1-⑧
混乱や焦燥を鎮めるための儀式であるという点から見れば、この行動は受験に使う予定のない科目のテスト前に部屋の片付けを始める行為とそっくり同じだった。
そしてリスクも同じくらいだ。低空飛行どころか胴体着陸みたいなテスト結果を返却されて自尊心を根こそぎ失う羽目になるか、授業中に校舎内を徘徊した罪により職員室に連行されて吊るし上げられるか、そこに大した違いはない。結局のところ悲しくなったりつらくなったりするだけだ。
しかし背負ったリスクはできればそうっと下ろしたいもので、井原の忍び足は幸いなことにそれを可能にしてくれた。
誰にも見つからずに図書室の前まで辿り着く。
細く、音も立たないように引き戸を開く。中の様子を窺う。あまりよくわからない。仕方ないので聴覚に頼る方向に切り替える。耳をつける。何もわからない。思い切ってもう少し開いてみる。人の姿はなさそうに見える。
思い切り開けた。本当に誰もいなかった。
急に気が大きくなった。
胸を張って井原は奥へと歩き出す。もちろん本を読みに来たわけじゃないから、立ち並ぶ本棚は完全に無視して歩く。こうして多くの本がこの図書室で無視され続け、カビの培養キットとしての役割だけを果たし続けている。終末戦争後の人類はきっと図書館にある医学書を使ってペニシリン培養の理論学習と実践活用を同時に行うことになる。
次の扉の前に立って、大丈夫だろうとはわかっているというのに、それでもむしろさっきより緊張した。耳をつける。何も聞こえない。今度はいきなり開ける。ドアノブを回して、
真っ赤。
ぽかん、と。
口は開かなかった。ただ、一瞬思考に空白ができた。
真っ赤だった。部屋の中は。
図書準備室の中は信じられないくらいに赤く染まっていた。
時計を確認するまでもない。三時間目の授業の途中で保健室に行って、それからひとつもチャイムは鳴っていないのだ。
正午の陽が上る前から、もう夕陽が射している。
どうやって、と考える井原の頭の中では、東から上った太陽が、タコ型の宇宙人が住んでる場合の火星みたいな気持ち悪い動きをして西側に回り込んでいる。
赤すぎて目に痛い。午前中に訪れた図書準備室は、昨日の夕焼けをそのまま保存したみたいに、たった一点を除けばそっくりそのままそこにある。
湊はいない。
いちごオレは置いてある。
近づいてみると紙パックの飲み口に皺がついていて、一度は開けられたことがわかる。
恐る恐る井原はそれに触れてみる。その感触だけで、中身が残っていることがわかる。
待てよ、何をする気だ。
そう思って自分で自分を止めようとするが、止まらない。好奇心を制御できない。紙パックを開ける。中身が入っている。
なみなみと。
赤。
まだ引き返せるぞ、と自分が自分を止める。まだ引き返せる。言い訳ができる。でもこれ以上は無理だ。これ以上はいかなる理由があれ変態のやることだ。間違いなく人としてやっちゃダメなことだ。もしそんなことをしたらお前はこの先一生善良な警察官を見るたびに俯いて歩くことになるし人生の至る場面で自分自身の人間性の低劣さを再確認する羽目になるだからやめろやめろ正気に戻れそんなことをするな明日からも真面目に、
飲んだ。
ごくん、と大袈裟に喉が動いて、いちごオレの甘ったるい匂いが鼻から抜けて、夏の真っ赤な空気に溶けた。
飲んでしまった。
井原は茫然としている。茫然としながらも手元だけは冷静に狡猾に、いちごオレの飲み口を綺麗に畳んで証拠隠滅を図っている。しばらくの間何をするでもなく佇んで、そのうちふと思いついてポケットから携帯を取り出す。
インカメラを使う。
夕焼けの中でもわかるくらい舌が赤くなっている、ように見えた。
自分でもなんでこんなことをしたのかわからない、と言えるものなら言いたかった。
本当はきっぱりはっきりわかっていた。好奇心だ。好奇心に身を任せて、女子生徒が飲みかけのまま放置していたいちごオレを飲んだ。そんな変態が自分だ。たとえ誰も見ていない場所で行われた行為であれ、自分だけはその行為と真正面から向き合わなくてはならない。
潰されそうだ。
もう自分はダメだ。死ぬしかない。
紙パックの位置を微調整して、寸分の狂いもなく元あった光景を再現したのち、脂汗をかきながら井原は部屋を出る。
あまりにも早すぎる裁きがそこに立っていた。
うおっ、と声を上げたのは井原の方ではなかった。見覚えのない中年の男がそこに立っている。学校の中にいる見覚えのない中年は大抵の場合は教員であって、着古したポロシャツとだらけたサンダル履きまで揃ってしまえばその判断を疑いようもない。向こうは幽霊でも見たかのように驚いたが、井原の方は幽霊になれたらいいのに、というくらいすべてのことを諦めていた。
男の手には携帯が握られていた。
おおよそ職員室で携帯を弄るのに躊躇われて校内の人気がない場所に逃げ込んできたとか、そんなところだろう。しかし人間、負い目のある場合にこそかえってそれを隠すべく過剰に攻撃的になるもので、
「何してんだ、こんなとこで」
授業中だろ、と冷たい声で言う。
大人は汚い、と井原は思う。
自分にだって聞く権利があるんじゃないのか、と思う。あの、あなたって公務員ですよね勤務時間中ですよねこんなところで何してるんですか職務専念義務ってあるじゃないですかそのあたりのことは自分の中でどうやって折り合いをつけてるんですか地球温暖化についてどうお考えですか僕たちの快適な暮らしが誰かの犠牲によって成り立っていることについて僕はどう向き合えばいいですか、
聞けない。
負い目がすごいから。
現行犯逮捕だ、と井原は思う。そして同時に、どうしてもっと早く自分を見つけてくれなかったんだ、と理不尽な怒りが湧いてくる。
つい先ほどの行為は誰にもわかりはしまい。わかりはしまいが、自分の心の中で永久に罪として残る。事件が起こってから対応するのは警察の仕事ではないのか。事件が起こる前に対処するのが教師の仕事ではないのか。そんなこともないのか。教師の給料は少ないからそんなことは職務の範囲内に入っていないのか。何もかも不景気が悪いのか。これからこの国はどんどん悪くなっていく一方なのか。一方なんだろうな。『嘘』なんて科目を社会を生き抜くに当たって必要な能力ですなんて堂々と言ってのけるような国はどう考えても救いようのない袋小路にぶち当たっているに決まっている。そもそも嘘なんかに頼ってしまうのがすでに袋小路にハマっている証なのだ。
「な、何もしてません」
そのことを身をもって井原は実感している。そして自分の嘘の程度に心底失望している。何してるんだ、と聞かれてその答えが何もしてません。幼稚園児だって何してるんだと聞かれたら息してるくらいは答えられる。もう自分がこれ以降の人生で嘘を上手く使えることはないんだろうなと、青々とした草原を吹き渡る遥かな風のような悲しみが心に浮かび上がる。
浮かび上がったのに、
「そうか。暑いから気を付けろよ」
それだけ言って、男は去って行った。
去って行ってしまった。
何はともあれ、井原は泣きそうになった。
ほっとしたのか、むしろ誰かに責めてほしかったのか、それとも単に混乱していただけなのかはわからない。誰もいなくなった図書室。東側の窓から白っぽい、強烈な光が射しこんできている。今になって気付けばエアコンのひとつも入っていないこの部屋は気温もひどければ湿気もすごく、夏の原液を黴で煮詰めたみたいな匂いを発している。
だから意識が朦朧としているのかもしれない。
さっきのは全部、朦朧とした意識が見せた幻だったのかもしれない。
そう思って井原はもう一度、図書準備室に戻って中を見てみた。
赤い。西から日が射している。
今度は図書室を見てみる。
白い。東から日が射している。
図書室と図書準備室の間に立ってそれぞれの部屋を見てみる。
太陽が別々の方向で光っている。
太陽がふたつある。
十六歳、初めて気付いた。
この世界はめちゃくちゃだ。