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6-②

 初めのころは、まるで何を言ってるのかわからなかった。

 生来疑り深い性格だったこともあって、どんなに井原が懇切丁寧に自分が持っている嘘の力について説明しても、湊はそれをまるで信用しようとしなかった。

 些細な不思議はすべてマジックだトリックだと言って何から何まで暴こうとしたし、壮大な不思議はすべてそんなことできるわけがないただの偶然だと言って頑なに認めようとしなかった。井原が口下手だったのも不信感に拍車をかけた。仮に先輩がそんな力があるとして、どうしてそんなに言葉を使うのが苦手なんですか、と聞けば、今までずっと喋るのが怖かったから、なんて返ってくるのだからたまらない。

 時間が必要だった。これまでの人生のすべてをひっくり返されるような力の実在を、湊のような理屈っぽい人間が信じるのには。長い長い時間をかけて、湊は井原の持つ力を理解していった。

 そして、長い長い時間をかけて、井原のことを好きになった。

 我ながら単純だ、と湊は思う。でも、仕方のなかったことなのだとも思う。

 だって、他にいなかったのだ。学校に来て、おしゃべりする相手なんて。自分がいくら悪態を吐いても離れていかない人なんて。自分だけに重大な秘密を打ち明けてくれる人なんて。

 井原は、湊の秘密の友達だった。

 世界を丸ごと作り変えてしまうような、とんでもない秘密を自分だけに教えてくれた、優しい友達。

 今にして思えば、自分の好きな小説によく似た人だったのだと思う。必要なときにはいつだって近寄ることができて、わくわくするような不思議を持っていて、現実にいながら現実のことを忘れさせてくれる存在。

 これまで生きてきた中でいちばんの好きな人になるには、十分だった。

 恋だったかどうかなんてことは、知らないし、興味がなかった。自分が異性を好きなのか、同性を好きなのか、それともどちらも好きなのか、どちらも好きではないのか、そんなことだって湊は知らない。興味がない。「好き」につける名前なんてどうだっていい。大切なことはそれが「好き」という気持ちであること。それからそれがどのくらいの大きさなのかということだ。

 膨大だった。

 文字通り、膨れ上がって、自分を取り囲む世界すべてが幸せで出来ていると錯覚してしまうくらいに。

 だから、うっかり見過ごしてしまっていたのだ。

 そもそも始まりの段階で、すれ違っていたことを。

「信じます」

 とうとう言ったのは井原が卒業する前の日だった。本当のところ井原の嘘の力はずっと前から信じ込んでいた。お互いに疑う余地がないと知りながら、まだダメだ、これならどうだ、とやるのはただのじゃれ合いで、両方が答えを知りながらクイズを掛け合うような、ただの温いコミュニケーションだった。

 それでも、意を決したのだ。

 踏み込もうと決めた。関係を変えようと決めた。

 あなたを理解しますと、そういう宣言のつもりで、声に出したのだ。

 湊は見た。井原が笑う顔を。今まで見た中でいちばん幸せそうに笑う顔を。

「そっか。じゃあ、」

 今にしてみれば、本当に馬鹿みたいだと思う。

「全部、やるよ」

 どこかで前提を取り違えていたのだ。あんまり幸せになってしまったから、幸せが崩れていきそうな部分からは目を逸らしてしまったのだ。

 欲しいならやるよ、というのは自分にも同じ力を与えてくれるという意味ではなかった。

 自分がいらないものを引き取ってくれないか、という意味だったのだ。

 湊はがんばった。その言葉を聞いて、絶対に茫然としないように、自分を制御した。そして実際、何とか落ち着いたふりを保つことができた。

 できた、と思う。

 もしかして自分といた時間が、井原にとってはただ苦しいだけのものだったのではないか、なんてこと、家に帰るまでは考えないようにできたのだから。

 そうして、真っ赤な舌はきれいさっぱり受け渡された。

 嘘のたったひとつで。

 家に帰ってからはしばらく泣いた。せっかく手に入れた赤い舌で井原を自分のものにすることを何度も考えたけれど、結局、そんなことはできなかった。

 湊にとって「好き」というのは、そういうものだった。

 当時は携帯だって持っていなくて、連絡先も知らなくて、湊が中学を卒業するまでに井原を見かけたのはたった二度だけ。

 一度目は、見学に行った高校の周りでゴミ拾いをしながら、先輩と呼ぶ誰かにでれでれしていた。

 二度目は、ショッピングセンターで買い物をしながら、友達らしき誰かと笑い合っていた。

 自分には見せたことのない顔だ、と二度とも思った。頭ではわかっている。誰だってすべての人間に同じ顔を見せるわけではない。明るい人といれば明るい顔を見せるし、落ち着いた人といれば落ち着いた顔を見せる。自分だけが見たことのある表情だって必ずあることを、頭ではわかっていた。

 頭でわかっているだけで感情が抑えられれば苦労はない。

 中三の冬の終わりになって、大学の入試科目に『嘘』が追加されると聞いたとき、正直なところ、いい気味だ、と思った。明け透けに言ってしまえば、ざまあみろ、と思った。直接的に言ってしまえば、ばーかばーか、と思った。

 やっぱり私の方が正しかったじゃないか、そう思った。いまごろ井原は泣いているかもしれないと思うと、笑いを堪えきれなかった。自分が切り捨てたものが急に必要になったときの気分は、どれだけ悲惨なものだろう。しかし後悔してももう遅い。一度捨ててしまったものは、もう永遠に戻ってきたりしないのだ、

 そんなことはなかった。

 湊は見造里一高に入った。ボランティア部にも入った。たった舌先三寸を動かすだけで全国どこだろうが名門の高校に入れたのに。どころか図書館でも買い取って自分のものにして、その中で一生を過ごすこともできたのに。

 仕方がないことである。湊にとって「好き」というのはそういうものだったのだから。

 泣いて謝るなら許してやろうと思って会ったのに、井原は泣いて謝ってきたりはしなかった。

「お久しぶりです」という言葉には「よ、久しぶり」と返してきたし、

「お元気ですか」という言葉には「元気元気」と返してきたし、

「後悔してますか」という言葉には「何が?」と返してきた。

 おかげで毎日楽しいぜ、とまで言った。

 ムカついたので記憶を奪ってやった。

 完全に無計画だったわけではない。なんだかんだ言って付き合いは長い。しばらく話していれば井原の態度がみっともないくらい痩せ我慢なことは、簡単にわかった。少しばかりの親切のつもりだったのだ。自分がとんでもない嘘を使える人間だった、という記憶だけを消してやったのは。捨てたものにいつまでも囚われているのも可哀想だと思ったし、捨てると決めたのは井原自身なのだ。感謝されこそすれ、糾弾されるようなことをしたつもりはない。

 それはそれとして、ああそうですか毎日楽しいですかよかったですね要らないものは性格の悪い後輩に押し付けてすっきりしましたよねすっきりついでにその性格の悪い後輩ごと記憶を消してあげますよこれで毎日超ハッピーですねという気持ちもあった。

 仕方のないことである。湊にとって「好き」というのはそういうものでもあったのだから。

 完全に消去し切らないでただ奪うだけに留めたのは、人の物を勝手に捨てるのは気が引ける、というごく常識的な感覚による。かといって自分の頭の中にそれを収容しようとするとおそらくそれを読み込んでしまうことになり、そういうのが怖くて、結局ボランティア部のごみ拾いの後に配られたスポーツドリンクの中にそれを収めることにした。開栓したことがないので上手くいっているかは知らない。上手くいっていなければいいとは思っている。

 その後は、しばらく井原に接触しなかった。意識してそうしていた。元々持っている、手に入らないものには背を向ける性格というのはそうそう矯正できるものではない。手元に残った真っ赤な舌を頼りに自分に快適な高校生活を作り上げて、そうして日々を過ごしていた。

 そこにあれだ。

 うれしくなって泣いてしまった。

 まず自分に会いに教室に来てくれたのがうれしかった。

 人気のないところに連れ出されたのがうれしかった。

 記憶を読んだら、もっと嬉しかった。

 記憶をなくしたままの井原が、それでも嘘の力だけを取り戻して、使って、自分を助けに来てくれたのだ。理屈の上ではわかっている。井原が救おうとしたのは単なる命であって、自分の命ではない。目の前で別の人が死にかけたから咄嗟に時間を巻き戻しただけで、もしもその正否を十分に検討するための時間があったなら、自分を見捨てるという選択肢もありえただろうことを、湊はわかっている。

 それでもうれしかったのだ。

 一巡目の自分がなぜ死んだのかはわからない。自分の記憶にも、井原の記憶にもその理由は載っていない。

 けれど、二巡目の自分が死んだ理由はわかる。誰の記憶にも残っていなくても、自分のことだからよくわかる。

 もう一回、助けてほしかったのだ。

 今度は自分の意志で、助けに来てほしかったのだ。

 捨て猫をそのまま置き去りにするよりも、一度拾った猫を再び捨てる方が心理的障壁は高い。それを踏まえた上でも、ちゃんと考えて、それでも自分を助けに来てくれたことがうれしかった。

 二巡目の自分は賭けに勝ったのだ。

 賭けに勝って、三巡目の自分はこんなにうれしい。

 だからもっと賭けたくなった。

 井原はちゃんと意志を持って自分を助けに来てくれた。

 じゃあ今度は、自分のためにどこまでなら捨ててくれるのだろう。

 下準備はもうできている。

 騙してやろうと、そう決めた。


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