礼を言うほどの事ではないのだけれども
Side エイダの街の魔女
エイダの街は朝から活気づいている。
石畳の通りに屋台や店の軒先が次々と開かれ、香ばしい焼き菓子の匂いと、パン屋の湯気が漂う。
私はいつものように扉の鍵を開け空気を入れ替える。
両面に文字の掛かれた札を『OPEN』へとひっくり返す。
不意に影が差した。顔を上げれば、先日訪れた王太子がそこに立っていた。
普段の市民服に身を包み、目立たぬようにしているが、隠しきれない威厳と雰囲気はやはり彼をただの街の人間としては映さない。
「これは……またお忍びですか?」
ニコリと笑ったが、彼は少し困ったように笑った。
流石に彼の話をこの往来の多い場所で聞けるはずもなく、店の中に招くことにした。
静かな店内で、棚に並んだ瓶や乾燥薬草の香りが満ちる。
一人で飲むつもりで入れた少し高値の紅茶を、仕方なく二人分のカップに分けた。
「それで、どうなさったのですか?」
問いかけると、彼はしばし言葉を探していた。
その間、小さな精霊たちが彼の肩や腕の周りをふわふわと飛び交い、時に彼の髪を引っ張ったり、袖を叩いたりしている。まるで“早く言え”と急かしているようだ。
私には力なきその精霊の姿は見えても声は聞こえない。
ただその光景を眺めるしかなかった。
やがて彼は深呼吸をして、真っ直ぐにこちらを見た。
「まずは、感謝します。紹介していただいたイライジャ帝国の皇后陛下にお会いして、精霊の『加護』が良いものだと知れました。ありがとうございました」
「イライジャの……ダナに会ったのですね?あの子は私と違って精霊の声を聞けますからね」
「はい、それで、その……」
そこで言葉が詰まり、逡巡が見えた。
その後に続いた言葉に、私は思わず吹き出しそうになってしまった。
「『ロラン、君の運命が見つかれば、私は何もしなくなるよ?』ってダナの口から言わせたのね!あの子から『運命』なんて言葉を言わせるなんて、サングロウの精霊王はユーモアがある方なのね」
「言われた私の気持ちも考えてくれ……妃を見つけなければならないのは分かっているが、まさかそんな差し迫った理由で妃を探すことになるとは思っていなかった……」
「あら、何故?王族ならば、政略結婚は当たり前でしょう?ある程度候補だっているでしょうに」
「普通であるなら、そうなのだろうが、何故か母や、周りが進める令嬢に会おうとすると『加護』が発動する」
「だとしならならば、その令嬢は貴方にとってではなくて、国にとって良くないのね。まあ、出会っている中に居るのならば、そのうち出会えるでしょう」
ニコリと笑えば、彼は小さくため息を吐いて、私の淹れた紅茶を含んだ。
王族に毒見なしで飲まして良かったのだろうか?と今更思ったが、彼は気にしていない様子だった。
「あれ、これってリヴェインシュタイン領の紅茶?」
飲んだ瞬間、彼はそう言った。
心臓が驚くほど速く鳴っている。
サングロウの王族、ましてや王太子である彼が『この紅茶』を飲んだことがあるとは思っていなかった。
私の表情が見えたのか、彼は小さく笑った。
「あれ、違った?」
「あ、いいえ、リヴェインシュタインのモノですが……よく分かりましたね?」
「やっぱり。この紅茶好きだし、私からしたら希望だからね」
そう言った彼は笑った。楽しそうなようなその笑顔は、私の心には少し眩しく見えた。
「希望、ですか?」
喉が張り付くような感覚。
紅茶で潤すべきなのに、今は飲みたくはない気がした。
「希望だよ。リヴェインシュタイン領って不作の地って言われているのに、この紅茶だけは育つのだよ。つまりはまだ見捨てられた土地ではないってことだよ」
そこで彼は嬉しそうにカップに入る紅茶を見た。
「だから『リヴェインシュタインの紅茶』は私の希望なんだ」
ポロリ、と頬に涙が伝った。
目の前の彼は驚いたように目を丸くした。
いけないと思った時には流れてしまったが、一粒で済んだ。
「申し訳ないわ。リヴェインシュタイン大公国は私の故郷ですから、少し、希望を持っただけですわ」
「あ、そうか……。すまないことを聞いた」
「いいえ、『リヴェインシュタインの紅茶』を王族、ましてや王太子殿下と語らい合えることができたのは光栄なことですわ。」
笑みを作り、涙を誤魔化した。
だが胸の奥はざわめき続けていた。
彼はまた来ると告げて帰っていったが、私の心は複雑だった。
できるなら――これ以上は距離を詰めてほしくない。そう思った。
その夜、私は数十年ぶりに夢の中で故郷の光景を見た。
滅びる前のリヴェインシュタインの青々とした畑と、茶葉の香り。
はしゃぐように笑い合う弟妹。
鮮やかで色とりどりの日々は喪失共に喪った。
目を覚ました時、頬は濡れていた。
私はただ、声を上げずに静かに泣いたのだった。




