礼を言うほどの事ではないのだけれども
Side エイダの街の魔女
回りの店が開き始める時間。私はいつものように扉の鍵を開け、そして札をひっくり返す。急に影が出来たので振り返れば先日来た王太子だった。
「これは……またお忍びですか?」
ニコリと笑ったが、彼は少し困ったように笑った。流石に彼の話をこの往来の多い場所で聞けるはずもなく、店の中に招くことにした。自分一人で飲むつもりで入れた少し高値の紅茶を仕方なく二人分のカップに分けた。
「それで、どうなさったのですか?」
紅茶を出しながら彼が言葉に出すのを待った。何故か彼の周りの小さな精霊たちが、彼にちょっかいを出していた。何かを伝えよう、というよりは彼に何かを話させたいように見えた。残念ながら、私は精霊たちが見えるだけで声を聞くことは叶わない。だから彼が言葉を発するのを待つしかないのだ。
「まずは、感謝します。紹介していただいたイライジャ帝国の皇后陛下にお会いして、精霊の『加護』が良いものだと知れました。ありがとうございました。」
「イライジャの……ダナに会ったのですね?あの子は私と違って精霊の声を聞けますからね。」
「はい、それで、その……。」
彼は少し悩んだようだった。そして、その後の言葉に思わず笑ってしまった。
「『ロラン、君の運命が見つかれば、私は何もしなくなるよ?』ってダナの口から言わせたのね!あの子から『運命』なんて言葉を言わせるなんて、サングロウの精霊王はユーモアがある方なのね。」
「言われた私の気持ちも考えてくれ……妃を見つけなければならないのは分かっているが、まさかそんな差し迫った理由で妃を探すことになるとは思っていなかった……。」
「あら、何故?王族ならば、政略結婚は当たり前でしょう?ある程度候補だっているでしょうに。」
「普通であるなら、そうなのだろうが、何故か母や、周りが薦める令嬢に会おうとすると『加護』が発動する。」
「だとしたら、その令嬢は貴方にとってではなくて、国にとって良くないのね。まあ、出会っている中に居るのならば、そのうち出会えるでしょう。」
ニコリと笑えば、彼は小さくため息を吐いて、私の淹れた紅茶を含んだ。王族に毒見なしで飲ませて良かったのだろうかと今更思ったが、彼は気にしていない様子だった。
「あれ、これってリヴェインシュタイン領の紅茶?」
飲んだ瞬間、彼はそう言った。心臓が驚くほど速く鳴っている。王族が『この紅茶』を飲んだことがあるとは思っていなかった。私の表情が見えたのか、彼は小さく笑った。
「あれ、違った?」
「あ、いいえ、リヴェインシュタインのモノですが……よく分かりましたね?」
「やっぱり。この紅茶好きだし、私からしたら希望だからね。」
そう言った彼は笑った。楽しそうなようなその笑顔は、私の心には少し眩しく見えた。
「希望、ですか?」
喉が張り付くような感覚。紅茶で潤すべきなのに、今は飲みたくはない気がした。
「希望だよ。リヴェインシュタイン領って不作の地って言われているのに、この紅茶だけは育つのだよ。つまりはまだ見捨てられた土地ではないってことだよ。
だから『リヴェインシュタインの紅茶』は私の希望なんだ。」
ポロリ、と頬に涙が伝った。目の前の彼は驚いたように目を丸くした。いけないと思った時には流れてしまったが、一粒で済んだ。
「申し訳ないわ。リヴェインシュタイン大公国は私の故郷ですから、少し、希望を持っただけですわ。」
「あ、そうか……。すまないことを聞いた。」
「いいえ、『リヴェインシュタインの紅茶』を王族、ましてや王太子殿下と語らい合えることができたのは光栄なことですわ。」
そう言って何とか笑みを浮かべた。彼はまた来ると言ったが、出来るなら来てほしくないと思った。
その夜、私は数十年ぶりに故郷を思い出して泣いた。