15 守るべきもの
ディアとラルフは、神殿の入口付近でベイルが来るのを待っていた。その間も、ディアの頭には、ラルフの心の声が響いている。
--はぁ……。瞑想室でクラウディア様がアーノルド殿下に話しかけた時に、俺は止めるべきだったのか? いくら王族でも、なんの後ろ盾もないアーノルド殿下が、公爵家のクラウディア様とうまくいくはずがない。アーノルド殿下は、苦しい片思いだな……。ああ、この先の展開を考えるだけで俺はつらい。
(え? 私、アーノルドと結婚できないの?)
過去に結婚式まで挙げていたので、てっきり今回もアーノルドと結婚するのかと、ディアは思っていた。
(そっか、私達が結婚できたのは、あの危ない神様とアーノルドが契約したからなんだ……)
ディアは胸に微かな痛みを覚えた。
(結婚できないと知って、胸が痛くなるくらいには、私は今のアーノルドのことが好きなのね)
ディアは隣にいたラルフに向き直った。
「あの、もし私が結婚するなら、どういう身分の方ですか?」
「え?」
ラルフは驚いて瞬きをしている。
--急にこんな質問をするってことは、もしかして、クラウディア様もアーノルド殿下に好意を……?
ラルフが何か口を開こうとした瞬間に、ディアの背後を見て固まった。
「だ、団長……」
ディアが慌てて振り返ると、ベイルが背後に立っていた。そして、低い声で「ずいぶんと楽しそうな話だな」と瞳を鋭く細める。
「おかえりなさい、お兄様」
ディアに返事もせずに、ベイルはディアをお姫様だっこした。
「帰るぞ」
その声は、ものすごく不機嫌そうだ。ラルフは走って公爵家の馬車を呼びに行った。ベイルの心の声が荒ぶっている。
--ディアが急に結婚の話をするなんて、一体どういうことだ? まさか神殿内でディアの可愛らしさに目がくらんだ男が、ディアに無理やり言い寄ったのか!? 許さん……身のほど知らずめ。まぁいい、後からラルフを問い詰めるとしよう。
(どうしよう……ラルフがアーノルドのことをお兄様に伝えたら、もう二度と神殿に来られなくなるわ)
公爵家の馬車がベイルとディアの前に停まった。馬車の御者は恭しく扉を開く。ラルフは自分が乗ってきた馬を引いて、青い顔のままその様子を見ていた。心の声はひどく怯えている。
--ヤバい。後から団長に「神殿内で何があった?」と問い詰められるぞ。アーノルド殿下のことを正直に話さないと、俺、殺されるかも……。
軽く死を覚悟しているラルフを見て、ディアも青ざめた。
(家に着くまでに、お兄様に機嫌を直してもらわないと、アーノルドに二度と会えない)
ベイルとディアが馬車に乗り込むと、馬車の扉は締められた。
行きの馬車と同じようにディアはお姫様だっこ状態でベイルの膝の上に乗せられていた。しかし、行きの馬車とは違い、ベイルは終始不機嫌だ。
--俺の許可なく、ディアに愛を囁いたのは、どこのどいつだ? 見つけたら二度とその軽率な口を開けないようにしてやる。
(誰にも愛なんて囁かれてないから!)
脳内でどんどんと暴走していくベイルに、ディアはどうしたらいいのか分からずため息をついた。その様子に気が付いたベイルは目元を少し赤くして「疲れたのか、ディア?」と尋ねた。
ディアは力なく首を振る。
「では、何か悩みでもあるのか?」
--まさか神殿で何か不埒なことをされたのではないだろうな!?
ベイルの瞳は鋭いを通り越して殺気を宿している。ディアはその瞳から逃げるように両手で顔を覆った。
(ああもう、どうしたら……。お兄様は、兄というより娘を嫁に行かせたくない頑固オヤジみたい。……あ!)
ふと、ディアは『父親が溺愛している娘に言われたら嬉しそうな台詞』を思いついた。両手で祈るようなポーズを取り、ベイルを上目づかいで見つめる。
「お兄様、ディアは将来お兄様と結婚したいです」
ベイルの青い瞳が大きく見開かれた次の瞬間に、予想外にベイルは噴き出した。いつもつり上がっている眉毛が下がり、少し目元を赤くして優しそうに目を細める。
「ディアはまだそんなことを言っていたのか?」
ベイルの笑顔を見て、ディアは急に母がまだ生きていた頃のことを思い出した。
「訓練場に行く」というベイルの足元に、まだ幼いディアはしがみついていた。
「お兄様、いっちゃヤダ」
この頃のディアはベイルが大好きで、いつもベイルの後を追いかけていた。母は微笑みながらディアを抱き上げた。
「ディア、ベイルが困っているわ」
ベイルは優しい笑顔を浮かべて「すぐに戻るよ」と言いながら、ディアの頭を撫でてくれた。
「ヤダ! お兄様とずっと一緒にいる! ディアはお兄様とけっこんするの!」
母は「あらあら」と微笑み、ベイルはとても困った顔で笑っていた。
(そうだ、お兄様は、お母様が生きていた頃は良く笑っていたっけ……)
久しぶりにベイルの優しい笑顔を見て、ディアは少し泣きたい気分になった。まだクスクスと笑っているベイルの胸元に、ディアは頭をコツンと寄せる。
「ディアは、お兄様の笑顔が大好きです」
ディアの背中を支えていたベイルの大きな手が、ディアの頭を優しく撫でた。
「俺もディアの笑顔が大好きだ」
--この笑顔を守るためなら、俺はなんだってできる。
しばらくすると、ベイルは笑うのをやめてどこか真剣な顔になった。
--それにしても、ディアには、いつ「兄とは結婚できない」と伝えようか? できればディアを傷つけたくないのだが……。
そんなことを真顔で考えているベイルが可愛くてディアは笑いを噛み殺した。
(お兄様の中では、私はいつまでもお兄様の後を追いかけている小さなディアなのね)
馬車の中で吹き荒れていた感情の嵐は、気が付けば穏やかで心地よいものへと変わっていた。