18 胸が痛い
神殿に向かう馬車の中で、ディアはエイダと向き合っていた。どこか緊張気味のエイダの膝の上には小さな鞄があり、そこにはアーノルドに返す本と、クッキーを詰めたビンが入っている。
エイダが重いため息をついた。そのとたんにエイダの心の声が聞こえてくる。
--せっかくお嬢様との楽しいお出かけなのに、私にお嬢様を監視しろ、だなんてベイル様はいったい何を考えているの?
エイダは無言でディアに視線を向けた。
--それに、お嬢様にこんな地味なグレーのワンピースを着せて、茶色のフードマントで顔まで隠させて! もう少し、綺麗な色があったでしょう!? これじゃあ、お嬢様の美貌が台無しよ! 今日は妖精のように愛らしくお嬢様を着飾ろうと楽しみにしていたのに!
(エイダは、あまりベイルお兄様のことが好きではないのね)
「ねぇ、エイダ」
だいぶご立腹のエイダに、ディアは静かに話しかけた。ここでエイダに仲間になってもらえなければ、アーノルドのことがベイルにバレてしまう。ディアは慎重に言葉を選んだ。
「エイダは好きな人、いる?」
エイダのそばかすのある可愛らしい頬がポッと赤く染まる。
「そんな、いませんよ! 私なんて!」
「そうなのね」
エイダが恋をしていたら、エイダの恋バナをたっぷり聞いて気分良くなってもらったあとに、「実は私も」とアーノルドのことを切り出そうとしたのに、それはできないようだ。
(アーノルドのことをなんて言えばいいのかな……えっと)
--お嬢様、急に頬が赤くなって、恋のお話に照れてらっしゃるのかしら? 照れるお嬢様、かぁんわいいーー!!
エイダの心の声を聞いて『そんなに顔に出てるの私!?』とディアはあせった。
「もしかして、お嬢様は好きな方がいるんですか?」
そう聞かれて、ディアがこくんと頷いたとたんに、馬車の中に「ええっ!?」と大きな声が響いた。静かに馬車が止まり、護衛としてきていたラルフが自馬から降りると馬車の扉をノックした。
「今、叫び声が聞えたのですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
ディアがそう答えると、ラルフは御者に「大丈夫だ」と伝え、また馬車はゆっくりと動き出す。
エイダが顔を真っ赤にしながら、両手で自分の口を押さえている。そして、ハッと顔を上げた。
--もしかして、お嬢様は好きな方に会うために神殿に行くのかしら? クッキーはその方へのプレゼント? あ、だからベイル様がお嬢様を監視しろと?
(そうよ、だからお兄様には絶対に言わないで!)
ディアは祈るように両手を胸の前で握りしめると、エイダを見つめる。
「お父様もお兄様も知らないの。私がこの話をしたのはエイダだけ」
--私だけ……。
「エイダ、内緒にしてくれる?」
エイダは前のめりになって両手で膝の上の鞄を握りしめた。
「もちろんです、お嬢様!」
その瞳はキラキラと輝き、ディアへの好意で満ちている。一番の危機はなんとか切り抜けたようねと、ディアは胸を撫で下ろした。
馬車が神殿の前に停まると、ディアの脳内は騒がしくなった。ウキウキとしているエイダと、暗い顔のラルフの心の声が次々に流れ込んでくる。
--お嬢様の好きな方、どんな方かしら? ああっ、楽しみだわ!
--はぁ……俺はいったいどうすればいいんだ? この切ない恋をただ見守ることしかできないのか……。
ディアは他の場所に目もくれず、瞑想室を目指した。ラルフの絶望する声が脳内で聞こえる。
--うわぁ、やっぱりクラウディア様はここに向かうのか。神殿には、アーノルド殿下に会いに来たんだな……。
瞑想室の扉を開くと、背後でエイダが「わぁ綺麗」と感嘆の声を上げた。壁一面に広がるステンドグラスの美しさに目を奪われているようだ。ディアはお目当ての人の後ろ姿を見つけると、顔を隠していたフードを肩に下げ、エイダから鞄を受け取った。
「え? 持ちますよ、お嬢様?」と言いながら、後を追おうとするエイダをラルフが止める。
「俺たちはここで待っていましょう」
「あ、はい……?」
不思議そうにしているエイダとラルフに、感謝の気持ちを込めて小さく手を振る。気が付けば、ディアは愛おしい赤い髪を目指して軽やかに走り出していた。
瞑想室の椅子に座っているアーノルドは、背中を丸めて自分の膝の上で何かを必死で書いていた。隣に置いた本を紙に書き写しているようで、とても集中している。側にいても気が付かれないことを良いことに、ディアはアーノルドの横顔を観察した。
赤い髪のアーノルドは、確かに金髪碧眼の王子様のようではないが、とても誠実そうで整った顔をしている。この国では珍しい赤い髪と黄色い瞳が神秘的だ。薄く引き締まった唇の端に、青いアザができていた。
アーノルドが「よし、終わった」と呟いたので、ディアは「アーノルド、ここ、どうしたの?」と口元を指さしながら声をかけた。
こちらを振り返ったアーノルドが、瞬きをしてしばらく間を開けた後、「うわっ!?」と大きく仰け反る。
「ええっ、ディア!? あれ? もう10日経ったの?」
アーノルドがインクで汚れた右手で不思議そうに目をこすったので、ディアは首を左右に振った。
「ううん、まだ5日しか経ってないけど、アーノルドに会いたくて来ちゃった」
そう伝えると、黄色の瞳が驚きに見開かれ、アーノルドの首から頬にかけてみるみると赤く染まっていく。
(はうっ、かわいい!!)
思わず脳内でベイルのような声が出てしまい、兄妹の血は争えないなとディアは思った。ディアはアーノルドの隣に座る。
「ねぇ、唇のここ、アザができてるよ?」
「あ、うん……」
気まずそうにアーノルドは視線を泳がせた。
「えっと、剣術を始めて……その、少し身体を鍛えようかなって」
--前にディアを支えきれなかったことが悔しくて、ディアを守れるくらい強くなりたいって言ったら笑われるかな……?
アーノルドの瞳が不安そうに揺れている。ディアは胸が温かいもので満たされていくような不思議な気持ちになった。
「剣術、いいね!」
「あ、でも、僕、ぜんぜん才能がなくて……」
ディアはアーノルドのインクで汚れた手を握った。
「始めは誰でもそうだよ。アーノルドは絶対に剣術の才能があるから大丈夫!」
(だって、小説の中の狂王アーノルドは、「こんなのどうやって倒すの!?」ってくらい、強かったから……)
アーノルドは「そ、そうかな?」と俯いて頬を染めている。
「強くなったら、私を守ってね」
ハッと顔を上げたアーノルドは嬉しそうに「うん!」と頷きフワリと微笑んだ。
(はぐっ、か、かわいい……!)
今ならベイルの気持ちが分かってしまう。可愛いものは何をしても可愛い。自分が気に入った可愛いものをとことん愛でて褒めたいという欲求は、ペイフォード公爵家の血なのかもしれない。
(はぁはぁ、落ち着け、私)
少し話題を変えようと、ディアは「何を書いてたの?」と、アーノルドに聞いてみた。
「あ、そうだ」
アーノルドは膝の上に置いてあった紙を綺麗にまとめてディアに差し出した。
「これ、約束してた南部地域の本だよ。ディアが南部の言葉を読めるか分からなかったから、この国の言葉に訳しておいたよ」
受け取った分厚い紙の束を見て、ディアは驚いた。
「こんなに、たくさん……?」
「ううん、本当はもっとあったんだけど、ほとんど閲覧も持ち出しも禁止にされてたからこれだけしかなくて」
アーノルドは申し訳なさそうに「ごめんね」と言った。とたんに、ディアは胸が痛いほど締め付けられた。強く心に浮かぶこの言葉を、今、どうしても口にしたかった。
「……き」
「え?」
「アーノルド、大好き」
ディアの瞳からふいに涙がこぼれた。過去の16歳のディアは、こんなにも誰かを好きになる日がくるなんて夢にも思ってもいなかった。アーノルドは長い間ためらった後に、「……僕も」と消えそうな声で呟いた。
「僕もディアが大好き」
お互いに涙を浮かべ視線を合わせて、恥ずかしそうに微笑み合う。少し気まずくなって、ディアは持っていた鞄を開いた。
「あのね、この本、前にここに忘れてたよ」
綺麗にラッピングされた本を見てアーノルドがわぁと嬉しそうな顔をする。
「ありがとう」
--ディアからプレゼントを貰ったみたいで嬉しいな。
「あと、アーノルドって甘いもの好き?」
そう言いながら、ビンに詰めたクッキーを渡すとアーノルドはなぜか小さく震えた。
「……貰って、いいの?」
「うん、アーノルドにプレゼント」
--初めてもらった。
(……え?)
アーノルドの声を聞いてディアはあせった。
--プレゼント、初めてもらった。
「ありがとう、ディア」
その笑顔はあまりに嬉しそうで幸せに満ちている。ディアは、アーノルドが普段どういう生活をしているのかを考えて、今度は別の意味で胸が痛くなった。