1-⑤
校舎内には吹奏楽部員が散らばっていて、至るところで金管を吹き散らしている。その金属が熱を吸っているわけではないだろうが、放課後になると校舎の中は湿ったような熱気が満ちて、地面の中に埋まってしまったみたいな独特の閉塞感が漂う。その熱の海の中を、上履きを鳴らしながら井原は進んでいる。
文芸部の方に行ってみたらいいんじゃねーの、とは平尾の提案だった。
普段なら理科室と音楽室に行くのがせいぜいの特別棟をひとりで移動していれば、廊下にこもった暑気がかえって安心感を与えてくれる。井原はひとつひとつの部屋の前で立ち止まって中を覗き込みながら、あの細っこい眼鏡の女の子の姿を探していた。
文芸部に所属している、ということまでは間違いないそうだ。
見造里第一高等学校では学年ごとにクラスは八つずつある。その全てを「湊さんってこのクラス?」なんて尋ね回るのに比べれば、放課後になってから文芸部に行く方が目立たなくていいんじゃないのか、というのが平尾の意見で、井原はまったくそのとおりだ、と納得した。だからこうして、在処も知らない文芸部室を求めて放課後を彷徨い歩いている。
そして全部の部屋を見回って、文芸部らしき部屋はどこにもなかった。
どういうことだ、と井原は不安になる。リュックに入れた冷やしても美味しい夏季限定塩バニラチョコレートが溶け切ってしまう。
もしかして今日は活動日ではないのか。それとも文化部といったらまず特別棟で活動しているに違いないというのが思い込みに過ぎず、授業棟のどこかで活動しているというのか。確かに囲碁将棋部やクイズ研究部はどこかの空き教室で活動していると聞いたこともあるような気もする。まさか文芸部もそうだというのか。
がらり、と。
背後の廊下で扉が開く音が聞こえ、反射的に井原は階段近くの角に身を隠した。
隠してから、なぜ隠したんだと自分で自分がわからなくなった。校内なのだ。そして自分は生徒なのだ。なぜこんな哀れな子鼠みたいにこそこそする必要があるのか。
陰から堂々と姿を現わそうとして、
もう一度隠れた。
そこにいたのが、昨日のバーベキュー男だったからだ。
そんな馬鹿な、と思う。
今開いたあのあたりは社会科準備室ではなかったか。まさかあのナリで社会科の教師をしているのか。現代にタイムスリップしてきたスパルタクスか鎌倉武士かラオコーン像あたりが自身のキャリアを生かした職業選択をしているとでもいうのか。
幸いにして、咄嗟の自分のビビり行動のおかげで向こうは自分に気付いていない。が、不幸なことに向こうは鋼鉄の足取りでこちらに向かってきている。
冗談ではない。ただでさえ昨日の一件以来いつあのときの嘘がバレるものかと気が気ではなく胃の調子を悪くしていたのだ。再会なんてしようものならその場で心肺停止にAED、電気ショックと胸骨圧迫のコンボで上半身が粉微塵になる。
井原は一番近くにあった扉を開く。
強烈な西日で一瞬目が眩んで、図書室だった。
ハウスダストはきらきら輝いて、この学校が単なる成績至上主義であって大して知そのものには興味がないというのが一目でわかる。至極真面目に机の上に参考書を広げている上級生たちの上履きの後ろを、井原はずんずん進んでいく。
がらり、ともう一度音がした。
そのときには何とか、本棚の後ろに身を隠せていた。
果たして今入ってきたのは例の筋骨隆々の社会科教師だろうか。窺ってみようとは思うけれども、もしもホラー映画みたいにその瞬間を待ち伏せされていたらという馬鹿げた妄想のせいでその一歩が踏み出せない。そして出て行くタイミングを見失ってしまった。
数分待った。
そして、図書室の奥側にも扉があることに気が付いた。入口のような引き戸ではない。古臭い木製の開き戸が、ぽつんと立っている。
書庫か何かだろうか。
一縷の望みを賭けて井原はその扉に近付いてみる。この扉の先から別の出入り口を使って廊下に出られないものかと。扉には嵌め殺しにされた磨り硝子の窓がついているが、随分磨り込まれたらしく中の様子は窺えない。試しに、とドアノブに伸ばした手が途中で止まる。
「あ、」
眼鏡の女の子が出てきた。
湊という名前をしているらしい。
こちらからだけ、一方的に相手を知っている。
向こうは当然部屋の外にやたら緊張した面持ちの男子生徒が突っ立っているなんてことは想像していなかっただろうに、しかし湊は、ほんの少し目を見開いただけで、ぺこり、と会釈して井原の横を通り抜けようとした。井原はそれを止めようとしたが、身体のどの部位を掴んで止めればいいのかわからず、
「ま、」
待って、と小さく声を出した方が早かった。
「いる、昨日の」
肩から上だけで湊は振り向いている。
「ジャージの?」
囁くように聞いてきた湊に、井原は首を縦に振って答える。すると湊は完全に振り向き切って井原の隣をもう一度通り過ぎ、扉を開け、
「どうぞ」
と振り向きもしないままにその先に入っていってしまった。井原は少し悩んでから、その後を追う。
真っ赤な部屋だった。
ぎょっとして入り口で立ち止まって、それから西日が異様に強い部屋なのだと気が付く。
部屋の四方のうち、たった一面に設置されている窓は広く、同時にひどく背が高い。この部屋に与えられるべき夕陽の光をほとんど遮ることなく、焦げついたような赤色に部屋全体を染めている。
窓のある面を除く他すべての壁には棚が敷き詰められていて、その内容もまた、黴のいくら生えてもおかしくないような擦り切れた背表紙の分厚い本で満たされている。部屋の隅には、これもまた年季の入った、重たげな段ボール箱が十数個、まとめられている。他にあるのは部屋の真ん中。ありふれた会議用の長机とその上に置かれた飲みかけのいちごオレと、パイプ椅子がひとつずつ。
「どうぞ」
いま、湊が目の前に広げてくれたことで、パイプ椅子がふたつに増えた。井原はそれに座ろうとして、
「あっ」
と思い立って、扉の前まで戻って、鍵をかちゃりと閉めた。
鍵をかちゃりと閉めた。
振り向くと湊が不安そうな顔つきで見つめている。それに井原はそこそこ力強く頷いて返した。
「大丈夫だろ。たぶん向こうも鍵が閉まってりゃ諦めるよ」
湊は二、三秒固まったあと再起動して、ああ、と頷いた。そうですね、施錠にはそういう機能もありますね、と言った。ワードセンスが独特な子だな、と井原は思った。自分は施錠という言葉を今まで漢字の宿題の読み上げ以外で使ったことがない気がする。
改めて座る、前にリュックの中から必要なものを取り出す。そうそう、と言いながら、
「昨日のお礼。助かったよ、ありがとな」
冷やしても美味しい夏季限定塩バニラチョコレート。
湊はその白いパッケージが部屋の中で赤く染まっているのをじっと見た。
「あの、これは」
なんですか、と湊は手も伸ばさずに聞く。え、と井原は、きょとん、としてもう一度、
「お礼」
と言う。はあ、と湊は頷いて、
「冷やしても美味しいんですか」
「らしいな」
「開けても?」
うん、と答えてから、
「あ、冷えてないぞ」
と付け加える。わかるだろうが、一応付け加えておかないとと思って。けれど湊はその言葉を聞いているのか聞いていないのか、特段反応もないまま箱の表面の「押してください」と書かれた部分を押して、細い指でミシン目をぴりぴりと千切る。そして紙箱の中の、これもまた白い包装を破って中から一粒チョコレートを摘まみ出すと、
「冷えてますよ、これ」
「え?」
そんなはずはない。一日リュックの中に入れていたのだ。下手すると溶けていたっておかしくない。しかし、先輩もどうぞ、という言葉とともに机の上を移動してきたチョコレートの箱は、確かに夏の日の夕焼けの中にあって、異質な冷気を放っているように感じた。
試しに一粒摘まんでみる。
冷たい。
「う、」
ノックの音。
口から出ようとした言葉はチョコレートと一緒に飲みこまれてしまった。
背後。扉が叩かれていた。がちゃがちゃとドアノブが回る。侵入者を扉と鍵が食い止めている。今だけは井原も透視能力に目覚めて、板切れ一枚隔てた向こうに仁王像が立ち塞がっているのがありありと想像できる。
「いるかー? いるなら開けろー」
まずい。
井原はもう一度部屋の中を見回す。窓、本棚、本棚、本棚、地獄の出入り口。期待していたもう一つの出口はこの部屋にない。息を潜めてやり過ごすほかない。何の意味もないとわかりながらも肩を縮めつつ湊に目配せをして、
「いません」
きっぱり。
湊はそう言った。
終わった。
井原はそう思った。
のに。
「そうか」
扉の向こうで、そう言うのが聞こえてきた。それから、重たい足音が段々と遠ざかっていく音。
「……え?」
ようやく声を出せたのは、その足音がすっかり消えたころで、井原はそれでもなんとか湊に目を向けて、口を開いて、
「今の、何」
「真っ赤な嘘です」
湊は白いチョコレートを口の中にもう一つ摘まみ入れる。それを噛んで、飲んで、それから小さく、ぺろっと舌を出した。
夕陽を浴びながらでもそうとわかるほど、信じられないほど、真っ赤な舌をしていた。
しばらく井原は何も言えなかった。湊がその舌を口の中にしまってからも、机の上に置いたいちごオレをちゅう、と吸ってからも、しばらく、
いやまさか。
馬鹿げた想像だと思うのだが、それでも聞かずにはいられなくて、
「……湊さんがいません、って嘘ついて、それ信じて帰ってったってこと?」
「そうですね」
いや。
いやいやいやいや。
そういうことじゃないだろ。
そういうことじゃないだろう、と井原は思う。
嘘ってそういうやつじゃないだろ。嘘ってもっとこう、それらしいことを言って騙すってことだろ。誰でも簡単に稼げますよとか今を逃すともう儲けは得られませんよとかいえうちはマルチ商法とかそういうやつじゃありませんよいやほんとにねだってほら初期投資十万円だけで自分の出費は終わりなわけなんですからどう考えたって損するわけがないじゃないですか手元に残った在庫はいつかさばけるわけでしょうとかそういうやつなんじゃないのか。犬が真顔で「自分は猫です」とか言うのは何かこう、話が違う。オオカミ少年はオオカミが来るぞとは言ったけれど、自分がオオカミ人間だなんて嘘はつかなかった。
「そ、」
しかしその渦巻く理不尽感について上手く言葉にできず、
「そんなわけなくね?」
と井原は半笑いで、一方湊は真顔で、
「この図書準備室にはほとんど一日中夕陽が降っています」
井原が反応するよりも早く、
「真っ赤なものに照らされていれば、どんどんそれは真っ赤になっていきます。いちごオレを七日七晩夕陽に照らし続けると、この世でいちばん赤い液体になるんです」
こんな風に、と言って湊はいちごオレをとぷとぷ、と音立てて机の上に溢し始めた。
木板になみなみと盛り上がったその液体は、確かにぞっとするほど真っ赤な色をしている。というかどう見てもそれはいちごオレではない。あまりにも悲惨な場所にぶちまけられてしまったその液体は、井原の目には可哀想なトマトジュースか何かにしか見えない。そうじゃなければ殺人現場の絵を描いた後の筆を洗った水だ。というか何をしてるんだこいつは、とも遅れて思う。あまりに突拍子のない行動を目の前で取られたものだから理解がまったく追いついていない。
「そしてそのいちごオレを飲むと、こんな風に舌は真っ赤になるんです」
べ、と湊は舌を出して、しまって、
「真っ赤になった舌を使えば真っ赤な嘘を吐けるようになるんです。真っ赤な嘘とは明らかな嘘という意味ですが、この場合は赤すぎて本当のことと区別がつかなくなります。真っ赤な舌で吐いた真っ赤な嘘は、誰がどう聞いたって嘘だってわかるのに、誰がどう聞いてもうっかり騙されてしまう、そんな嘘としてできています」
なるほど、と井原は頷いた。
この子は電波だ。
「そっか」
じゃあぼくは今日の晩御飯カレーだから走って家まで帰るね、という調子で井原はパイプ椅子から腰を上げた。ありがとうありがとうなんだかよくわからないけど昨日も今日も合わせてあなたには二回も助けられてしまいましたね感謝感激雨あられ来世で鶴にでも生まれ変わったらあなたのところに必ず機を織りに行きますでも今日はもう帰っていいかな俺ってさほらモールス信号とかミステリーサークルとかそういうののことよくわかってないから他の星から来た人と上手くコミュニケーション取れる自信がないんだよ、
「あ、」
机に手をついて、咄嗟に。井原は大きく身を乗り出した。
もう片方の手のひらを机の向こう岸の縁に、生温い感触がして赤い液体が堰き止められる。零れそうだったのだ。真っ赤になってしまったらしいいちごオレとかいうやつが。湊のワイシャツやらスカートをめがけて、どぼどぼと。
しかし液体を長いこと手のひらだけで食い止めておくことはできない。机から零れだそうとするいちごオレの前線はじわじわと拡大しつつあり、指先やら手首やら気合やら動員したってもう数秒だって持ちそうにない。体勢も悪い。爪先立ちで、前屈みで、今にもバランスを崩して大転倒しそうだ。
「そこ、」
どいて、どいてくれ、どいた方がいいよ、どいてください。
どんな言葉を続けようとしたのかたった二秒後の井原は全く思い出せなくなっている。そのたった二秒の間に、そんな些細な記憶は消し飛ばしてしまうようなスペクタクルが目の前で展開された。
「平気ですよ」
と、
「戻りますから」
と、湊は言って。
机の上に広がり切った液体が、そっくりそのまま紙パックの中に戻っていった。
紙パックから液体をぶちまけた映像を、そのまま逆再生したみたいな光景が、目の前に、何らの特殊なCG加工も通さずに、井原の網膜に直接、光の速さで届いてきた。
息もできずにいた。手のひらに濡れた感触は残っていなかった。ぎ、ぎ、ぎ、と強張った顔を上げて井原は湊を見た。湊はいちごオレを一口ちゅう、と啜って、
「覆水盆に返ります」
真っ赤な舌を見せながら、そう言った。