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5-⑤

 別に大した場所でもないのだ。海なんて。

 この海辺に来たのは初めてのことではなかった。もっと小さなころに両親に連れられてきたことがある。海の水に浸かって何をしたかなんてことはほとんど覚えていなくて、海の家で砂が混じった醤油ラーメンを啜って、砂って美味いんだ、なんて意味不明なことを考えた記憶だけが残っている。

 想像していたよりも浜は狭くて、海は広かった。この先に外国があると地球儀がいくら教えてくれても、どう考えたってその先に辿り着けるような気がしない、そういう絶望的な距離感がそこにはあった。けれど現代のテクノロジーの恩恵を受けて育った井原にとっては、その絶望感もミニチュアでしかなく、昔の人って海のこと結構怖かったんじゃないかな、なんて他人事としての感想ばかりが浮かぶ。

「ここか?」

 と一応聞けば、

「いえ」

 と、湊は首を振り、また歩き始める。そりゃそうだ、と井原は思う。完全な平地だ。こんな場所に花束を置いたら砂と一緒に巻き上げられて、どこかに吹っ飛んで終わりだ。毎年供えているっていうなら、もう少しそれらしい場所があるに決まっている。

 湊の小さな足跡が、砂浜についていく。

 その後ろから、大きな足跡が、その真横に寄り添うように、砂の形を変えていく。

 ふたつの足跡は、背の高い建物の入り口で途絶え、その先をふたりは歩く。その建物が灯台なのか展望台なのか、備え付けられた観光用の双眼鏡を目にするまで井原にはわからなかった。白い塗装のところどころ剥げて、赤錆びた、足のついたそれ。百円。入れることもなく、屋上に風が吹いて、ふたりはそこに立っている。

 ここか、とは聞かなかった。

 ここだ、と思ったから。

 花束を抱えたまま、湊は海の方向を見ている。視線は高く、遠い。井原も釣られて同じ方向を見たけれど、何も見つけることはできなかった。少し近付く。何かあったとき、咄嗟に動けるように。

「よかったんですか」

 と湊が言った。何が、と問い返すと、視線を動かさないまま、

「今日、大学の文化祭、あったんじゃないですか」

 それを湊が知っていることを、井原はすんなり受け入れられた。記憶を読まれているのだ。自分の知っていることは、湊も知っていると思っていい。

「まあ……、いいよ。別に、もう二回行ったし」

 平尾との約束を反故にしたのだけが気にかかりながら、しかし本心から井原はそう言った。

 あんなのは何回も行くものではない。牛串も焼きそばもたこ焼きも向こう三年分くらいは食べたし、あの大学の学内バンドの上手い下手も名前を見ただけで大体わかるようになった。

「いいんですか、白波瀬先輩は」

 あまりにもさらりと言われたので、動揺するのが遅れた。

 どういう意味で、とかそんなこと考えるまでもなかったのだが、わざわざ考えた。いいんですか、とはどういう意味か。そんなの聞き返すまでもなく自分自身に問いかけてみればわかる。湊は自分の記憶を使って話しているのだから、自分の中にある材料から答えは出せるのだ。

「お前さ、」

 デリケートなこと聞くね、と。

 自分で想像したよりも柔らかい、呆れた声で井原は言った。湊はそれを意に介した風でもなく、もう一度、

「いいんですか」

 と聞いた。

 急な恋バナかよ、と何の準備もしていなかった井原は戸惑う。

 ここまで来て聞くようなことか、と思いつつ、しかしこれも何かすごく回りくどいこれからの会話の前置きなのかもしれないとか、こういう他愛無い話をすることで何かしら自分の気持ちに整理をつけようとしているのかもしれないとか、深読みして、とりあえず真摯に答えることにする。

「いいか悪いかとか、正直自分でもわかんねーけどさ」

 吹きさらしの場所でも、不思議と夏の風は穏やかで、それほど大きな声でなくなって、きちんと相手に伝えることができる。柵の真下で塔に打ち寄せる波は、その響きを飲みこんでしまうから、少しだけ頼りない気持ちにはなったけれど、

「なんか、遠い人になったと思ったんだよな。ステージに上がってんの見たときに」

 それでも、落ち着いた口調で井原は言う。

「なんかわかったような言い方になって恥ずかしいんだけど、こう、人それぞれやることってあるだろ。高校生は部活して勉強して遊んで……、っていうことがまずあってさ。大学生だってそういうものかもしれないけど。でも、今の先輩はステージの上にいて、俺はステージを見る側なんだなと思ったら……、なんだろ。どうでもよくなったわけじゃないんだけど」

 言葉を探して、笑ってしまう。あまりにもひどいものを掘り当ててしまったから。

「諦めちゃった」

 それがいいか悪いかはわかんねーけど、と井原はもう一度言う。

 高校生には高校生のやることがあり、大学生には大学生のやることがある。

 白波瀬には白波瀬のやることがあり、自分には自分のやることがある。

 ぼんやりと、自分でも気が付かないうちに、選び取っていたらしいと井原は自覚する。成り行き任せだったかもしれないが、ちゃんと理由を探せば見つかるくらいには、自分で選んでここに来ていた。

 夏休みはまだ始まってもいない。高校生活はまだ終わらない。日々の生活の中で、自分は二年先のことよりも、たった今目の前にあるものに取り組むことを選んだ。

 言葉にしたら、思ったよりも切なくなって、少しだけ目を閉じた。前髪が風に吹かれて、額をくすぐった。

 目を開けると、柵の向こうに湊が立っている。

「は」

 思考が止まった。

 視線は生きていた。屋上、展望台。頼りない、腰くらいの高さの柵。風。吹きさらし。すぐ下にある海。花束。人の死。

 湊は井原を見ている。

「いいことだと思います」

 場違いなくらい落ち着いた声で、湊は言った。

「諦めるのは。でも、そういう諦め方はダメです」

 言いたいことはたくさんあった。まずもってその言葉そのままそっくり返してやるよ、と言おうと思った。刺激しそうで言えなかった。待て。何してる。馬鹿なことはやめろ。命を大切にしろ。なんでそんなに死にたがってんだ。三回目だぞ。いい加減飽きろ。危ないからこっちに来い。どうしてもって言うなら俺の見てないところで死んでくれ。あらゆる言葉は発される前からすでに無力で、生まれる前から消えていく。

「どうしてなりふり構ったりするんですか? やめてください。私はそんなのは見たくなかった」

 こっちだってそんな光景見たくないよ。井原は少しだけにじり寄る。一センチくらい近付いて、そのあと一センチくらい離れて、もう一ミリも近付けなくなる。

「落ち着け」

「あなたは落ち着くべきじゃなかった」

「いや俺の話じゃなくてさ」

「あなたの話です。最初から」

「そうじゃないだろ。お前の兄貴の、」

「そんなのは嘘です」

 心に隙間ができた。

 思考の前提がひっくり返されて、何も言葉が出なくなる。

「穏やかに正直に生きるのがそんなに楽しいですか? 品行方正なんて強い人が弱ぶるための最低の技術です。私はあなたがそんなものに頼る姿を見たくありませんでした。ずっと。私は認めません。人を弱くするための嘘なんて」

 海は青く、雲は白い。風は吹き続けていて、湊の黒い髪がくっきり揺れる。花束がその腕を離れて、あまりにもあっけなく展望台から落下していく。そのあとに何の音も聞こえなくて、ひょっとしたら宙に消えてしまったのかもしれない、なんて井原には考える余裕もない。

 どこまでが嘘で、どこからが嘘だった?

 時間を巻き戻したときよりもひどい。自分がどこに立っているのかわからない。それどころか、自分が立っているのかすらもわからない。いま思い切って後ろを振り向いたりしてみろ、と井原は思う。ひょっとすると太陽が百個も千個もあって自分を見ているかもしれない。そしてこんなことを言うのだ。おいおい、お前こんなしょうもないところ見てる場合かよ、もっと大切なものがあるんじゃねえの。不安に駆られてもう一度振り向いてみれば、湊の姿どころか海もなく、きっと自分の影すらもない。それが怖くて、視線を外せないでいる。瞬きするたびに怯えている。

「どっからだ」

 井原は言う。

「どっから嘘だった」

 湊はそれに、笑うともつかない表情で、

「ダメですよ」

 言う。

「人の言うことなんて信じようとしないで、自分で確かめなきゃ」


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