1-④
「それミナトだろ、一年の」
「ミナト?」
「漢字一文字で湊。あんま使わない方」
井原の朝はまあまあ早い。
HRに間に合う最後の電車ではなく、その一本前の電車に乗っているからだ。
平尾の朝もまあまあ早い。
見造里市内の在住で、自転車で直接学校まで来られるからだ。
そのため、一時間目の授業が始まる前から井原は昨日あったことを平尾に話すことができて、その上追加の情報を得ることまでできた。
湊。
それが昨日、自分を助けてくれた女の子の名前らしい。
「なんで知ってんの」
「普通に軽音で後輩からぽろっと聞いた。すげえらしいぜ。入学してから国語ほとんど満点で不動の一位」
見造里第一高等学校には科目別及び総合成績上位者の順位張り出しという、一体どこに個人情報保護法を置き去りにしてきてしまったんだと言いたくなるような前時代的な風習が存在する。
もう百年ほどもすれば無形文化遺産としてユネスコに登録してもらえるかもしれないそれは、学年内において有名人を生み出すという副作用も持っている。
やたらに定期テストの多いこの学校で、常に名簿の上位に陣取る面々は本人が望むと望まないとに関わらず名前が売れる。実際、井原だって学業成績優秀の徒であるとして名前だけは知っているが顔は全く見たことがないという生徒が同学年に数人はいる。クラス替えのときに友達が作りやすくて便利ではあるが、廊下を歩いているときに知らない人が自分の名前を口にしているとたまに怖い、とは同じクラスに属するその有名人からの証言である。ちなみに井原は、二年五月期の定期テストで現代社会と倫理の科目でその上位者名簿の下の方にかろうじて名前を載せたことがある。ただし今のところ、友達ができやすくなったということは特にないし、廊下で知らない人が自分の話をしている場面に遭遇したこともない。
「あのさ、ありえると思うか? 『嘘』で満点って」
「それ言うなら〇点もありえねえと思うけど」
「ぶっとばすぞ」
がん、と井原は平尾の座る椅子を後ろの席から蹴飛ばした。平尾は、わはは、と笑う。
「でもいい人じゃん、湊さん。聞いてたらもっとやべー人なのかと思ってたけど」
「やべー人?」
「休み時間ずっと本読んでて喋ってんの見たことないとか。友達一人もいねえとか」
ああ、と井原は頷く。そういうやつは自分たちの学年にもいる。
成績がよくて学年で有名になるタイプの人間というのは、おおよそ半分くらいが頭のネジをちょっと変わったところに挿してぎゅうっときつく締めてしまっているらしい。
しかしそのために糾弾されたり疎外されたりするかといえば、別にそんなこともない。文武両道を謳うこの見造里第一高等学校では、文か武のどちらかが突出していれば大抵のことは許される、そういう環境がすっかり出来上がっている。だからまあ、それはいい。それはいいが、
「下級生か」
「何、家庭教師にでもなってもらうん?」
「ちげーよ」
内心その手があったか、と平尾の発想に感心しつつ、机の横のリュックの中から小さな箱を取り出す。感触は軽いものだが二百円くらいした。
冷やしても美味しい。夏季限定塩バニラチョコレート。
「あ、それ気になってた。ちょっとちょーだい」
「やだよ。自分の分じゃないし」
平尾は一瞬間を空けて、
「マジで?」
「一年の教室行くのやだな……。その湊さん?何組かわかる?」
「流石にそこまでは知らねーけど。え、マジでそれ渡しに行くの?」
「そりゃ行くだろ」
昨日の帰り、駅内のコンビニで買っておいたのだ。
助けてもらったお礼。いつもだったら百円以内の菓子パンばかり買っているものだから、会計を終えたときには実際以上に財布が軽くなったような気がした。
「何、お前湊さん狙ってんの」
得心いかない、という目つきの平尾。
「は」
「いやだって、普通日を改めてお礼とか行かなくね? 下心なかったら」
一拍置いて、
「え、ねえの?」
「ないけど」
恐る恐る平尾が投げたボールを、井原はこともなげに打ち返した。
助けてもらったんだから、お礼するのは当たり前のことだろう。そのとき手土産の一つや二つ持っていくのだって当たり前のことだろう。そういう自分の中の常識に基づいた思考で、そう答えた。
「へえ」
と平尾はそれでも飲みこめない様子で、
「……いや、そういうとこ俺にはよくわかんねーわ。お前、女だったら絶対バレンタインデーにクラス全員に義理チョコ渡すタイプな」
「いやしないけど。めんどくさいし」
「それはめんどくさくねーの」
「これはめんどくさいめんどくさくないの問題じゃなくて、」
井原はきっぱりと、
「当たり前のことだろ」