8-④
そんな風にして、夏は過ぎ去っていった。
一度過ごした時を巻き戻してもう一度過ごしているから、実際のところはただ息してるだけでもその時間分得しているはずなのだけれど。
時間が過ぎるのが早すぎて、色々なものを取りこぼしているような気もする。
フードコートで昼を食べて、映画を一本だけ見て、ショッピングセンターを出て、蝉が死ぬまで鳴いてるのを聞きながら、井原はそんなことを思った。
バスは二分後に来るはずで、そのたった二分の間にこの哀れな高校生を焼き殺してやろうという勢いで太陽が照りつけている。あたり一面真っ白になるような強烈で、清潔な光。夢の中にいるのとほとんど変わらないような景色で、窒息しそうな湿気の中、すすっ、と近づいてきたやつがいる。
「奇遇ですね」
「嘘吐け」
湊だった。
絶対に嘘だと思った。こんなに都合のいいタイミングで知り合いが現れるはずがない。というか最近遭遇率が異様に高い。何らかの意図が働いていることくらいは誰だってわかる。
む、と湊は膨れて、
「何の根拠があって言うんですか」
と悪びれもせずに言う。
確たる根拠は何もない。が、根拠がなくてもわかることはある。はいはい、とだけ言って流して、バスを待つ。すると湊も隣に立って、バスを待ち始める。
涼しい顔をしている。汗一滴かかないで、真っ白。
「湊、」
井原は言う。
「たまにはちゃんと汗かいた方がいいんじゃないの」
「お風呂で間に合ってます」
そ、とだけ答える。
バスが来る。
乗車券を取って、後ろの方の席に座る。中はガラガラで、他には誰もいない。湊がぴったりくっつくようにして横に座ってくる。扉が閉じる。揺れ始める。
「そういえば、」
湊が言う。
「記憶。どうします?」
「え?」
「あれです。私が預かってるやつ」
「……ああ、湊がぶんどってきたやつ」
「うん、私がもらったやつ」
「あげてはないけど」
「あげるって言いました、先輩が」
「判別のつかない嘘を吐くな」
ふふ、と湊は笑う。
最近は井原も、どれが嘘なのかちょっとずつわかるようになってきた。湊に関してだけは。
湊は大量に嘘を吐くけれど、わかりやすい。楽しそうにしてるときが嘘を吐いているときだ。
ショッピングセンターと駅の間を繋ぐだけの直通バスなのに、窓の外にはやたらにのどかな風景が流れている。田んぼと畑と、それからほとんど廃墟みたいな、名前からは何をやってるんだかわからないような、やたらに駐車場ばかりが広い店舗群。
「要ります?」
うーん、と井原は唸って、
「じゃあ、とりあえずもらっとくわ」
「ダメです」
「は?」
「もう私のです」
じゃあなんで聞いたんだよ、と言えば、うふふ、とまた笑う。こいつ今日相当機嫌いいな、と井原は思う。機嫌がいいということは、めちゃくちゃなことばかり言うということだ。
「ていうかなんで所有権が移動してるんだよ。俺のだよ」
「先輩、安養の尼の小袖、知らないんですか」
「……なんだっけ、それ」
「古文でやってませんか? 尼のところに強盗が入って……」
「ああ、」
思い出した。さすがに授業で一度やって、ついでにテストにまで出たようなやつは覚えている。
ある尼のところに強盗が入る。その際に強盗が取り落としていった小袖を、尼は「これを取っていった人はもう自分のものだと思っているだろう。持ち主の納得しないようなものは着られない」と言って、強盗のところにその小袖を届けに行かせてしまう。「落としましたよ」なんて言われて小袖を渡された強盗は、盗んだものをそっくりそのまま返していく。そういう話だった。
「ちゃんとぜんぶ返しますよって意味か」
「いえ、先輩にはもっと寛容になってほしいという意味です」
「いやなんで俺が譲歩する側だよ」
「年上なんですから」
ひどい話だ、と井原は思う。たかだか一年やそこらの生まれた時期の違いで、そこまで割を食わせられてはたまらない。
湊が顔を傾けて、井原の顔をぱちっ、と見る。
「実際、要ります?」
「あるなら欲しい」
「えー……」
「なんだよ」
「いや……。まあ、いいですけど……」
「何」
「……」
「なんだよ」
「……嫌じゃないですか。取り戻して、何か都合の悪い記憶だったら」
「たとえば?」
「先輩が実は私のことものすごく嫌いだったとか」
「あー……」
「あー、じゃないですよ」
「いや、まあまあありうるからなそれ」
「は、」
「だってお前性格ほら、あんまり」
「死ね」
あまりにも歯切れがよくて、ちょっと笑ってしまった。
「悪かったですね、性格が悪くて」
「うん、まあ」
「うんまあ、じゃないです」
「んじゃいいよ、それは捨てて。どうせなくても困らないし」
「そうですかなくても困りませんか私との思い出は」
「めんどくせー」
言って笑って、駅に着く。二百円。降りる。ふたりで。
バスロータリーを横切って、駅ビルに入る。一階からエスカレーターをふたつ上って、改札を定期券で抜ける。またエスカレーターに乗って、今度は下りていく。
杖を突いた老人がひとりで電車を待っているだけの閑散としたホーム。鳩。立ち食い蕎麦。駅ナカのコンビニ。向かいのホームにも人影はなくて、その向こうにある真っ青な空がそのまま見える。大して背の高い建物もないから、何の障害物もなく地平線まで見えそうになる。ホームの軒下は地下への入口みたいに暗いのに、線路の上と、その先の景色は目がおかしくなりそうなほど眩しい。次の電車まで残り三、四分。冷房付きの待合室へ、
「あっちー」
入らない。
電車を待っている老人の後ろに立つ。それで、
「あの、」
と言って、振り向かせて、
「顔色悪いですけど、大丈夫ですか」
「ああ、いや、そんな」
なんて言ってる間に、すぐに膝から力が抜け始める。井原がそれを支える。
すぐに電車が来る。
二、三言交わして、シートまで肩を貸す。老人がゆっくりそこに腰を下ろしたところでようやくほっと息を吐いて、
「大丈夫ですか? よければ降りるときもついていきますけど」
「いやいや、大丈夫ですよ」
なんて手を振られる。でも、井原はたぶん、この人がいま大丈夫じゃないことを世界でいちばんよく知っていて、本当に大丈夫なのか、降りる駅はどこなのかなんてことまで聞き出し始める。湊はその隣でぼんやりと窓の外の田園風景を眺めている。
結局、同じ駅で降りることがわかる。そして降りるときだけ、少し肩を支える。そこから先は老人も杖を突いて歩けるようにはなっていて、
「もう連れが来てるはずだから」
どうもありがとう、と言って、ショッピングセンターへの直通バスすら通っていない寂れた駅の、だだっ広いロータリーを歩いていく。
その向かう先には、また別の老人が立っていて、それを見つけた井原は、少しだけ目を見開いた。
隣の湊が不思議そうに、
「どうかしました?」
と聞けば素直に、
「どうかした」
と答える。
湊も同じ方向を見た。けれど結局首を傾げて、どうかしました、ともう一度聞く。
大したことじゃない、と井原は言う。
杖を突いた老人が、待っていた老人のところまで辿り着く。ふたりは身を寄せ合うようにして、真夏の、真っ白い光の中を歩いていく。眩くて、目を細めて、隣に立つ湊はじっと井原を見つめている。
「あっちも幸せそうだな、って思っただけだよ」
井原は見上げなかったけれども、そのとき、小さな鳥が空を横切った。
きっと、その腹の白いのを見れば、思い出せたのだと思う。