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5-③

 ドアを開けて、普通に入った。

「……え」

「よ」

 それだけで、どう見たって湊は動揺していてた。不意打ちのつもりだったので、上手くいってよかったと思いつつ、井原はそのまま図書準備室の中を歩き、机にリュックを置き、目の前の椅子に座る。

 次の日、放課後。

 目の前に座った井原のことを、湊は見分するように頭からじろじろと見て、

「なんですか」

「入った」

「は」

「文芸部に」

 次は、は、とも返ってこなかった。ただ、ひゅっ、と短い呼吸の音だけがした。その間にはもう井原はリュックの中から一枚の紙切れを取り出している。

 入部届、と書いてある。

 顔も知らなかった顧問教師の印も、すでに押してある。

「……なんでですか」

 湊は絞りだすように言って、

「いやまあ、気になるだろ」

 井原は肩に力を入れることもなく、ただ本音で答える。

「なんで気にするんですか」

「なんでって……、逆に気にならないことあるか?」

「人がどうしてたって気にすることないじゃないですか」

 まあそれはそうだけど、と返しそうになる。

 実際、こんな状況でもなければ一切気にしてなかったんじゃないかと、自分でもわかるからだ。

 全国ニュースを見て、そこで自分と同い年の高校生の死亡が伝えられたとしても、大抵の場合、ふーん、へえー、以上の感想は浮かんでこない。同じ高校の人間だったとしても、それはそうだと思う。こんなに便利に嘘を吐く力があっても、たぶん知り合い程度の人間だったら、そういうこともあるよな、で済ませてしまう。時間を巻き戻してまで助けようとなんてしない。

 でも、それはもう過去の問題なのだ、とも。

 そういうことも、わかっている。

 これは巻き戻すかどうかの話じゃなくて、巻き戻した後の話なのだから。

「俺は気になるよ」

 端的に、井原は言った。

 乗り掛かった舟だよ、という言葉とどちらが適しているか悩んだ末に、こっちの言葉を使った。湊が何も言葉を返してこなかったので、そのまま続ける。

「まあ、なんつーか、その……。悩みとかあるなら話してみろって。あんま知らないやつになんでもかんでも話す気にはならないかもしんないけどさ。話したら楽になるってこともあるし」

 睨み合い。

 というには穏やかな視線の交錯。どのくらいの時間の長さだったかはわからない。井原はできる限り真摯な表情を心掛けていたし、一方で湊は考え込むような、目の前の人間が信頼に足るかどうかを測っているような、そんな目をしていた。

 やがて、

「……嘘を吐いて、」

 湊が言う。

「私の悩みが何なのかを知ることも、できますよ」

 問いかけとも挑発とも取れるような口調に、井原はこれもまたまっすぐに受け止めて、

「そうしてほしいって言うならやってもいいけど……、いやだろ。そんな勝手に心の中見られたりするのさ」

 値踏みするような目つき。さすがに居心地の悪いものを感じたが、しかしそれでも井原は視線を外さなかった。本音なのだ。一片も嘘を吐いていない。だから怯む必要はない。怯むことで、相手に不信感を与える必要もない。

「……罰なんです」

 やがて、湊が口を開いた。

 なんとか向こうが心を開いてくれたらしい、と安堵したのも束の間、

「罰?」

 聞き返すと、湊は目を逸らす。それから溜息でも吐くようにして、その視線を机の縁に滑らせる。

「七月十九日は、」

 頭の中でカレンダーを組み立てるまでもなく、その日が何の日だったかを井原は思い出せる。

 これから行った、大学の文化祭の日。

 湊の死亡が知らされる日。

「兄の命日なんです」

 高校生にもなると、自分の生きているフィールドとはまるで違う場所があり、同じような年ごろの相手でさえ、そういうまったく異なるところで生きてきた人間なのだと思い知る場面に、まあまあ出会ったりする。

 たとえばそれは、幼少期に海外で過ごしたことを思い出として語られるとき。

 たとえばそれは、中学で不登校だったと恥ずかし気に打ち明けられたとき。

 たとえばそれは、ごく自然に他の高校に通う生徒の知能を見下す言葉を聞いたとき。

 些細なことを言い連ねれば限りはないが、そしてたぶん湊の言葉も、聞いたのがこんな状況でさえなければ、その些細な言葉のひとつとして、些細な、生まれてきた環境の違いとして受け入れられたのだと思うが。

 でも今は、かなり大きなものを感じた。

 命日という言葉に、暗い匂いが染みついている。

 こういう言葉の使い方を、井原は初めて聞いた。死というものが自分の近くまで歩いてきているような、そんな気配を、初めて感じた。

「……うん」

 話の続きを促すためだけに打った相槌は、自分で想像していた以上に、重苦しく響いた。

「七月十九日には、毎年兄の死んだ場所に花を供えに行っているんです」

 どこだったろう、と井原は記憶を探る。未来の、ついさっきの記憶。海。細かい場所までは書いていなかったけれど、このへんで海といえばたぶんあそこだろう、と見当がつく。

「兄は七年前、溺れた私を助けに海に飛び込びました。溺れた方だけが助かって、助けに行った方が死んだんです」

 ふと平尾のことを思い出した。ぜんぶ外れてるじゃん。しかしそれを責めることができたかといえば、心の中でさえできなかった。自分にいたってはハズレの答えをたったひとつでも想像することすらできなかったのだ。それにこんな理由、予想できたらエスパーだ、とさえ思う。

「その日の私が何を考えて、どういう経緯で死んだのかは知りませんが、でも」

 井原は想像した。たぶんこのあと、こんな感じのことを言うんだろうな、と。

 そして湊は、そう言う感じのことを言った。

「……たぶん私は、そういう風に死ぬのが相応しいんじゃないかと思うんです」

 思いやりにも色々な種類がある。

 とにかく優しさだとか真心だとか、そういうプラスの感情をぶつけて、もっと輝かしいものを目指そうよ、と伝えるやり方。たぶんこれがいちばん一般的で、類型的で、誰でも簡単にできることなのだと思う。

 しかし、そういうのだけじゃいけないだろうということを、現代の若者として発達した倫理観を備えた井原は思い、

「……よし、わかった」

 けれども本当の正解なんて何もわからないまま、

「俺も一緒に行くよ、それ」

 成り行き任せという言葉ばかりは知っていた。



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