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8-①

 ふっと制汗剤の匂いが香って、湊は本から顔を上げた。

「よ、」

 小さく、囁くような声で。

 たったの一音で。

 舌の先をほんのちょっと動かすような、そんな些細な動きで。

 相手は心を破壊しに来た。

「なんでここに、」

 図書館。

 夏の。

 蝉が鳴いていて、駅から歩いて三分で、ほとんど利用者は老人ばかりで、参考書を広げている高校生すらまばらな、そんな場所。

 井原が来たのだ。

「会いに来た」

 臆面もなくそんなことを言って、断りもせずに、井原は隣の席に腰を下ろしてくる。湊は抗議の意思を目線で伝えたが、まるで意に介されない。介されなくてよかった、と思う。隣に座ってほしかったから。

 ちゃんとした言葉を交わし合いたくて、少しだけ嘘を吐く。私たちの喋る声は、しばらく私たちだけにしか聞こえない。口にしてから、しばらくなんて控えめな言葉を使わなければよかったと思う。ふたりだけの世界みたいで、素敵だと思う。永遠だって足りないくらい。

「嘘吐かないでください」

「なんで嘘吐くんだよ」

「本当は私に会いたくないから」

「会いたくなかったら来ないだろ」

「会わないでいたら私が死ぬと思ったんでしょう」

「……死ぬのか?」

「さあ、どうですかね」

 本当のところを言えば、もうそんな気はさらさらない。たぶんこれ以上、このやり方では何も得られないだろうと、自分でわかっている。意味のないことはするつもりがない。期待したって無駄なら期待はしない。見込みのないことを見込んだりしない。

 大丈夫、わかっている。

「そういうのじゃなくて、会いたくて来たんだよ」

 わからせてよ。

「嘘は嫌いじゃなかったんですか」

「嘘じゃないからな」

「なんで」

「なんでって、本当に会いたくて来たんだから、嘘吐く必要ないだろ」

「なんで会いたくなったりするんですか。嫌いな相手に」

「嫌いじゃないし、別に」

「でも少なくとも好きじゃない」

「いや、好きだよ」

 ふと思った。

 夢でも見てるのかもしれない。それか、自分で嘘でも吐いたのかもしれない。たとえば少し前に、先輩は自分のことが好きだと嘘を吐いて、それから自分の記憶を消したのかもしれない。

 ありうる話だと思う。自分はそういう性格をしている。そういう虚しいことを虚しいとわかりながらして、後になって心底虚しく思う。そういう浅ましい行動を取りがちなところがある。

 記憶を戻せるかどうか確かめてみようか。いきなりそんなことをしたら変に思われるだろうか。でも、どうせもう変に思われている。変で、めんどくさくて、近寄りたくないやつだって思われてる。だから別にそれくらいのことはやってもいいのかもしれない。こんなのは月の表面をちょっとくらい爪で削るようなものなのかもしれない。でもどうしよう。自分のことだから記憶を戻せないようにしている可能性もある。普段から嘘と本当の区別なんて付けないようにして生きているのだ。そしていつでも自暴自棄。そのくらいの取り返しの付かなさは想定してしかるべきなのかもしれない。

 想定して、

「けっこー好き」

 ないな、と思った。

 自分だったらこんな中途半端な設定はしない。けっこー、なんて気の抜けた言葉を使わせたりはしない。半端なことはしない性質でもあるのだ。もしも井原を相手に感情を操作するんだったら、自分なしじゃ生きていけないくらい強烈に好きにさせるか、自分がこの世にいるのが許せないくらい痛烈に嫌わせるか、絶対にどちらかを選ぶ。

 このはっきりしない感じは、絶対に井原の素だ。

「馬鹿じゃないですか?」

 どうしよう。

 うれしい。

「趣味が悪すぎます。幸せになる気がないんですか?」

「自分で言うのかよ」

「誰が見たってそうなんですから自分が言ったって同じです。先輩だって私のこと性格悪いと思ってるでしょう」

「うん、まあ……」

 うん、まあ……、じゃないだろ、と思った。

 うん、まあ……、って言うな、と思った。

「じゃあ帰ってください。性格の悪い人間と一緒にいるのは時間の無駄なので。別の人とでも遊んでてください。あの前に一緒に図書館まで来てた人とか」

「いや、あいつ今日バンド練だし」

「そうですか。遊ぶ相手がいなくて暇だったから私のところに来たんですね。そういえばあいつ死んでないかな、って気になったんですか。それで見回り活動ですか。さすがボランティア部ですね。尊敬します。帰ってください」

「めんどくさ」

 井原が笑った。

 それだけで、湊の口は閉じてしまう。初めて言われた。直接。面と向かって。

 こんなことでうれしくなるなんて、馬鹿みたいだ。

 めんどくさいのが伝わってるのに、それでも隣にいてくれるのがうれしいなんて、屈折してる。

「別にいいだろ。自分のこと好きなやつのこと好きになるって、そこまで変なことじゃないと思うし」

 あんまりな言い草だな、と湊は思う。あんまりな言い草だから、よかった。

 自分にたったひとつでもいいところがあるだなんて、思えない。探せない。見つからない。だから他の何を理由に挙げられても、何も納得できなかったと思う。

 でも、好かれてるから好き、というのだけは納得がいく。

 許してくれるから好き、と同じくらい納得がいく。

「本当ですか」

「ん」

「本当に、私のことけっこー好きですか」

「俺は嘘は吐かない」

 きっぱりと、井原は言う。

 言ったのに。

「いや、今のは嘘か……。たまに吐くけど、けっこー好きなのは嘘じゃない」

 そこは言い切ってよ、と思う。

 嘘でもいいから、言い切ってよ、と思う。

「なんなんですか、もう」

 でも、面白いくらいに笑えてしまう。

 もっと都合のいい人になってくれないかなと思いながら、それでも、こんな中途半端な本当でも笑えてしまう。

 つまるところ、湊にとって「好き」というのはそういうもので。

 珍しく、これはあんまり嘘じゃない。


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