7-③
「何をぼんやり見てるんですか」
うわ出た、と思ったし、
「うわ出た」
口にも出した。
が、湊はその言葉を気にした風でもない。怒っているようではあったけれど、原因はそれではない。
あたりの景色が少しずつ赤く変わり始めている。時間が流れていくにつれて、やがて日は傾いていく。夕焼けが、そこまで近付いてきている。
この大学の学園祭も、もうすぐ終わる。
その空気を察知してか、どんどんこの広場に人が集まってきている。元々漂っていた弛緩した空気に冷たい風が混ざり始めて、少しずつ、夏の終わりのような切なさを帯び始める。
ミスコンが、もうすぐ始まる。
井原はずっと座ったままで、湊はそれに腹を立てている。
「またそうやって座って見てるだけなんですか」
「うん」
まるで悩むこともなく、井原はそう答えた。湊は面食らったような顔で井原を見る。井原は特に、湊を見るわけでもない。ただ腰を下ろしたまま、ステージの方に視線を向けたまま。
そしてたぶん、湊は何も言えなくなったのだろう。
「別にいいよ」
だから、井原から話し始める。
「俺さ、やっぱり嘘なんてそこまで必要なもんじゃないと思うよ」
「な、」
湊が珍しく、口を大きく開けて、
「まだそんなこと言ってるんですか」
「言うよ。そう思ってるし」
あまりにも井原がきっぱり話すものだから、ひとつひとつの会話のたびに、湊の方が口ごもるようにして、
「……間違ってます」
「どうだろな。それは知らないけど」
対照的に井原は、自分の口調に釣られるように穏やかな雰囲気で、
「確かにさ、湊の言うこともわかるよ。嘘がなきゃ生きていけないって人も、まあいるんだと思う」
そこで、井原は向き直って、湊をまっすぐ見た。気圧されたように、湊の上体が少し後ろに傾く。
「俺の家のばあちゃんの話なんだけどさ。あ、知ってるんだっけ」
記憶読んだんだもんな、と言えば、湊はそこまでは、と小さな声で否定する。そっか、と井原は頷いて、
「うちのばあちゃん、浮気相手と駆け落ちして行方くらましたんだよ。俺が小学五年くらいのとき」
「…………」
なんで今こんな話をされているのかわからない、と言いたげな顔をしている。
「そんで、出てくときにこう言ったわけ。人間正直がいちばん、って」
「あの、」
湊がひどく微妙な表情で、
「まさかそれ、真に受けてるんですか」
「うん」
「馬鹿じゃないですか?」
本当に相手のことを馬鹿だと思っていそうな、完全に呆れ切ったような声色で、湊は言った。
「そんな言葉、ひとつも信じる価値がないじゃないですか」
「そうかな」
「ただの自分に都合のいい言い訳でしょう、そんなの。正直でさえいればどんなことも許されるなんていうのは勘違いです」
「じゃあ、嘘を吐き続けてればよかったと思うか?」
湊が考えて答える前に、井原が続きを口にする。
「うちさ、別にそのころ険悪とかじゃなかったんだよ。普通に過ごして、普通に上手くいってた。でも急にそれだろ。だから本当にわかんなくなった。何が本当で、何が嘘なのかって。だってそうだろ。嘘吐いてても見た目から全然わからなかったんだからさ。嘘なのか本当なのかって、普通に生きてたら区別つかないんだよ」
「どっちだっていいじゃないですか」
今度ばかりは、湊も強く言う。
「見分けがつかないっていうんだったら、嘘だって本当のことと同じでいいじゃないですか。同じように扱って、同じように頼っていいじゃないですか。何がダメなんですか? 幸せになるために努力することの何がそんなに気に入らないんですか?」
「それが気に入らないわけじゃないよ」
「だって、」
「たださ、どっかで無理が出るだろ。嘘ってさ、吐き通せないよ。本当じゃないことを本当だって言い張るんだから、本当のことを話してるよりもエネルギーが要るし、ずっとそうしなきゃいけないんだったら、やっぱりどこかで限界は来る」
「そんなことないです」
湊はむっとした顔で、
「限界が来ないことだってあります。どうせ人間の寿命なんて百年そこらくらいしかないんですから。たったそれだけの時間我慢し切ればいいだけです」
「お前、」
井原は驚いて、それから笑って、
「エネルギーあるな」
「誰にでもあります」
「ないよ。少なくとも俺にはない」
「あります。出してください」
「お前が言ってんのはな」
びしっ、と。
ここに来て井原は指を立てた。突き出して、湊の前に置く。湊が仰け反る。一度だけ、指先が右に傾く。
「あなたは足が速いんだから常に全力疾走しててください、って言ってるようなもんだ」
「な、」
ちが、までは湊は声に出した。それ以降は出てこなかった。出せなかったのだろう、と井原は好意的に解釈した。
「できることなんでもかんでもやるのだけが生き方じゃないだろ。走るのは急いで辿り着きたい場所があるからだし、嘘を吐くのは嘘を吐いてでも誤魔化したり、叶えたいことがあるからだよ。だから別に、そういうのがなければする必要がない」
「あるでしょう」
「ないよ」
「好きなんでしょ」
「お前だって」
「は、」
それ以上言うのは趣味が悪いかなと思って、言わなかった。
それでもやっぱり、伝わった。
「馬鹿じゃないですか?」
「怒るなよ」
「私のはそういう好きじゃないです」
「好きの名前が違うだけだろ」
「全然違います」
「そこだけだろ」
ぐ、と湊は言葉に詰まって、
「卑怯者」
「……まあ、あんま否定しないけど」
「本当のことばかり言ってればいいと思ってる」
「……まあ、そうだな」
「いいんですか、そういう好きで」
うん、という言葉は、マイクのハウリング音に掻き消された。
前にもあった場面だな、と井原は思う。平尾と来たときも似たようなことがあった。大事な言葉ばかり掻き消される。
でもまあ、それでもいいか、と思う。
それが本当に大事なことなら。
伝えたいことなら。
何度でも伝えようと努力すればいいのだ。
どうせ、しばらくは死なないのだし。
「大変お待たせいたしました! それではここから広場のメインイベント!」
もう二、三度の高音が鳴り響いた後、聞き覚えのある言葉がステージ前の広場を駆け抜ける。
井原は座りながら、それを見ている。横で立ち続けていた湊のために、座る場所をちょっと詰める。座れよ、とは言わない。ただ無言のまま、湊にその場所を、指や手で示すだけ。少しだけ迷って、湊が座ってくる。ふたりして同じような姿勢で、同じ方向に目をやって、同じものを見ている。
でもたぶん、それぞれ違うことを考えている。
井原が考えていたのは、こんなこと。
ついさっき、白波瀬に向けて自分が言ったこと。
嘘吐いてどうするんすか、なんて、そんな言葉。
自分の声を自分で聞いて、それで気が付くなんて馬鹿みたいだけれど、実際に気付いてしまったものは仕方がない。
嘘を吐く必要のない場面というものがあるのだ。この世には。
それはつまり、本当のことだけで満足できる状態のこと。ただありのまま、そのままあるものを提示されただけで、満足できる状況のこと。
本当のことだけですべてが叶っているなら、無理して願い事が叶ったふりをする必要なんかない。似合う、と褒めようとするとき、本当に似合うと心から思っているなら、その言葉を嘘にする必要なんかないのだ。
家を出て行ったばーさんのことが思い浮かぶ。たぶんあのとき、自分は怖かったのだ。
人間正直がいちばん、を理由にばーさんが家庭を捨てたことじゃない。
自分の住んでいる家の中が、誰かが嘘を吐かなければ生きていけない空間だったことが、きっと、怖かったのだ。
井原は思う。
幸せになるために嘘が必要なこともある。でも、できることなら本当のことだけで幸せになるといい。嘘を吐くなんて疲れることをせずに、ただ幸せになれるといい。
難しいかもしれないけれど。
無理かもしれないけれど。
本当は、疲れるから嫌だなんてことを言ってないで、自分の持てるだけのすべての力を使って、世界中を幸せにするための努力をすべきなのかもしれないけれど。
でも、ただの高校生なのだ。
たかが何十億分の一の、ひとりなのだ。
できることはたくさんある。でも、全部をする必要なんてどこにもない。
やりたいことだけでいいのだ。
「ミスコン・ミスタコンの時間です!」
たとえば、ほら、祈ること。
今からステージに上がってくる人の、幸せだとか。
その幸せのために、自分の吐く嘘なんかひとつも必要ありませんようにだとか。
自分の好きが、そういう好きでありますようにだとか。
言葉にするなら、こんな形で。
「先輩が幸せでありますように」
もしかすると、ひょっとすると。
一瞬だけ、湊も同じことを考えていたかもしれないけれど。
井原の声はまた、大きなマイクの音に掻き消されてしまう。もしも湊が何かを喋っていたとしても、まるで聞こえなかった。
だから、これもまた。
本当に大切なことだったら、また後で。