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12. 見破られた作戦


この話には戦闘による暴力・残酷な描写が出てきます。

苦手な方はご注意ください。




 翌日の真夜中。イグナーツはシュルツ少将率いるB班は、ゲルント駐屯地の裏門の草むらに潜んで待機していた。A班からの伝令が来るか、定めた時間を過ぎたら突入する。

 辺りはリリリ、と虫の声がするだけで静まり返っているが、おそらくもう数分もしないうちに反対側の表門から戦う喧騒が聞こえてくるはずだ。


 イグナーツは今日何度も見た駐屯地内の地図を思い浮かべた。A班が表門で騒ぎ立てて敵の注目を集めている間に、手薄になっているだろう裏門からこのB班が侵入し本拠地を奪い返して敵を挟み撃ちにする。俺は敷地内に入ったら、中央の一番高い見張り台を目指す。


 そのうち離れたところから騒ぐ声が聞こえてきた。A班が表門から突入したのだ。塀の向こうからは馬のいななきや駆ける音も聞こえる。敵も動き出したのだろう。

 しばらく聞いているとざわつきが遠くなった。シュルツ少将は耳を澄ませて門を見つめていたが、やがて“時間だ”と手振りで合図した。B班は音を立てないように気を配りながら裏門に近づいていった。






「突撃ーーッ!」


 リッツ大佐が大声をあげたのを合図に、A班の隊員たちはわあわあ声をあげながら表門の扉を破った。

 表門は前回の戦闘のさいに燃えたため、簡易的な造りになっていたようで、存外簡単に破ることができた。隊員たちはいっせいに駐屯地内になだれ込む。それぞれランプや松明を持っているのでやたら明るい。

 しかし、敷地内はどこか違和感があった。



「わあーー…………あ、あれ?」


 デニスを含め、A班の男たちは足を止め、また馬を止めて目を瞬かせた。

 扉を破った先の暗闇に見えるのは、少しだけ開けた空間があるだけで誰もいない。これだけ騒いでいるのに?

 隊員のノイベルトが馬に乗ったままその向こう側まで行こうとして、手綱を引いた。そして目の前の“暗闇”に見えるものに馬に下げていたランプを照らした。


「こ……れ、炭だ……黒い壁になってやがる……表門は二重になってるんだっ!」


 ノイベルトが怒鳴り声を上げたのと同時に、彼らの背後でガラガラと何か重いものが落ちる音がして皆振り返った。落とし格子だった。


「なるほど……俺たちはここに閉じ込められたってことだ」


 リッツ大佐が皮肉な笑みを浮かべながら歯ぎしりしてそう言ったのに、デニスは「えっ」と声を漏らした。


 そのとき上の方から笑い声が響いた。


 デニスたちが見上げると、表門の上に誰かがいるようだ。遊牧民ジーク族の人間に間違いない。

 笑い声の主は壁に姿を隠したまま言った。


「やっぱり囮作戦で来ると思ったぜ! お前たちは囮組だろ? わりいがお前たちの今の相手は俺だけだ。ここでおとなしく待ってな、大将たちは裏門から入ってくる連中をみんな片付けた後に相手してやるからよ」


 デニスは自分の顔から血の気が引くのがわかった。


「そんな、イグナーツ……!」






 シュルツ少将の合図で、B班はカギのロープで裏門を飛び越え、敷地内に入り込んだ。

 辺りを見回すと、ランプや焚火などの火元は一切消されていた。夜目にどこに建物があるかは見えるが、こんなに暗いわけがなかった。

 イグナーツは様子がおかしいと思い、立ち止まった。

 奇襲をくらったときは、誰かがどこかしらに灯をつけっぱなしにしているはずだ。


「これは一体……」


 イグナーツのすぐそばにいたシュルツ少将が呟いたとき、ヒュンと音がした。次の瞬間少将が「うっ」と声を上げて膝をつく。

 矢で射られたのだ。


「シュルツ少将!」


 驚く隊員の声に少将は「だ、大丈夫だ」と言って立ち上がった。手で抑えているのはどうやら左肩のようで、心臓は免れたらしい。

 同時にイグナーツは急に周りから現れた殺気を感じた。タタタという音から周りを大勢に囲まれたことがわかる。イグナーツの銃を握る手に自然と力がこもる。

 そのうちにぽ、ぽ、ぽっと目の前に灯りがついた。敵の持っている松明のいくつかに火がつけられたらしい。

 イグナーツたちB班はやはりジーク族に半円状に囲まれていた。ざっと二十人。皆剣を構えている。敵のほとんどがここにいるらしい。


「さてと。お客のようだな」


 中央にいる大男がふいに言った。彼が族長だろう。大柄で分厚い毛皮の上着を着ているので熊のようにみえる。イグナーツの胴ほどもある大ぶりの剣を持っていた。あんなのを振り下ろされちゃひとたまりもないな、とイグナーツは思った。


「親切に教えてやるが、お前らの囮作戦は失敗に終わっちまったぜ。残念だったな」


 族長がそう言って笑ったのに、周りのジーク族の連中が一緒にぎゃははと笑い声を上げた。


「まあ帝国の軍隊ならこのやり方で来るだろうと思ってた。表門の脳筋連中は閉じ込めてある。裏門から来たお前らは腕力のない頭脳派といったところか。こちらとしてはちょうどいい人数に減ってくれたからありがてえ……先に弱そうなお前たちの方から片付けさせてもらおうか」


 族長がこちらに一歩足を踏み出してきたので、B班の隊員たちは緊張の面持ちで一歩下がる。

 彼らと直接ぶつかり合う役目のはずだったA班が身動きが取れないとなるとやや不利な状況だ。もちろんB班とて戦えないわけではない。だが、とイグナーツはちらりとシュルツ少将の方を窺った。

 松明の灯りに照らされた少将の顔は、青白く、額から汗が流れているのが見える。傷が深いのだろうか、息が荒く立っているのもやっとのようだ。対して敵側は余裕の笑みを浮かべている。これでは明らかに士気が下がるだろう。

 とにかく戦うしかない。イグナーツは息を吐いて接近戦に備えて腰の剣に手を伸ばした――そのときだ。


 突然、B班の端にいた誰かが「みくびられたものですねえ、頭脳派は弱いなど言われるとは」と声を上げた。


 ランクル少佐だ。


 ジーク族たちは眉を寄せて彼の方に目を向けた。少佐はわざとらしくやれやれと肩をすくめた。


「理知的に物事を考える人間は、すべて正確に計算して動くのですよ。狩人と動物が出会したとき、前者が勝つのはそういうわけです」


 少佐は言いながら族長の向かいにゆっくりと移動した。


「まあよしとしましょう、こちらが弱いと思われたために、こうして大将殿とお会いできたのですから。ほんとうのことを言うと、私はできればあなたと直接対峙したいと思っていたのです」


 ランクル少佐の余裕ある話し方に、にたにた笑っていたジーク族の連中は戸惑ったような、あるいは警戒するような体勢になった。

 反対に、敵に囲まれて足をすくませていたB班の隊員たちは、少佐の自信たっぷりな様子に鼓舞されたように剣を構え、一歩を踏み出す者もいた。

 すごいなこの人。イグナーツは目を細めて上官を見つめた。


 少佐は続けた。


「大将殿は理知的に物事を判断なさるとお見受けして率直に申し上げます――このゲルント駐屯地を帝国側にお返し願えませんか。四十年前にラデッツ国との取り決めで帝国側の領土ということになっているのですが」


「返してほしいだあ?」


 族長は片眉を上げてから大口を開けて笑った。


「返すとか返さねえとかそんな理屈は知らねえ。俺たちゃ遊牧民だ、どこで生活しようと勝手にさせてもらう。んなカビ臭え取り決めなんか知るか。できるもんなら力づくで奪ってみな」


 ジーク族側からそうだそうだと声が上がる。ランクル少佐は言った。


「まあそうおっしゃるだろうとは思っておりましたよ。私たちもあなた方がどこで暮らそうと興味はありません。ですがーー少し前に、こちらにいた軍人の命を奪ったでしょう。そう乱暴な手で来るのであれば私たちも黙ってはいられないのです」


 族長の男は「……ああ、あの狡猾な男か」と一瞬だけ目を逸らしてからすぐに少佐に視線を戻した。


「そうは言うがな、あいつのせいでこっちも散々だったんだぜ。三人火に焼かれたし、馬もやられた」


「駐屯地に攻め込まなければそうはならなかったと思いますがーーとにかく私たちの仕事はこの地の奪還です。もしこのままあなた方がここを出ていってくれさえすれば、戦う必要はないのでとても助かるのですが」


「言ったはずだぜ、力づくで奪ってみな」


 族長は鼻で笑ってそう言うと、例の大ぶりの剣を少佐に向かってシュッと構えた。それに合わせてジーク族の男たちは帝国軍の方に再び剣を構え直した。

 ランクル少佐はそれを前にしても眉ひとつ動かさず、「仕方ありませんね」と言うと、自身の腰からザッと剣を抜いた。

 松明の灯りに反射してきらりと光るそのしなやかな剣にイグナーツは見惚れたが、周りの隊員たちが一斉に剣を抜いたのに、慌てて自分も従った。


 ランクル少佐はちらりと隊員たちを振り返って「それでは皆さん」とすぐに前を向くと剣を構えた。


「お言葉通り、そうさせていただきましょう」


 そう言ってランクル少佐が族長の方に斬りかかるのと同時に、隊員たちもわあっと敵に襲いかかる。ジーク族との激しい剣の戦いが始まった。


 ところが、イグナーツは敵と剣を合わせる寸前で誰かに腕を引っ張られーー次の瞬間には早々に戦線離脱させられて、ひたすらに走っていた。

 え? なんだ?! 混乱しながらイグナーツは自分の腕を取っている人物の背中を見た。暗闇の中を走っているのは、どうやらB班の隊員らしい。


「な、何を……!」


「トット准尉、あんたはこっちだっ」


 息を弾ませながら前を走る男は暗闇をすいすい進んだ。彼は人より夜目がきくらしく、何かにぶつかることはなかった。

 イグナーツを連れた男はすぐに目的地に辿り着いたーー中央の見張り台の建物である。

 建物入り口にはランプが置かれてあり、中に入るとジーク族の兵士がいた。彼はこちらに気づいて少し目を丸くさせ、すぐに剣を抜いて斬りかかってきた。


「う、うわあ」


 イグナーツは思わず声をあげたが、彼を引っ張ってきた男は剣でガギンと音を立てていなした。そして「やあっ」と勢いよく斬りつけてしまった。


 この男、早いし強い。イグナーツが目を丸くさせていると、その隊員はすぐに「こっちだ!」とイグナーツに呼びかけて建物の上へと駆け上がっていった。


 最上階の見張り台にも一人ジーク族の男が立っていたが、こちらが階段を駆け上がる音に気づいたようで、隊員の男と階段で激しく剣を交えた。

 螺旋階段になっているため後ろにいるイグナーツの位置から敵は見えなかったが、すぐに決着はついたらしい。「行くぞ!」と隊員の声がしたのにイグナーツは慌てて従った。途中で、うつ伏せに倒れた兵士がいた。イグナーツは踏まないように気をつけながら跨いで階段を登り切ると、ようやく見張り台に出た。


 隊員の男が手すりに置かれたランプを手に取ったとき、イグナーツは彼が誰なのかやっとわかった。


「あ、あのときの……!」


 昨日デニスにつっかかっていた、第二部隊の二等兵ーー確かノイベルト青年が“リールの旦那”と呼んでいた男だ。ただ昨日はきっちり整えられていた黒髪が、走ったせいかあるいは激しい戦闘のせいか今はすっかり乱れている。

 彼は顔を歪めて頷いた。


「リールだ。私は元々ランクル少佐からあんたをここに連れて来るよう指示されていた。たとえそれがどんな状況でも、とな」


 そうか。イグナーツは今戦っている最中であろう上官を思った。彼は自分に戦うべき場所はここだと示してくれたのだ。


「あんたはここから援護する。私はその場所を開き、守るという役目だ」


 イグナーツは「わかった。ありがとう、リール」と言ってすぐに見張り台の向こうを見回した。

 ジーク族によって灯りが消された敷地内はほとんど暗くて見えなかったが、裏門のすぐそばに松明の灯りの元でB班の隊員たちが戦っている姿が見えた。

 イグナーツはすぐに首から下げた双眼鏡を覗いた。狙うべき人物はただ一人、あの族長だ。

 彼はランクル少佐とずっと剣を交えているようだった。イグナーツは唇を噛んだ。上官はあんな大剣を持った男を相手にずっと戦っているのだ。早いうちに状況を収めなければならない。

 イグナーツは双眼鏡から目を離して距離を考えた。さほど遠くはない。だがこの族長、あちこちに飛び跳ねるような戦い方をするな。撃ちにくいことこの上ないぞ。

 イグナーツは焦る気持ちを抑えながら銃を構え、息を吸うと引き金を引いた。

 ダァンと銃声が響く。


 当たったか?

 イグナーツはすぐに双眼鏡で様子を窺う。

 弾は族長より手前に飛び出してきた馬に当たったようで、馬は驚いて前足を上げ、乗っていたジーク族の男を落とすと暗闇に逃げて行ってしまった。

 イグナーツはぐっと歯を噛み締めるとすぐにボルトをガチャンと直して、再び双眼鏡を覗いた。

 レンズの向こう側では、馬の近くにいた者たちが遠くから銃が撃たれたということに気づいたようで、辺りをきょろきょろと見回している。まずい、族長に暗闇に逃げられたら終わりだ。

 イグナーツは狙いを定める。どうかこの一発で終わってくれ。

 再びダァンと銃声が響いた。


「お見事」


 隣で双眼鏡を覗いていたリール二等兵が言った。

 今度こそ当たったか? 慌てて双眼鏡を目に押し当てると、族長が倒れ、地面に血が流れているのが見えた。

 当たったのだ。イグナーツは冷や汗を流しながらほっと胸をなでおろした。これで終わりだ。イグナーツはボルトを直してまた双眼鏡を覗いた。

 ランクル少佐もふうと息を吐き、剣を収めようとするのが見えた……ところがすぐに別のジーク族の男が彼に襲いかかり、再び少佐は剣を振り始めたではないか。


 リール二等兵がううむと唸った。


「大将が倒れても連中はまだ戦うつもりのようだな……確かに人数の上ではまだ互角か」


 そんな。イグナーツは双眼鏡の向こうで疲弊してきている隊員たちを見た。


 敵味方どちらも倒れている姿が見える。このままじゃだめだ。早いうちに向こうの戦意を喪失させなければならない。

 どうしよう、どうしたら敵は抵抗するのをやめるだろうか。


 イグナーツは考えを巡らせて「あっ」と声を漏らし、裏門とは反対の方向に駆け寄った。表門の方に目を凝らす。

 暗闇の向こう側で、壁に囲まれた不自然な四角形の灯りが見えた。きっとあそこだ。


「リール」


 イグナーツは双眼鏡で確認すると、振り返って言った。


「今すぐ表門の方に行ってA班を援護してやってくれないか、リッツ大佐たちがB班のもとに駆けつければ、敵も大勢を前にするから抵抗しなくなるはずだ。表門にいるジーク族の兵士はせいぜい一人か二人……」


 リール二等兵は「だ、だめだ」と眉を寄せた。


「私はトット准尉を守ると約束している。上官命令だ、ここを離れるわけにはいかない」


「そんなこと言ってる場合じゃないだろうっ!」


 イグナーツは声を荒げた。


「こうしている間にもB班では犠牲が出てるんだぞ! 今すぐにあの場を収めるにはA班の力が必要だ。俺のことはいいから行ってくれ、早くっ!」


 切羽詰まったイグナーツの迫力に、リール二等兵は思わず後ずさった。


「わ、わかった」


 そう言うと、彼は身を翻して階段を駆け降りていった。


 早く、早く。イグナーツは祈るような気持ちで表門の方を見つめた後、裏門の見える位置に戻って双眼鏡を覗いた。

 B班の隊員たちはまだ頑張っている。ランクル少佐も剣をふるっているが、表情に薄い笑みが浮かんでいる。ああ、余裕がなくなってきたんだ。

 イグナーツは眉尻を下げ、ぎゅっと双眼鏡を握った。そのとき、少佐のすぐ近くで紫の憲章の男が倒れたのが見えた。あれはーー昨日会話に入ってきた第四部隊の男だ。イグナーツは唇を噛んだ。

 くそ、やっぱりここから援護しよう。イグナーツは銃を構え、狙いを定めるとダンと撃った。すぐに双眼鏡で確かめたが、ただ地面に当たっただけのようだ。やっぱり外したか。

 標的がじっとしているか、まっすぐに進んでいるだけであれば狙いは定めやすいのだが、四方に動いていてかつ戦っている人物の動きは、イグナーツは読むことができなかった。

 俺にもっと剣術の才があれば読めたのに。そう思いながらイグナーツが再び銃を構えたときだった。


 突然後ろから、「お前か、アルを殺したやつぁっ!」と怒声がしたかと思うと、ジーク族の兵士らしき人物がイグナーツの方に剣を振りかざしてきた。

 イグナーツはとっさに持っていた小銃でそれを受け止めた。


「ぐっ……!」


 ガッと銃に剣が刺さると同時に、ダンと明後日の方向を向いて銃口から弾が放たれた。

 男はそのまま剣を振り回し、イグナーツの銃をガチャンと床に落とさせると、刃の切先を彼に向けた。

 イグナーツは慌てて相手との距離をとり、目の前で荒く息を吐いているジーク族の男の様子を窺った。


 男は目を血走らせてこちらを睨みつけている。明らかに俺に恨みを持った顔だ。族長を撃ったのが俺だとわかったのだろう。


「許さねえ、絶対許さねえ!」


 イグナーツは喚いている男の声を聞きながら床に視線をやった。

 俺の銃はどこだ……あそこか! イグナーツの小銃は、敵の男の足元に転がっていた。

 遠い。このままでは取り返すのは難しいだろう。


 そうこうしているうちにジーク族の男は「殺してやるっ!」と吠えながらイグナーツに向かって剣を振り下ろしてきた。

 イグナーツは慌てて腰から剣を引き抜くと応戦した。ガキンガキンと打ち合ったが、すぐにイグナーツの剣は叩き落とされてしまった。あっと思った瞬間、振り上げられた剣の刃が、イグナーツの胸から腹をザッと切り裂いた。


「……っ!」


 イグナーツは痛みに顔を歪めたが、倒れはしなかった。痛みからして深くはない。

 だが、武器はもう左の腰の短剣しか残っていない。くそ、銃さえあれば。


 イグナーツは再び床に転がっている自分の銃に目をやった。今度は敵の男よりもこちらの方が近くなっている。

 今なら取り返せる!


 イグナーツは急いで拾おうと銃の方に駆け寄ったーーだが、ジーク族の男が投げた剣の方が早かった。


 剣はブンッと音を鳴らしてイグナーツのすぐ目の前の床にグサリと刺さり、彼のゆく手を遮らせる。イグナーツは驚きあまって尻餅をついてしまった。


 ジーク族の男はイグナーツが手を伸ばそうとしていた銃を拾い上げた。

 最悪な状況である。イグナーツは座り込んだまま固まるしかなかった。


「へへっ……お前を自分の銃で殺してやろう、ざまあみろってんだ」


 ガチャンと音を立ててボルトが直される。ジーク族の男は銃口をイグナーツの方に向けた。

 避けなければ、とイグナーツが思う前に引き金が引かれた。


カシ、と情けない音が響く。


「え?」


 弾切れだ!


 幸運だと思ったその瞬間、イグナーツは目の前に大股で立っている男の姿が、いつか前にリッツ大佐と剣術の模擬試合をやったときの情景と重なって見えた。

 『不意をつくしかない』と言われたときの、あの手なら!


 イグナーツは、男の足の間をぐるりとくぐり抜けた。そして男の背後に回り、腰から短剣を抜き取ると、すぐさま背中の左側を貫いた。

 後ろから心臓を貫かれた男は「ぎゃああっ」と叫んでばたりと倒れた。


「ぐ、ぐ……マリ……ア……」


 男はそう呟きながら床に倒れてから起きあがろうと手を震わせていたが、やがて力尽きたように絶命した。


 イグナーツは、動かなくなった男を見て、ふうと息を吐き、その場にへなへなと座り込んだ。

 危ないところだった。あのときの訓練がここで役に立つとはな。


 イグナーツは倒れた男の方に近寄ると、まずは自分の銃を取り戻した。そして銃槍を確認する。


 この小銃には弾が全部で五発入る。最初の一発目は馬に当たり、二発目は族長に当たった。三発目は裏門近くの地面に、四発目はこの見張り台の壁だ。

 そうだった。五発目は、俺は最初から入れていなかったんだ……ビアンカ嬢に持ってもらっている弾の分を空けていたから。さっきまでは入っているものだとばかり思って銃を取り返そうと必死だったのに、結局ここの中に弾はなかった。そしてそのおかげで助かったのである。

 イグナーツは目を閉じて、両腕で銃を抱き込んだ。


「ありがとう……ビアンカさん」



 それからイグナーツは、倒れている男の腰から短剣があればもらおうと探ったとき、ポケットから紙切れがはみ出ていることに気づいた。手の平ほどの大きさの四つ折りにされている。

 なんだろうと気になって広げてみると、そこには女性のスケッチが描いてあった。下にはマリアという文字が刻まれている。

 先ほど男が絶命する直前に彼女の名前を呟いていたのを思い出し、イグナーツは目を細めた。


 ああ。この男にもマリアという大事な女性がいたのだ。

 もしかしたらここで倒れているのはーービアンカと呟いて死ぬのは自分の方だったのかもしれない。

 イグナーツはしばらく沈黙していたが、やがて似顔絵の描かれた紙を元のように折りたたんで男の手に握らせた。


 すっくと立ち上がると、イグナーツは裏門側の手すりまで行って、双眼鏡を覗いた。

 レンズの向こうに願っていた光景が見える。よかった、戦闘は終わったらしい。

 イグナーツは安心してほうっと息を吐いたが、胸と腹を切られた痛みを思い出した。

 双眼鏡を首から外し、鞄に常備している布切れを取り出した。そしてそれをびりびりと裂き、怪我の止血を行うことに専念した。






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