20 原始の神様を召喚する
次の日の朝、起き上がれないほどではないにしろ、ディアは全身が痛かった。
(なんてか弱い身体……。まぁ、最近まで部屋に閉じこもって、めったに外に出なかったから仕方ないか)
父が「神殿に行った次の日は、ディアが疲れているだろうから朝食は部屋で摂るように」と気を遣ってくれたおかげで、思いっきりダラダラできた。
ベッドの上に寝転がったまま、アーノルドが翻訳してくれた南部地域の本に目を通す。内容は、南部地域の気候だったり、主な輸出品目だったりと、当たり障りのないことしか書かれていない。
(とりあえず、一年中気候が暖かい地域なのね。沖縄とかハワイって思っておいたらいいのかな?)
砂漠は無いようで荒れた土地ではなさそうだ。アーノルドは結構な量の紙束をくれたが、南部の神様について書かれていることはほんの数行だった。
(『野蛮かつ人々を苦しめる邪神』かぁ)
仕方がないので、ディアはアーノルドが最後にくれたメモを開いた。アーノルドの母の日記に挟まっていたというそれには、南部の神を召喚する方法が書かれている。
(まぁね、この流れだと、アーノルドのお母さんは自分が病で死ぬ前に邪神を呼び出して、アーノルドにこの国を滅ぼしてもらおうと思ったんでしょうね……たぶん)
この世界では、正しい手順を踏むと神様を召喚できてしまう。そして、召喚した神様に気に入られると加護を受けることができ、不思議な力が使えるようになる。ただ、神様によってそれぞれ召喚方法は違うし、万が一、神様の怒りを買うとその場で殺されてしまうこともあるほど危険な儀式だ。
(この国では、女神アルディフィア様の召喚は、選ばれた高位の神官しかできないのよね)
それも、数々の神聖な儀式を行った後にしかアルディフィア様は現れないらしい。それに比べると南部の神様の儀式は比較的簡単に思えた。
(えっと、新鮮な野菜や果物を神に奉納して、この魔法陣みたいな文様を『太陽の鮮血』で描き強く祈るか。うーん、太陽の鮮血が何か分からないわね)
アーノルドの母のメモには、『太陽の鮮血が手に入れられない』と小さく書かれていた。その横には絵も描かれている。
(うん? 丸の上に星マークが描かれてる……これは、みかん? いやいや、鮮血っていうくらいだから、たぶん赤いよね。イチゴ……いやトマトかな?)
まったく別のものの可能性もあるが、確かにイチゴもトマトもこの国では見たことがない。さっき読んだ紙束をめくると、南部ではイチゴはないが、トマトは作られているらしい。
(お父様にお願いしたら取り寄せてもらえるかな?)
ただ、トマトが手に入ったからと言って、儀式をするかは悩ましいところだった。
(もし、私に何かあったら、お父様もお兄様もエイダも悲しむよね……)
それでも念のため、次の日の朝食で、父と顔を合わせた時にお願いしてトマトを取り寄せてもらった。お願いした次の日には、もうエイダがトマトの鉢植えをディアの部屋に運んできた。
(公爵家ってすごいのね……)
エイダが窓際に、真っ赤な実をつけた鉢植えを置きながら「不思議な植物ですねぇ」と感心している。この世界のトマトは酸味が強すぎるので、この国には食用ではなく観賞用に輸入されているらしい。
エイダが「何かあったらお呼びくださいね」と頭を下げて部屋から出ていく。
ディアは鍵のついた机の引き出しから、アーノルドの母のメモを取り出した。
(やる? やめとく?)
メモを片手に部屋の中をグルグルとまわる。決心がつかず、一度メモを机の上に置いた。そして、ハサミを持つと、トマトの枝を切った。パチンと音がして、トマトが一つディアの手のひらに乗る。それをメモの横に並べてしばらく眺めていると、ふと『食べてみようかな?』と思った。
すごくまずいらしいので、ただの興味本位だった。
お嬢様らしくなく、丸ごとトマトに噛り付く。ディアの口にトマトの汁が広がったとたんに、ディアは激しくむせた。
「うわっ、まずっ!?」
酸味が強いだけではない。青臭い上に、甘みが少しもなかった。とっさに口の中のトマトを吐いてしまい、机がトマトの汁塗れになる。アーノルドに貰ったメモもトマトの汁で汚してしまった。
(あーん、せっかくアーノルドがくれたのに!)
乾かそうと思い、メモを窓際のトマトの鉢植えの横に置いたとたん、メモの魔法陣のような文様が光り輝いた。
「え?」
驚いているうちに、メモから人影が現れた。ディアが慌てて部屋の隅まで逃げると、窓際に男が浮いている。
男は上半身裸で獣の毛皮で作られた腰巻をしていた。鍛えらえた褐色の肌には、見たこともない模様の刺青が施されている。そして、アーノルドと同じような真っ赤な髪を持ち、その髪から狼のような耳が生えていた。腰には狼の尻尾のようなものまでついている。
(明らかに人じゃない! もしかして、うっかり原始の神様を召喚しちゃった!?)
男はくんくんと鼻を鳴らした。
--臭い。あの性悪女の匂いがするぞ。
ふわっと宙を移動し、男はディアの前に降り立った。そして、顔を近づけまた匂いを嗅ぐ。近くで見た男の瞳がアーノルドと同じ黄色で、ディアは場違いにも綺麗だと思ってしまった。
--お前、あの性悪女の愛おし子だな? 答えろ!
「しょ、性悪女って?」
なんとかそれだけ声を絞り出すと、男は顔を離し『あれだ、あれ、アル、デ? アルなんとか……フェア?』と言いながら腕を組む。
「それってもしかして、女神アルディフィア様のことですか?」と尋ねると『それだ!』と言いながら男はディアに指を指した。
--お前は、あの女のお気に入りの人間、愛おし子だ。だから、あの女の臭いが染みついておる。
「あなた様はもしかして、原始の……南部地域の神様ですか?」
--何だ? 知らずに召喚したのか?
「いえ、そもそも召喚したつもりがないのですが……」
恐る恐る尋ねると、男神は『文様に太陽の鮮血がかかり、新鮮なトマトを奉納したから出てきてやったのだ』と答えた。
(……え? 召喚の基準、ゆるすぎない?)
男神は両手を腰に当てて『性悪女の愛おし子が我になんの用だ?』とこちらを見下ろしている。
(この神様、予想外に会話が成立している。今のところ、暴力も振るわれてないし、これは、チャンスかも?)
「何点か質問してもいいですか?」
--いいだろう。正直、ものすごく暇だから特別に許す。
「えっと、あなた様はなんの神様でしょうか?」
--我は豊穣と愛の神だ。
女神アルディフィアも豊穣と愛の神だった。清楚で高潔なイメージのアルディフィアに比べて、目の前の男神は雄々しく体中から色気のようなものが立ち込めている。同じ加護を持つ両極端な神を見て、ディアは小さく頷いた。
(これは、価値観の違いというか、宗教対立が起こるべくして起こった感があるわね……)
きっと、どちらも相手のことを、ものすごく嫌っていそうだ。
「えっと、では、アーノルドの側にいる神様と、あなた様は同一神ですか?」
男神は『アーノルド? ああ、あれか……』と不機嫌そうに目を細めた。
--同じであり、同じではない。あれは、あやつの母が太陽の鮮血の代わりに、自身の血を使って、我を元にし妄執の末に作り上げたただの影よ。しかし、この国の人々の我のイメージと合わさり具現化しおった。具現化したアレに何かを強く望めば邪神となろう。
(ということは、今のアレはまだ正式には神様ではないのね? だから、邪神になりたくてアーノルドにしつこく望みを聞いているってこと?)
「それって、あなた様ならどうにかできますか?」
--どうにかとは?
「その具現化したアレをやっつけるとか? 私はアーノルドを助けたいんです」
--どうして?
「それは……」
ディアは男神から少し視線を逸らした。
「す、好きだから、です」
男神は笑った。まるで太陽のように明るい笑顔だ。
--いいな。そういう話は心地好いぞ。ただし、助けることはできん。我らはアルなんとかという新参者どもとは違い、人の定めには極力関わらないようにしておるのだ。あやつらは、神力が弱く数ばかり多い新参者どものくせに、我が物顔で人の世を乱す。最近のあやつらの行動は目に余る。
「では、仮にそうだとして、力が強いあなた様はどうしてアルディフィア様達をそのままにしているのですか?」
素朴な疑問だったが、男神の瞳が鋭くなったので『しまった』とディアは思った。
--それは愛おし子のお前が一番よく分かっているのでは?
「私が……?」
--そうだ。あの新参者どもは、弱いくせに自分の命と引き換えに時を巻き戻す力を持っておるのだ。我ら原始の神々は、何万回とやつらに勝利したが、その度にあやつらは時を巻き戻した。そのうちに、この地におった原始の神々は呆れ果ててこの地を去っていった。我を除いてな。
ディアは、実際にアルディフィアの最後の力で時を巻き戻してもらった。時を巻き戻せる新参者の神々は、力の強い原始の神々に、勝てはしないが決して負けることもなかったということらしい。
(ああ……なるほど)
男神の話を聞いたディアは思った。
(え? じゃあ、これって、どっちが悪い神様?)
この瞬間、初めてディアの中で、女神アルディフィアへの信仰が揺らいだ。




