二人は「トット准尉」とにやにやしながら言った。


「今朝はあの“才女の紅花”とお楽しみだったんですか」


「どうやって彼女の気を引いたんですか」


 “才女の紅花”とは、今朝隊舎に来たエルネスタの通り名だ。

 下世話な質問に、デニスは明らかに眉を寄せ、イグナーツはため息をついてから説明してやった。


「エルネスタは使いとして手紙の配達をしてくれて、窓口で少し立ち話をしただけだ。高級娼婦を買うような金は、俺にはない」


 ばか正直に答えてやるのも癪だが、勘違いされたままの方が気分が悪い。しかしイグナーツが答えたのに、隊員の一人が「またまたー」と言った。


「准尉の地位にあるんですから、俺たちより相当給料もらってるんでしょ」


「そうですよ、お金がないなんて嘘ついちゃって。それで? いくら払ったんですか」


「お前たち、准尉に失礼だぞ!」


 デニスが怒りの形相を浮かべて二人に掴み掛かろうとしたが、イグナーツは「いい、デニス」と制すると、無表情のまま二人の青年たちに向かって言った。


「お前たちの幻想を壊して悪いが、この国の准尉の給料なんて、下士官よりちょっと色がついたような程度だぞ、所詮平民だからな。それに俺には死んだ母親の残した莫大な借金がある。だから毎月の給料はほとんどそっちに流れるんだ。小銃も手入れしているが、新しく買い替える金はない。だからほら、だいぶ年季が入っているだろ。稼いでも稼いでも金は入ってこない。お前たちも借金には気をつけることだ」


 二人の隊員は、イグナーツの話に予想外だったのかぽかんとしている。すかさずデニスが声を上げた。


「わかったらもう行け、ほらほら駆け足!」


「え……は、はい」


 デニスの掛け声に促され、二人は戸惑いながらも列の後ろの方へ走っていってしまった。デニスはやれやれと肩をすくめた後、くくっと笑い声をあげた。


「イグナーツ、話が飛躍しすぎじゃねえか? 借金には気をつけろってお前、何の話だよ」


「大事なことだろ。若いうちからあると俺みたいに子どもにまで響いてくる」


 デニスは笑いながら「そりゃそうだけどさ」と言った。


「それで……あの“才女の紅花”が手紙の配達係だって? 罰当たりだな。あの人は博識で有名、詩を書いて本も出版してるらしいじゃねえか。彼女とお茶を飲むだけでいくらかかるのか知らねえのか?」


「知らないし興味ない。俺だって、別に自分から彼女に頼んだわけじゃ……」


 イグナーツは言いかけてはっと口を一瞬つぐむと、デニスの方にぐるっと向き直った。


「デニス。お前少し前に、女に手紙を書いたって言ってたよな?」


「俺が? ああ……そうだったな、馴染みの娼婦にな。何回か文通してた頃もあったねえ。哀しいことにもうすっかり疎遠になっちまったけど」


 遠い目をしたデニスだったが、イグナーツは彼の両肩をガシッと掴んで、真剣な目で言った。


「お前に頼みがある」



**********



 昼の訓練を終えた後、イグナーツは夕食もそこそこにデニスを自室に連れ込み、ことのあらましを大まかに話した。夜会で泣いている侯爵令嬢と知り合ったこと、ハンカチを渡したら今日エルネスタを通して手紙とともに刺繍まで施して返してもらったこと。手紙自体を見せるのは憚られたが、大まかな内容は説明した。ばかにされるかもしれないと思ったが、デニスは眉をしかめながらも何も言わずにすべて聞いてくれた。

 明日エルネスタに返事の手紙を渡さなければならないことを伝えると、イグナーツは言った。


「お前には経験がある。俺の代わりに気の利いた手紙を書いてくれ。頼む!」


 イグナーツが真摯に頭を下げて頼んだが、デニスは「いや無理だろ」と即答した。


「いいか、イグナーツ。今回俺が書いたところで、後になってお前が書かなかったことがその令嬢にわかったら、めんどうになること請け合いだ」


「でも、俺もお前も大して筆跡は変わらない……」


「そういう問題じゃねえ、彼女は俺じゃなくてお前からの手紙を望んでるんだぞ。ぶたれるかもしれねえってのに父親の目をかいくぐって高級娼婦を使いにしてでも手紙を届けさせてるんだ。その気持ちを大事にしてやれよ。俺はお前との仲をこじらせるつもりはねえから断ってるんだ、わかるか?」


 イグナーツはしょんぼりと肩を落とした。


 デニスは根がとても良い男である。イグナーツと同じ時期に入隊し、昔から困ったときはこうしてちゃんと話を聞いてくれる仲間だった。彼はほかの隊員たちのように、イグナーツが高級娼婦の子であることを話の種に笑ったりしない。今朝エルネスタが窓口に来ていると食堂で知らせるときも、周りを気にして、ただ“客”とだけ述べていた。

 銃の腕はいまいちだが戦時のときに隊員たちをまとめる統率力が抜群にあった彼は、軍曹という地位についている。同時期に准尉となったイグナーツに対して口は悪いし態度も大きいが、イグナーツのことを知り合ったときから友人として大事に思ってくれているのだ。



「わかってる」とイグナーツは呟くように言った。


「わかってるけど……ほんとうに何を書いたらいいのかわからないんだ。こういうのは……その、ちゃんと書いたことがない」


 途方にくれた声を出すイグナーツに、デニスは「俺だってねえよ」と頭をかいた。


「俺が書いたのは娼婦に宛てて書いた口説き文句だぜ? 貴族のお嬢様に宛てた手紙に何書きゃいいのかなんてわかりっこねえだろ。それこそ“才女の紅花”に相談すりゃよかったんだ」


 イグナーツは顔をしかめた。エルネスタに「そんなこともわからないの?」とばかにした表情で言われるのはうんざりだった。できるだけ関わりたくないというのが本音である。

 押し黙ったままの友人に、デニスは「うーん」と唸って再びばりばりと頭をかいた。


「まあ、返事はなしってのも駆け引きの一つの手だけどよ。けどさイグナーツ、お前は彼女から手紙をもらったんだろ。その手紙を読んで、お前何とも思わなかったのか?」


「何とも思わないなんてことは……その、手紙とハンカチをわざわざ届けさせてくれたことはありがたいと思ってるし……」


 デニスは「それそれ」と言った。


「手紙とハンカチをありがとうってだけでもいいんだよ。向こうだって、こっちが詩人じゃなくて軍人だってことはわかってんだ。とにかく彼女に会ったら何を伝えたいか考えろ。そしたら書けるはずだ……ほらほら、椅子に座れ」


 デニスにせかされて、イグナーツは机を前に座った。朝ずっと睨んでいたペンを手に取る。

 確かに、今彼女に会ったら言いたいことはいくつかあるかもしれない。頬の腫れは大丈夫か、父親からまた酷い目にあっていないかも気になる。ハンカチの汚れなんか気にしないのに、刺繍をしてくれたことにも礼を言いたい。それに彼女は俺の階級を教えてくれないかと手紙で尋ねていたな。

 イグナーツはペンにインクを浸すと、すらすらと思いつくことを書いていった。

 デニスはその様子に「なんだよ書けるじゃん」と笑みを浮かべた。そして「そんじゃ、また夜練でな」と声をかけて准尉室を出ていった。

 イグナーツは返事をする暇もなく、ただひたすらにペンを動かした。









ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

 軍隊に関しては乏しすぎる知識であるため、史実をもとにというよりはほぼ創作になっておりますのでご了承ください。ちなみにここでの世界の小銃にはスコープ(照準器)はついていません。

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