5-①
「カナヅチなの?」
七月十日。
三回目。
半ギレ。
昼を待たずして一年生の教室に飛び込んで湊を確保した井原は頭に角を生やさんばかりにぷんぷん怒っていて、まだ事情を呑み込めていないらしい湊は、さすがに虚を突かれたような顔をしている。
「ちょっと来い」
と言えば、どこへ、とも聞かずに湊はついてきた。図書準備室まで行く必要もないだろう、と階段を一つ下りた先、校舎裏へと続く渡り廊下の近くに立って、
「このへんに人は来ない」
力業で場所を確保してしまう。目を丸くしたのは湊で、
「先輩、それ」
「とりあえず記憶読んでくれ。いつもやってるんだろ?」
一瞬質問したそうなそぶりを見せたが、結局大人しく、
「私は先輩の記憶を知っている」
と言って、それからひどく驚いた顔で目を大きく見開き、
ぽろ、と。
「へ、」
井原の反応速度は上々だった。ただ一言、事態が本格する前に口にできただけでも。
ぼろぼろぼろ、と。
立て続けに湊の目から涙がこぼれ落ち始める。両頬を伝って流れるなんて生やさしいものでは断じてなかった。カラービーズよりも大きな涙の粒が瞳に浮き上がっては、勢いよく重力に沿って下の世界に落ちていく。その間湊はひたすら井原の顔に焦点を合わせている。
率直に言ってしまえば、怖かった。
こういう泣き方をしている人を、井原は見たことがない。何かこれは感情とかそういうのとは別の次元にある泣き方に見えた。強いて言うなら小学生の頃に理科の授業でやった膝蓋腱反射の実験で、自分の足が高速で移動する様を眺めていたときの光景に似ている。
しかし人間は一つの感情を抱えているとき、別種の感情を持ちそれを行動に移すこともできる生き物なので、
「泣くなよ……。次は気を付けろよ。死ぬなよ、な?」
ちょっと迷ってから、軽く肩を叩く。ワイシャツ越しにでも伝わってきた肩の骨の感触は、予想していたよりもずっと細くて、思わず手が強張った。
これから自分が死ぬことを知らされた人間は、どんな気持ちになるのだろう。
それどころか、すでに自分が二度死んでいることを知らされた人間は。
どちらの答えも、井原は持ち合わせていなかった。どちらも体験したことがないし、それに湊は普通の人間でもない。何もかも塗り替えられるような嘘を日常的に使っているのだ。自分とはかけ離れた感性を持っているだろうことは想像に難くない。というか、事実そうなんだろうとすら思う。
でも、泣いているということは、とりあえず悲しい気持ちで会はあるんだろう。一回目のときはその素振りをまるで見せなかったけれど、本当のところ、影で泣きに泣いてから、それを終えて何でもなかったように取り繕ってから、それからようやく話しかけてきたのかもしれないと、井原は思った。
何度か慰めの言葉を繰り返したが、湊は反応を示さなかった。ただ、井原の顔を見ながら、ぼろぼろと涙をこぼし続けた。
それならそれでもいいか、と井原はしばらく、ただその場に立ち続けた。
「……あの、」
ようやく向こうが口を開いたのは、チャイムが二回鳴ったころで、
「ん」
「いいですよ、巻き戻さなくても」
か細い声だった。たぶん、教室の中でこの言葉を聞いたとしたら、他の生徒が一人でも喋ているだけで、それは聞き取れなかった。たぶん、外の駐輪場でこの言葉を聞いたとしたら、近くで蝉の一匹が鳴いているだけで、それは聞き取れなかった。
どちらでもなかったから、ちゃんと聞こえた。
「は?」
「死んでも別に、巻き戻さなくていいですよ」
沈黙すると、ずっと遠い音が聞こえてくる。
どこかの電信柱に止まった蝉の鳴く声だとか、職員室から漏れてくる談笑の声だとか、すぐ上の階で始まった授業の声だとか。
かつての未来で、時間は巻き戻る、と叫んだ自分の声だとか。
「あのさ、」
自分の声も、負けないくらいか細くなった。
「間違ってたら悪いんだけど、」
恐る恐る、答えなんて聞きたくないような質問を、
「死にたいの?」
結局その日、はい、とも、いいえ、とも答えは返ってこなかった。