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7-②

 どこまでも疑心暗鬼になれるのだ。気付いてさえしてしまえば。

 何に?

 この世には嘘があるということに。

 ぼんやりと、井原の脳裏に人の顔が浮かび始めている。それは湊のものでも、白波瀬のものでも、平尾のものでも、そして自分のものでもなかった。だけど、少しだけ自分に似ている気もする。

 人間正直がいちばんだなんて、どんな気持ちで言ったんだろう。

「あと一時間ありますね」

 声がして、ふと隣を見ると湊が立っている。

 あたりには小規模な祭りの空気が満ちている。野外ステージの前。一度聞いたことのある学生バンドが、二度目はないはずの青春を歌い上げている。

 まさか瞬間移動できるとは思わなかった。

 三回目の、大学の文化祭だった。

「時間、早めますか?」

 当然のことのようにとんでもないことを言う湊は、いつの間にか花束なんて持っていない。そりゃそうか、こんなとこでそんなの持って歩いてたら目立つもんな、なんてどうでもいいところばかりが気になる。

 照りつける日差しが眩しすぎて、周りのあらゆるものが光って見える。

「何まであと一時間?」

「ミスコンまでですよ」

「ミスコンが何?」

「破壊しましょう」

 ものの聞き取りに失敗するやり方も、いくつかあるらしい。相手の滑舌が悪くてよくわからないとか、そもそも知らない単語だから頭で理解しようがないとか、わかってしまうと大変危うい内容だったから脳が上手いことそれを回避した場合だとか。

 失敗したかった。

「意味がわからん」

「欲しいものがあるなら、何を犠牲にしてでも手に入れなくちゃダメなんです。先輩にはそれができるんですから」

「あのなあ、お前、」

 余計なお世話だよ、と言おうとして、それじゃあんまり物言いがきつい、と踏みとどまって、もっと柔らかく、かつ自分の怒りを適度に表現できる言葉を探す。探しているうちに手遅れになって、

「私、そのへんで時間潰してますから。先輩はちゃんとここでミスコンが始まるのを待っててくださいね。そして始まったら間髪入れずに破壊してください」

 そう言って、湊はととと、と小走りで行ってしまう。わざわざ速度を出したのは、ついてくんな、というサインに見えたが、しかし湊は一度だけ振り返って、

「ちゃんとやるんですよ」

 何もかも余計なお世話だった。

 すべての出来事が怒涛のように過ぎ去っていく。一日ってこんなに長かったっけ、と思いながら、そのへんに座れるところを見つけて腰を落ち着ける。

 そして考える。湊は何がしたいんだ。俺は一体どうなってんだ。これからどうすればいいんだ。

 どうする必要もないだろ、と思った。

 何がミスコンを破壊しろだ。そんなことをして何になる。確かに白波瀬のことは好きだった。でもそれも体感では一ヶ月くらい前までのことだ。そろそろ吹っ切らせてくれてもいいだろう。どうしていちいち蒸し返してくるんだ。そもそも湊は自分のことが好きなんじゃないのか。好きな相手を無理やり別の人間とくっつけようとするってどういう精神状態なんだ。ちょっと、っていうかかなり、あいつおかしいんじゃないのか。

 空を見た。

 青い。

 あほらし、と思った。

 だって、夏なのだ。夏休みなのだ。こんなうだうだじめじめよくわからないことなんてする必要はないのだ。嘘を吐くだとかイベントを壊すだとか誰々が死んだだとか誰々を蘇らせるだとか、そんなのは昼下がりのホラー番組と朝遅い時間のワイドショーでだけやっていればいいのだ。

 明日、平尾でも誘ってどこかに遊びに行こうかな。そう思った。思ってから、考え直す。明日は月曜日だ。そしてまだ学校がある。忘れていた。夏休みはまだ始まってもいないのだ。

 どんな夏にしよう。

 すっきりするような夏がいい。鬱憤を全部、消し飛ばしてくれるような。

「よ」

 思った矢先に、青空が翳る。明暗の差に、井原の瞳孔がぱっと開く。

 そういえば、こういうときに、やたら都合よく現れる人だった。

「白波瀬先輩、」

 そんなことを、思い出した。

「せっかく来てたなら私のところにもちゃんと顔出してよ」

 薄情な、と言って鼻先を軽く摘ままれる。

 安っぽいメイド服なんか着ていなかった。白いワンピースを着ている。それは一度目にしたことのある、ミスコンのステージに上がるための制服であって、似合ってもいたけれど、なんとなくしっくりこない。井原の記憶の中の白波瀬は、いつだって制服かジャージかのどちらかしか着ていなかった。

「ひとり?」

「あ、や、」

「誰かと?」

 小さく頷く。頷いてから、きっとこれは頷かない方がよかったんだろうな、と気付く。だって、

「誰と? 友達?」

 こう聞かれるに決まっているのだから。

「友達、てか」

「彼女?」

 肯定も否定も咄嗟にはできなくて、その一瞬の戸惑いに白波瀬の目が驚きいたように開く。

「これから彼女になる?」

「あー……、いや。そういうわけじゃなくて、」

 そういうわけじゃ、

 ないのだろうか。

「先輩、これからミスコンすか」

 わからないんです、なんて言うつもりはなかった。いつの間にかここにいたんです。なんだかよくわからないんですけど昔からの知ってる相手らしいです。その記憶を相手に取られちゃってるから自分ではあんまり自覚は湧かないんですけど。ところでそいつからミスコン破壊してこいって言われてるんですよ。先輩はそれで構いませんか? 破壊ってなんのことだかよくわかってないんですけど、とりあえずめちゃくちゃにしちゃっても大丈夫ですか?

 そんなことは、言うつもりはなかったのだ。

「よくわかったね」

 目を丸くする白波瀬に、

「服見りゃわかりますよ」

 言うと、白波瀬は自分の姿を見下ろして、

「……変?」

「いや、似合ってますけど」

「ほんと?」

「嘘吐いてどうするんすか」

 あ、と声が出そうになった。

 気付いた。

 自分が嘘を吐こうとしない理由。こんな些細な形で、でもきっちり、そしてはっきり、気が付いた。

 自分で口にした言葉に自分で驚いていて、驚きから戻ってくるまでの間にはすでに白波瀬が不思議そうにして井原の目の前で手をひらひらと振っている。

「大丈夫? 意識飛んでる?」

「戻ってきました」

「そう? 今日暑いから体調気を付けた方がいいよ。熱中症とか。ちゃんと水分補給しな?」

 お金ある?と言いながら白波瀬は自分の足のあたりを叩いて、

「あ、財布教室だ」

「大丈夫っすよ。金、ちゃんとあるんで」

「そう?」

 そりゃ学祭に来て財布持ってないわけなくないすか、と井原が言えば、それもそうか、と白波瀬は笑う。

 笑っている顔を見ていたら、この人のことが好きなんだと思い出した。

「先輩、あの、」

「うん?」

 声を出してから、話す内容を考える。それで、たぶんあまりにも馬鹿みたいな言葉が生まれてしまう。

「いま、幸せですか」

 自分で自分が恥ずかしい。

 どんな思考回路をしていればこんな言葉が出てくるんだ、なんて他人事みたいに恥ずかしがっていられればまだよかった。でもそうじゃない。

 自分でわかる。

 いま、自分がいちばん聞きたかったのはこれだということが。

 きょとん、と白波瀬は目を見開いて、井原を見る。

「何、どした? 疲れてる? 悩みある?」

 まあそうなるよな、と思って苦笑いになる。腫物みたいに扱われないで、こういう風に直接聞いてくれるだけまだ救われた。

「そういうんじゃないです。ただ、あの、」

「そういうお年頃?」

 あはは、と声に出して笑ってしまう。あんまりな言い草だ。でも、案外そんなものなのかもしれない。

「んじゃそれで」

「んじゃそれかあ」

 むむ、と言って白波瀬は腕を組む。片方の手を口元に当てて、考え込むような素振りを見せる。

 絶対この人なんも考えてないんだろうな、と井原は思う。もったいぶった挙句にめちゃくちゃどうでもいいことを言うような人だった。もしもそこが変わっていないなら、間違いない。

「そうだなあ……。まだ、わかんないかな」

 でもやっぱり、変わらないままでいる人なんていないのだ。

「大学入ってから色々手を出してみてはいるんだけどさ、しっくりくるとかこないとかそれ以前の問題で。自分が何やってるのかよくわかんないし。大学生になったからって急に変わるわけでもないんだよね。いまはとにかく自分がどこに立ってるのかなとか、どこに向かってるのかなとか考えてるような段階で、幸せとか楽しいとか、そういうところまではよくわかんないなあ」

 ううん、と白波瀬は悩まし気な顔をしながら唸って、それから、にっ、と片方の口の端だけを上げるようにして笑って、

「ま、そんなに変わんないよ。高校のころとさ」

 井原は思う。つまりそれって、

「そっすか」

 ずっと昔から、この人のことを理解してなかったってことでもあるんだろうな、と。

 不思議なくらい、清々しく笑えた。

「何を悩んでるのか知らないけど、井原は真面目だからね。あんま変に考え込まない方がいいよ。テキトーでいいんだよ、テキトーで。人生なんとでもなるんだから」

 そこまで言って、ぴん、と人差し指を立てた白波瀬は、あ、と何かに気付いたように声を上げて、

「緊張、解けてきた」

「してたんすか」

「いやするでしょ! これまだ人少ない方らしいからね。こっからまだまだ増えるんだよ。そんで私はあのステージに立つんだよ。緊張するでしょどう考えても」

「がんばってください。人生なんとでもなるらしいんで」

 ぽす、と白波瀬が井原の頭の上に平手を乗せる。生意気な、と言って笑う。

 井原も、笑った。

「井原はミスコン見てくの?」

「あー……、どうしよっかな」

「いや見てきなよ。なに帰ろうとしてんの」

「いや、一緒に来てるやつがいるんで」

「……彼女?」

「何回聞くんすか」

「答えるまで」

「うわ厄介」

「で、どうなのどうなの。実際さ」

「後輩です」

 今度は、ちゃんと答えられた。

「ちょうど、俺と先輩みたいな」

 驚いたように白波瀬が瞳をぱちくりと閉じては開く。それから、そっか、と呟いて井原の頭をくしゃりと撫でる。

「なんか、ちょっと変わったね」

「そうでもないですよ」

「いや変わったよ。昔はもっとかわいかったのに」

「なんすかそれ」

「たった三ヶ月くらいでこれだもんなあ。やんなるよ」

「こっちの台詞ですけど」

「ん?」

「いや、なんでもないです」

「お? なんだって?」

 わざわざ覗きこもうとしてくるのを、井原は顔を右へ左へ傾けてかわす。そのうち白波瀬の方が飽きて、ぽん、と軽く井原の頭を叩いて、

「ま、たまには連絡しなさい。お姉さん寂しいから」

「考えときます」

 生意気な、と白波瀬はもう一度だけ言った。

 んじゃ準備があるから、と言って白波瀬は手を振った。井原も手を振り返す。

 去って行く。

 背中を見ながら、やっぱり思う。

 この人のことが、好きだった。

 まだ好きなままかもしれない。


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