7-①
「満足です」
一秒が、永遠みたいな速度で過ぎていった。
「綺麗に騙されてくれて」
記憶を読んだ。読んで、読み込み終わって気が付くと、目の前で湊が笑っている。白昼夢でも見ていたような感覚。頭を振って、焦点の上手く合わない瞳を矯正する。ぎゅっと目を瞑ってから瞼を開ける。
海と花束。空を背景にして湊が立っている。
「ど、」
どうすりゃいいんだ。
井原は困った。切実に。このとんでもない嘘の出所が自分? そんなことどうやって信じればいいんだ。
嘘だろ、と聞きたい。聞いてみたい。というか嘘だろうと思っている。でも聞けない。もしいま読み込んだ記憶が本物だったとして、そんな風に聞いたら取り返しがつかないほど港を傷つけてしまうことは目に見えている。
目に見えているのだ。
いま自分の前で立っている湊の顔も。
これに騙されるなら本望、と言いたくなるような清々しい笑い方も。
そしてこれは井原のごく単純な性格の問題であるのだが、人から強烈に好かれるというのはうれしい。さらに言うなら、その強烈さの中に明らかに混じっている不穏な気配について考慮から外せるだけの度量も井原にはあった。
というか、色々と感覚が麻痺していてそれどころじゃなかった。
人からこんなに遠回しに、熱烈に告白されたのも初めてのことだった。
後になればきっと井原は思うだろう。このとき自分はおかしくなっていた。衝撃的なことがありすぎて、自分がどこに立っているかもわからなくて、それで自分がどこに立っているかを確かめるよりも先に、よくわからない勇気だけでもって謎の決意をしてしまったのだと。
決めた。
抱きしめよう。
井原は青春にとって大きな一歩を、思い切って踏み出した。
湊が柵から片手を放した。
「…………」
「…………」
「……お前、いまなんでそれした?」
「いや、近付いてくるからですけど……」
片足を上げてみた。湊が柵を掴んでいたもうひとつの手の指から、明らかに力が抜けるような仕草が見える。試しに一歩戻ってみた。湊はさっき放した手を元に戻して両手で柵を掴むようになった。
可能な限り大股で、張り裂けそうなほど大きく一歩を踏み出してみた。
「う、うぉおお……」
「馬鹿ですか?」
自分でも馬鹿だと思った。きっちり片手を放した湊に言われるまでもなく、そんなことはわかっていた。
「お、お前は何がしたいんだ……」
無理な体勢を取りながら、足よりも脇腹あたりの方がきつい。たぶん傍から見たら相当間抜けな絵面だろうな、と思っていると、
「話しますからその馬鹿みたいなポーズはやめてください。馬鹿みたいです」
みたい、と付けてくれているだけ優しさなのだろう。井原はそれに大人しく従って、無様に地面に手を突きつつ、後ろ脚を引き寄せて、それから何事もなかったかのようにすっくと立ちあがる。
「お前は何がしたいんだ」
仕切り直した。
一瞬だけ湊が口元を押さえた。たぶん笑ったのだと思う。
「見たままです。助けに来てほしかっただけですよ」
「そっちじゃなくて」
「はあ」
「なんで逃げんのかってことだよ」
ほら、と井原は手を差し伸べる。湊はその手を一瞥したのち、はっきりと井原の目を見て、
「そっちに行ったら、キスしてくれますか」
「き……!?」
裏返った声が出る。恥ずかしくなる。
不意打ちだった。そこまで考えてなかった。
でも、よくよく考えてみれば高校生なのだ。いや、高校生だからという問題ではない。キスなんて中学生だろうが小学生だろうが幼稚園児だろうがする。これは好意の度合いの問題なのだ。その先のことは知らないが、とりあえずキスまではそうだ。うん。そう思う。そういうことにしよう。
「うん」
そういうことにした。
「じゃあ嫌です」
「なんでだよ!」
「そういうのじゃないんですよ、求めてるのは」
はーあ、と湊が溜息を吐く。
「そういうのじゃないんです。確かに助けに来てくれたのはうれしかったですけど。でも、本当のところもっと適切なやり方があったと思いませんか」
「なんだよそれ」
「今だって」
パッと湊は両手を放す。
叫びそうになった。
が、足はちゃんと地面に着いたままでいる。
「おい、ちゃんと握れ」
「言えばいいんですよ。お前は絶対に落ちないだとか。助けに来るにしたって、こんなところまでついてくる必要はないんです。ただ一言、お前はしばらく死なないとか言えばよかったんですよ。単純じゃないですか」
「んな、」
「まあそういう人だと思ってたからこんな風に試して、こんな風に試されてくれてるわけなんですけど」
かん、と湊は爪で柵を弾いて、
「でもやっぱり、私は気に入らないです。どうしてそれだけの力を持っていてそんなになよなよしてるのか。白波瀬先輩のことが好きなんだったら、向こうが自分を好きになるように操作すればいいじゃないですか」
「んなことできるか!」
「できるじゃないですか」
う、と怯んでしまった。あまりにも淡々と湊が言うものだから、自分の中の常識が揺らがされそうになる。さすがにこのラインは揺るがされたらまずいと思って、どうにかしがみついて、
「ダメに決まってんだろ、そんなこと」
「どうして」
「倫理的に問題があるだろ。人の心を直接どうこうするのは。つか、何の話なんだよいきなり。関係ないだろ、いま」
「私みたいにやればいいじゃないですか」
考え込むまでもなくその続きを湊が説明してくれる。
「自分の命でもなんでも盾にして向こうからこっちに来るように仕向ければいいんですよ。大学と高校で別れたから接触しにくいっていうんだったら一年前に戻ってそこからやればいいですし」
そして、湊はきっぱり言う。
「先輩は幸せになるための努力を怠っています」
頭を抱えそうになった。
もしかして、とは思う。
もしかして、と強めの仮定を置いてから、井原は、
「つまりさ、」
聞いてみる。
「お前、俺のこと心配してんのか?」
ん、と湊が急に怯んだ。
それから、つ、と目を逸らして、
「卑怯だという話です」
口を尖らせて言う。
「何がだよ」
「そもそも嘘が嫌いというのが気に入りません」
それは知ってる、と井原は思う。ついさっき散々記憶の中で見せられた。
確かにいかにも本が好きそうな後輩の前でいきなり「本が嫌い、それぜんぶ嘘じゃん。俺嘘が嫌いなんだ」なんていうのはちょっとネジの外れた発言だと、自分でも思う。自分の記憶が消えているからそのへんのところをどういう気持ちで言葉にしたのだかわからないが、ひょっとすると記憶をなくす前の自分はちょっとやばめの性格をしていたのかもしれない。
でも、口に出すのはともかくとして、感性としてはそこまで間違っていないんじゃないかと思う。
だって、おそらく自分は生まれてからずっと、こんな意味のわからない巨大な力と付き合ってきたらしいのだ。これのために得したこともまあまああるだろうが、想像上の自分はとにかくそれに振り回されて悲惨な目に遭っている。そういうタイプだろうな、という自分自身への信頼がある。残っている記憶から判断できる限りでは自分は間も悪ければ要領も悪い人間で、そこから演繹的にかつてあったはずの全体を推測すると、まあそうなる。
嫌って当然じゃないか、と思うのだ。
自分が石油王になっていないことからもわかる。絶対にこの力を使っていい思いはしていない。ただひたすら発言に気を遣って、妙に自分だけが人と違って、その原因になっているものを嫌わない道理がないだろう、と。そう思うのだ。
「先輩は、嘘が吐けないという嘘を吐いています。そしてそれに甘えています」
ちょっとカチンと来た。
来たけれど、先に湊の発言の内容をよく噛み砕いて、それから改めてキレようと考えて、その間に続きは話され始めてしまう。
「本なんてただの嘘だ、という先輩の主張は百歩譲って認めましょう。死ぬほど気に入らないですけど。でもその上で認められないものがあります。なんなんですか、その嘘の使い方は。私が許せないのはそこです」
「どこだよ」
「できることをやって何の問題があるんですか」
湊は本当に、当然の事実を指摘するように言う。
「先輩には魔法みたいなすごい力があるじゃないですか。どうしてそれを使わないでそんなにうじうじしてるんですか。あなたは「できない」や「諦める」からいちばん遠い場所にいる人です。それを何のかんのと理由をつけて普通の人ぶって、私はそれが許せません。強い人が弱い人のふりをするのがこの世でいちばん性質の悪い行為です」
「あのなあ、」
怒りそうになった。
が、少し語気が荒くなった時点で井原は自分の顔を押さえて、さらに怒りも抑え込む。長めの溜息を吐いて、
「あのな、」
それから、
「そんなこと言われても俺にはさっぱりわからん」
井原は言った。
「自覚も湧かないし。記憶もないし。なんか湊が怒ってんのとか、それが適当に怒ってるわけじゃないってことはわかるよ。でも急に言われてもなんもわからん。俺が知ってる限り、俺は生まれたときからこうなんだから。湊がいくら言ってもぜんぶ他人事にしか聞こえない」
口にしている間も、井原は状況の把握に努めようと顔を押さえたまま考え込んでいる。
どっちが理不尽で、どっちが正しいのだろう。
最初に嘘を嫌っていたのは自分だった。
湊の好きなものを嫌いだと言って傷つけたのは自分だった。
湊が期待してたものを綺麗さっぱり捨て去ったのは自分だった。
自分から記憶を奪ったのは湊だ。
湊が口出ししようとしているのは自分の人生だ。
自分の人生を生きるのは自分だ。
自分にもう一度嘘の力を与えたのは誰だった?
湊は何が気に入らないんだ。助けに来たのを喜んでいたんじゃないのか。なんで白波瀬先輩がここで出てくるんだ。別にいいだろ、そんなことは。結局文化祭には行かなくてこっちに来たんだから。もう比較する意味だってないだろ。
ばしゃん、と水音がした。
見てなかった。でも、何が起こったかははっきりとわかった。
思考なんて吹き飛んでしまう。柵に駆け寄る。もう湊はそこに立っていない。下を覗きこむ。
泡が立っている。
花束が浮いている。
簡単に乗り越えられる低い柵で、だからかえって、足を引っかけてから思考する余裕ができてしまった。
飛び込むのか、ここに。
ここに来るまでに、結構階段を上った。もしも見下ろした海面のすぐそこに尖った岩なんかが隠れていたとしたら、内臓破裂どころか腹から背中まで綺麗に串刺しになるかもしれない。そして鮫とかがうようよやってくる。声も出ないような苦痛に襲われながら、声も出せないので何の打開策も試しようがなく、生きたまま五体を食される。そういう想像がものすごい勢いで思考を覆いつくしていく。
厄介なことに、選択肢だけはあった。
取りたくない選択肢と、取ったらあんまりよくない事態に発展してくんだろうな、という選択肢。
井原は悩んだ。悩むだけの余裕が、生まれてしまった。
そして井原は、たとえば学校のテストなんかでも、一旦悩み始めると最終的にどちらかというと捻り気味の選択肢を取ってしまう傾向があった。
今回も例に漏れず、
「あ」
「…………」
「巻き戻しましたね?」
なんでわかるんだよ、とはわざわざ声に出さない。代わりに湊がふふっ、と笑う。
どのくらい前の時間に戻ってきたのかわからない。展望台。湊はすでに柵の向こう側に立っている状態で、たぶんそんなに長い時間を飛んだわけではない。やるんだったらもっと細かく時間を指定して巻き戻せばよかった、と後悔する。
どこまで話が進んだのかわからない。ここから先どんなやり取りをすれば湊が突然飛び込むのを未然に防げるのかわからない。というかどういう思考回路でもっていきなり飛び込んだのかもわからない。うれしそうにしているのを見ると、単に自分に時間を何度も巻き戻させたかったのではないかとも思う。単に助けてもらっていい気分になりたかっただけなのではないかとすら思う。
そんなことはないと信じたい。
が、信じたところでそれが何になるんだ、と疲れ切っている気持ちもある。
はあ、と大きく溜息を吐く。とうとう井原はその場にうずくまる。頭を抱える。そして聞く。
「湊さ、結局俺にどうなってほしいの?」
そして湊はこう答える。
「行きましょう、学園祭」