1-⑦
寝ようと思うと眠れないのだ。
昨日から。
井原は薄暗い保健室でベッドに横たわりながら、天井の染みに星座を見ている。
どうやってもあの真っ赤な色が頭を離れない。少なくとも授業中の居眠りであんな凄惨な夢を見てしまうくらいには。
それこそあの光景すら自分の見た夢だったんじゃないかと思えてくる。どう考えたってあんなことが起こるはずがないのだ。机の上にぶちまけた液体が元の容器に戻っていくなんて、そんなことありえるはずがないのだ。ありえないことが目の前で起こった。それでこうして眠れずにいる。
遠くで蝉が鳴いている。
教室では今も授業が行われていて、飯岡が「嘘というのは社会的な関係を築くに当たっての摩擦を最小に抑えるための道具であって、」と語るのを聞き逃せば聞き逃すほど、井原の『嘘』の成績は壊滅的に下降してゆき、取り返しがつかなくなっていく。
右に寝返りを打った。
学校やめてえ、と思った。
何だよ嘘って。沸々と怒りが湧いてくる。何なんだよ嘘って。嘘吐いたらダメってお前小学生のころ学校で教わらなかったのかよ。嘘吐いたら針千本飲まされるし泥棒を始める羽目になるし鼻も死ぬほど伸びるって知らないのかよ。
家を出て行ったばーさんが頭を過った。
核家族化がどうとかいう文章を井原は英語の時間に散々読まされた記憶があるが、このへんの微妙な田舎ではそれはそこまで一般的な現象ではない。井原が住んでいるのは先祖代々のド辺鄙な場所にある持ち家で、ちょくちょくリフォームを入れているため、狼がくしゃみしただけでぶっ飛びそうなボロい物置と、最新技術をこれでもかと詰め込んだ喋る風呂焚きAIが同居する珍妙な新旧折衷住宅になっている。ついでに三世代の人類も同居していたのだが、ある日突然一人が離脱宣言をした。
恋人ができたので駆け落ちします。
味噌汁を吹き出しそうになった。少なくとも鼻にまでは上ってきた。晩飯の最中で、本当に不意打ちだった。
井原の祖母は少なくとも外面上はそれほどはっちゃけた人物には見えなかった。祖父祖母ともに孫である自分とはゆるやかに没交渉であり、昔何の仕事をしていたんだとか出身はどこだったんだとかそもそもどっちがこの家に生まれてどっちがこの家に越してきたんだとかその程度のこともろくろく知らないような関係性ではあったが、少なくともこんなことを言う人だとは思わなかった、と言えるくらいには知っているつもりだった。穏やかで、テレビの主導権は祖父に握らせている、そんな人だった。
やっぱりこういうことはちゃんと言った方がいいと思ったからね、ああ、すっきりした。人間正直がいちばんだわ。
言い残して祖母は家を去り、それ以来一度も会っていない。
老人クラブで出会ったのがお相手らしいとかじーさんも若いころはばーさんにひどいことしたからなあとかなんとかいう会話が家の中を飛び交っていたが、そんな天国に最も近いところで行われている恋愛劇は当時十四だった井原の理解の及ぶ範疇にはなく、その事件は単にふたつの後遺症のみを井原家に爪痕として残すに終わった。
ひとつめ。日がな一日、じーさんはリビングで時代劇を見るようになった。じーさん剣士が若い女をひっかけるようなやつを。
ふたつめ。ただひとりの孫はこう思うようになった。人間正直がいちばんって、本当か?
もともと人間正直がいちばん、というのは家庭内の合言葉のようなものだった。子どものころから何度も聞いてきて、疑ったこともほとんどない言葉だっただけに、衝撃は大きかった。新しい恋人を作って出て行くと告白する、その正直は本当にいちばんいいことなのだろうか。しかし祖母がその告白をしたときに見せたひどく清々しい表情も、また、脳裏に焼き付いてはいる。
今度は左に寝返りを打った。
三分経っても眠れずに、瞼はきっちり開いている。
起き上がる。
歩き出している。