6-①
問題が起こりえることはすでに予見されていたことだったのだ。
だから、湊は自分に一人として友人できなかった、そのこと自体にはまるで驚いたりしなかった。
だって、何度も見たとおりなのだ。小説でも、漫画でも、アニメでも、どんな作品の中でも見た。本ばかり読んでいて、痩せっぽちで、無愛想な人間が他人から歓迎されるはずがないのだ。物語の中で笑って、楽しそうにしているのは、明るくて元気で、それ以外に生き方を知らないような、そうなるためだけに生まれてきて、そうなるためだけに生きているような人たちばかりなのだと、初めから知っていた。
だから、中学に上がったときに、今までと同じように、どうやらこの先も友達のひとりもできないままに自分の人生は進んでいくらしいとわかったことも、大した衝撃ではなかったのだ。
問題は、そこではなかった。
問題は、自分がひとりで生きていけるほどの強さを持っていないらしいと、そう気付いてしまったことだった。
物語の中には幸せになるために生きている主人公のほかにも、もっとたくさんの登場人物がいる。シンデレラに登場する魔法使いはどうだ。王子様になんて見初められる必要はない。ただ魔法が使えるという一点だけで、堂々と存在している。
自分にも、そんな一点があると思っていた。
子どものころから本を読むのが好きだったし、小学校に通っていた六年間、いついかなるときもこの学校でいちばん物語に詳しいのは自分だという自覚があった。
馬鹿らしい、と思う。たかだか成績表のひとつくらいで必要以上に落ち込んだことも。たかだか成績表のひとつくらいが、自分の価値を表していたことも。
小学校で一番だった。
中学校では十番だった。
両親は失望しなかった。わかってたよ、と言う。小学校と中学校ではレベルが違うんだから。こうなるのはちゃんとわかってたよ、と言った。
教えてくれなかったくせに。
自分より上の九人は、みんな自分よりもずっとたくさんの取り柄があるように見えた。どいつもこいつも自分よりずっと魔法使いの才能があって、どいつもこいつも王子様にもシンデレラにもなれた。
小学校で一番だった。中学校では十番だった。じゃあ次は? 百番? 千番?
一番じゃないならビリと同じだ。そんなわけがないと頭でわかっていながら、そのちゃんと自分でもわかっている常識を徹底的に否定するのが楽しくて仕方がなかった。自分がどうしようもない、何の価値もない、一生幸せになることもできない、シンデレラにも王子様にも魔法使いにもなれない絵本のシミみたいな人間だと思うのが楽しくて仕方がなくて、楽しめば楽しむほど惨めさは際限なく積み重なっていった。
惨めさから逃れようとすればするほど、物語は魅力的に映り始めた。
たとえ自分が登場する余地がどこにもない物語でも、惨めな自分しかいないような人生よりは千倍マシだった。物語は自分を救ってくれはしなかったが、痛みを鎮めるくらいのことはしてくれた。
本当に救ってくれたのは、どこまでも普通に見える、本物の魔法使いだった。
図書委員の当番だった。その日は。中学二年生になってから初めて、初めて見る上級生と一緒に。
放課後、本になんて誰も興味を示さない。みんなするべきことがある。勉強だったり、部活だったり、遊びだったり。物語なんてものは足りない人生を補うためのものであって、ちゃんと自分の人生を充実させられているなら、まるで必要のないものなのだ。夕陽の差しこむ図書室で、誰も来ないのに誰かを待ち続けていた。湊も、何年分もの埃を被った本たちも、
そして、井原も。
その当時は名前すら知らなかった。名前すら知らない上級生と、ふたりで、ひたすら黙りこくって下校時間を待っていた。
自分のことを棚に上げて、湊は、井原のことを変な人間だと思った。
普通の人間は、こういう空白の時間には何かをしようとする。携帯を使ってゲームをするのもあるだろうし、出された宿題を片付けるでもいい。あるいは自分のことを話し相手か何かだと勘違いしながら楽しい時間を過ごそうとしたり、
あるいは、本を読んだり、しようとする。
図書室にいるのだから。
先に動いたのは湊の方だった。何も言わずに席を立ち、一冊、背表紙だけで判断して本を引き抜いて、元の席に戻った。今よりもずっとずっと小柄だった十三歳の身体には不釣り合いに大きな武器を抱えるようにして、ページを捲った。
その様子を、井原が横目で見ていた。
「なんですか?」
と、声に出せたのは、あまり怖そうな人には見えなかったから。人を見た目で判断するのはよくないことだとはわかっていたけれど、初対面の人間相手なんて見た目でしか判断できない。すらっとした人で、目は少し大きいたれ目で、顎の輪郭は滑らかで、髪の毛は柔らかそう。どこをどう切り取っても恐怖の材料にはならなかった。
予想していたとおり、井原が怒ったりすることはなかった。
「いや、別に。本好きなのかなって」
「図書委員ですから」
もちろん、図書委員なら全員本が好きだなんて信じていたわけではなかった。皆、何かしらの委員会に所属しなくてはいけない。クラスからは必ずふたりは図書委員を出さなくてはならない。そしてクラスに必ずふたりも本が好きな人間がいるわけではない。だから、嫌々図書委員をやっている生徒がたくさんいるのは知っていた。
それでもそう答えたのは、相手を馬鹿にしたかったから。図書委員なのに本が好きじゃないんですか。まさか。そんなことあるんですか。本を好きじゃないなんて図書委員の資格がないですよ。私より劣っています。そういう優越感を味わいたくて、
「先輩だってそうじゃないんですか」
「いや、」
ほら見ろ、とほくそ笑む。どうせクラスメイトと同じようなものだ。本なんて一ページも読めない。すぐに眠くなる。そう言うに決まっている。結構なことだ。必要がないなら触らなければいい。いいんじゃないですか、愛し愛され幸せになれるならそれで。必要がなければ触らなければいい。
そしてそういうやつらは最後には必ずこう言うのだ。本を読めるなんて、湊さんはすごいね。
言わなかった。
「俺、本嫌いなんだよな」
本当に心の拠り所にしているものを否定されたとき、完全に思考は止まる。
たとえそういう人間がいることを知っていたとしても。普段から自分自身、その拠り所を馬鹿にしていたとしても。結局そんなものは傷ついたときに深く傷つかないようにするための予防措置であって、傷つくこと自体は止めようがない。
「なんで、」
ですか、までは声にならなかった。
「だって、嘘だろ、それ」
あまりにも身も蓋もない言い方で、飲みこむまでに時間がかかった。
ひどい言い草だと、何度思い返しても思う。文字を模様と呼んだり、音楽を風と呼んだりするようなものだ。
始まりは確かにそうかもしれない。でも、それだけじゃないだろうと反論しようとして、けれど始まりだけは否定できないことを思い知る。
「嘘、嫌いなんだ」
言葉を失っている間に、井原が言う。
その日は何も話せなくて、それっきり。
だけど、次の当番のときも、また次の当番のときも、その上級生はそこにいた。何もせず、じっと座っていて、ときどき湊の読む本に目線を送る。
なんですか、と尋ねても、いや別に、と笑うだけ。
馬鹿にしている風でもなく、本当にただ無意味に見ていたのが気恥ずかしくて、というように笑う。
だからたぶん、それに気が障った日、何か湊の側に気が立つ理由になるようなような出来事があったのだろう。
テストの結果が悪かったのかもしれないし、親から友達の話でも振られたのかもしれないし、あるいは単に天気が悪いだとか、頭が痛かっただとか、湊自身覚えていないような些細な原因があったのかもしれない。
「なんなんですか?」
些細さに不釣り合いな言葉の棘だった。嫌いなら見る必要ないじゃないですか、なんて強烈な言葉を浴びせて、しかし井原はそれに苦笑して、確かにそうだな、悪いな、と謝るだけで話を終わらせてしまった。
それが癇に障った。
終わらせなかった。
「大体何なんですか? 嘘が嫌いって」
元々、火種は燻り続けていたのだ。ふるまいが内向的になっている分だけ、自分の内心にあるものを踏みにじられたときの怒りは激しく、根が深い。相手に悪気があったかどうかなんて、簡単に判断材料から外してしまえるくらいに。
「嘘の何が悪いんですか? 本当のことだけで生きていけって言うんですか。弱い人間はずっと弱いまま生きてなくちゃいけないんですか。何かに逃げたりすることがそんなにいけないことなんですか。そもそも他の人だってたくさん嘘ついてるじゃないですか。どうして私だけが責められなくちゃいけないんですか? みんな嘘を吐いて褒めるじゃないですか。すごい、天才だよ、なんて心にもないくせに。一生友達だよ、なんて言うじゃないですか。どうせすぐにすぐにどうでもよくなるくせに」
そこまで一気に吐き切って、息を吸ったら恥ずかしくなる。
くだらない八つ当たりだ。どう考えても、考えるまでもなくそんなことはわかっていた。喜怒哀楽のうちでもっとも惨めな感情は怒りだ、と湊は思う。喜びにも悲しみにも一種の美しさのようなものが付随している。けれど、怒りだけはそうではない。あるのは醜さと、その醜さを疎む心だけだ。
瞳を伏せて、今にもその場から消えたくなる。怒りの持続時間は短い。何をやってるんだ、と自分で自分を叱って、すぐに謝ろうとしたのに、
「なんか、ごめんな」
もう一度怒りそうになる。人が謝ろうとしているのに先に謝らないで、と。顔を上げて、踏みとどまって、それから息を呑む。
本当に悲しそうな顔をしていた。
映画俳優だって、舞台役者だってもっと抑えた表情をすると思った。泣いたりなんてしていなくて、ただ笑っているだけなのに、崖の先端に爪先で立ちながら、幸福だった日々を思い返しているような、そんな印象を叩きつけられた。
悪かったよ、と井原は言った。謝りたいのはこっちだ、と湊は思う。が、ここで謝れるようならもっと普通の人みたいに生活できていたというのも確かで、つまるところ何も言えずにいるまま向こうばかりが動き出す。
「あのさ、湊」
そして、井原は言った。
「嘘、欲しいならやろうか」