4-③
「どっちから話します?」
図書準備室。
そう問いかけてきた時点で会話の主導権を湊の側が握っているのは明白だったが、勢いだけは井原の方があった。
何しろ、これまでの人生でも類を見ない大混乱中である。仮に匹敵する経験があったとすれば、もはや記憶から削除されてしまった生まれて初めて被弾したいないいないばあくらいだろう。
だから、
「俺からでいいか?」
どうしても先手が取りたくて、
「どうぞ」
なのに、
「すみませんでした」
夏休みの三分の一近くをストーキングに使わせるほどの申し訳なさというのは、その混乱に打ち勝った。
「……はい?」
湊は目を丸くして、
「湊さんの飲みかけの飲み物をこの部屋に入り込んで勝手に飲みました」
もう一度、すみませんでした、と。
机に擦りつくような低さまで頭を下げて、井原は謝った。その顔は真剣そのものだった。深々と上体を折り曲げたせいで誰にも見えなくなってはいたが。
「…………そこですか?」
たっぷり時間をかけて、まず湊はそう言った。
「ああ。もうやった直後からとにかく謝らないとと思って後悔してたんだ。何の言い訳にもならないけど」
「確かに何の言い訳にもなってないですけど……」
そこですか、ともう一度湊は言った。そこだな、と井原は答えようとして、なんかその答え方は横柄じゃないか、と思ってやめた。代わりに頭を下げ続けた。
「まあ、あの。別にいいですそれは」
「…………」
「いいですって。顔は上げてください。先輩のせいだけとも限りませんから」
「え?」
上げてから、井原は自分を恥じた。露骨に都合のいい言葉に反応してしまった。しかしどうせ恥なら皿についたソースを食パンで掬いとるまで、という覚悟で、
「それはどういう……?」
「大体先輩のやったこと……、というか記憶はこっちで把握してます」
べ、と湊は舌を出した。真っ赤な舌。一瞬、唐突に馬鹿にされたのかと思ったが、そんなわけがないだろ、とまともな脳がかろうじて判断する。
「嘘を吐きました。そういう風に」
ああ、と頷く。効率的だ。確かに。
そもそも情報を共有するに当たってこんな風に喋る必要すらもなかったのだ。ただ一言、「あの人の記憶を自分は知っている」と嘘を吐けば、それだけで脳にダウンロードされる。
自分もやった方がいいのか、と迷い、いや無理だろどう考えてもそんなことは実行可能かどうかの問題ではなく倫理的不能だ、とすぐに自分の中でケリをつけて、
「ってことは、もう事情はわかってるってことか」
「勝手なことしてすみません」
「や、それは全然別に。気にしなくていいけど。……ただその、俺のせいだけとは限らないっていうのは、」
「少し長くしますけど、いいですか?」
長くなる、じゃなくて、長くする。
意識の違いだな、と思いつつ井原は頷く。
「まず最初に断っておきますが、私に未来の記憶はありません」
「……?」
「つまり、先輩が巻き戻した分の『私自身の』夏の記憶は一切ありません」
理解するのに少し時間をかけて、
「じゃあ、あれか。完全に俺が知ってるところと同じ部分しか知らないってことか」
それほどおかしな話でもないのかな、と井原は思う。
なんとなく目の前のこの女の子は全知全能の超超能力者みたいなイメージでいたけれど、普通タイムスリップした場合、その時間を超えた張本人以外はそのことを自覚できないものだ。少なくともこれまで見てきたそいう映画はぜんぶそうだった気がする。ということは、向こうは自分の記憶を読み取って、その限りから色々と推測してるだけ、というわけだ。
それにしてはあまりにも落ち着きすぎていて怖いな、と井原は思う。超超能力者にもなると精神的動揺も人より少なくなるものなのだろうか。
「これからのことはそうです。……順を追って、説明しますね」
湊は眼鏡のフレームに指先を触れて、
「私が先輩と初めて会ったのは、四月の中旬のことです」
「は?」
呆気に取られて、記憶を探って、いや、でもやっぱり出てこない。
「そんなこと……、」
「順々に説明するので、少し待ってもらっていいですか」
「はい」
大人しく、
「当時この高校には文芸部はありませんでした」
また混乱する。文芸部がなかった?
自分が入学したときにはあったはずだ。いきなり部活ができたりなんてしたら相当目立つ。しかし、その感覚を裏切るように、同級生にも上級生にも文芸部に所属してる知り合いが思い当たらない。一年のときに見たはずの部活紹介で文芸部が何をしていたのかも思い出せない。
「運動部に入るつもりはありませんでしたし、かといって文化部も吹奏楽部やら美術部やら真面目にやってるところばかりでした。すると必然、ボランティア部に入ることになるわけです。先輩と同じように」
そんなわけないだろ、と言おうとして、黙る。
さすがに新入部員の顔くらいはたとえ月に二回しか活動しない部活であっても覚えているはずだ。しかし、湊の顔に見覚えはまったくない。事実と湊の言い分が食い違っている。
ということは、おかしな力が働いたということだ。
「結局奉仕活動なんてめんどくさいですから、五月には勝手に文芸部があったことにして、勝手に入って、ボランティア部にいたことは記録からも記憶からもさっぱり消え去ってもらったんですけど」
とんでもない女だ。
さらっとなんでもないことのように言っているが、やっていることはほとんど漫画の悪役そのものだ。しかも過去の自分の痕跡を消すなんてこと、だいぶ異常なカリスマを持ってるタイプのやつしかやらない。
大人しそうな顔してとんでもないやつだ。というか知らない間に自分の記憶もいじくられてると思うとさらにぞっと、
「……あ、湊のせいかもって、そういうことか」
「はい。先輩がここで飲み物を口にしたのは未来の話ですから。もしかすると、理由には皆目見当がつきませんが、私が先輩の精神を操作して、自分から飲むように仕向けたのかもしれません。そして私は先輩の記憶を通してしか未来のことを知ることができない以上、自分がそうしたのかどうかすらわかりません」
真相は藪の中です、と湊は肩を竦めた。
真相は藪の中です、じゃないんだよ、と井原は思った。
「……それ、未来の記憶を嘘吐いて手に入れればわかんないか?」
「別にやってもいいですが……、」
そこまで言って湊は言葉を切って、
「込み入った話になりますけど」
「まあ、ちょっとくらいなら」
「嘘を吐いて何か遠くにあったり、そもそも存在しなかったりするものを持っていることにする場合、自分の手に入るのは『自分が想像した形で存在する物』です。たとえば……、先輩、コーヒーソーダって飲んだことありますか?」
「は?」
話の展開というより、いきなり出てきた珍妙な名詞に対して驚く。コーヒーソーダ。なんだその名前は。
「実在する飲料なんですが……。ここにコーヒーソーダがある」
言うと、当然のように湊の手元に缶ボトルが現れる。湊はその蓋をパキパキと開けながら、
「先輩もちょっとやってみてください」
「……ここにコーヒーソーダがある」
湊の手からぷしゅ、と音がすると同時に、井原の手にも現れる。湊は手のひらで促して、
「お飲みください」
「…………」
正直こんな得体の知れない飲み物を口にしたくはない。
が、自分で作り出したものなのだ。命を落とすことはあるまい、と井原は覚悟を決め、蓋を開け、南無三を唱えてごくり、と、
「……うん。なんか、そんなでもないな」
薄めのコーヒーゼリーみたいな味がした。それほど炭酸も強くない。肩透かし、というか肩の力が抜けて、
「ではこちらもどうぞ」
と湊が差し出してきた向こうのも、特に疑うこともなくごくりと、
「おぶぅあっ!」
「マズいですよね、それ」
返答する余裕もない。ごっふぇごっふぇと咳き込みながら、目に涙を浮かべながら、しかし味の分析を行う。なぜそんなことをするのかといえば、おそらく太古の昔よりヒト種が自然界を生き抜くべくして備えてきた、食事物が有毒であるかどうかを咄嗟に判定しようとする機能が働いていた。
強烈な酸味とえげつない苦みだった。コーヒーカップの底に沈殿した滓をオランウータンが三日三晩握り締めた果てに精製された液体を瓶詰にし、そこに硫黄混じりの温泉ガスを注入したようなゲロマズ飲料がここにあった。
「おまっ、ぶっ、これっ、」
「私はコーヒーソーダ、あまりにも嫌いな味だったので人生で一口しか飲んだことがないんです。ただ他に好き嫌いがないので、記憶が強烈で、勝手に膨らみに膨らんでそういう味でしか想像できないんですよ」
話は聞いていたがそれどころじゃなかった。どれだけ喉を動かしても口の中に異常な味が残留している。たった一滴でもワインをヘドロに変えるような液体だ。すでに飲み下した液体分すら胃壁を溶かしているような感覚があり、
「井原先輩の中からコーヒーソーダは消えました」
「あ、」
「ついでにこれも消えます」
言って、湊はコーヒーソーダの缶を消し、井原の命も救った。その手があったな、と井原は感心するのと同時、大袈裟に悶えていたのが恥ずかしくなる。
「ということで、同じ嘘を吐いても想像力によって結果が異なる場合があるということです。さっきのコーヒーソーダみたいに、いま目の前に現物がなく、かつイメージが特定できていないもの、特に未来の記憶のような現時点でこの世に存在しないものを得ようとしても、おそらく私が想像するような形で記憶が作られる以上のことは起きません」
「よくわかったけど、もっと他のやり方なかったか?」
「不器用なもので」
しれっと湊は言う。こいつさてはふてぶてしいな、ということに井原は薄々勘づきつつある。
「ということで、気にしないでください。どちらが悪いかなんてわからないんですから」
ああ、と井原は頷きかけた。
大体のところの湊の言い分はわかった。湊が記憶を操ったかもしれない。それとも単に自分がそういう気を起こしただけなのかもしれない。しかし湊は未来の記憶を井原を通してしか得られないため、結局のところどうだったのかなんてことはわかりっこない。
いや待て。
「あのさ、湊。そもそもなんで俺の記憶読んだの?」
順番がおかしくないか、と気付く。
ついさっきのこと。湊の第一声が『先輩?』。ここまではいい。自分の記憶にはないが、ボランティア部時代に面識があったのだろう。だからここまではいい。けれど、
「『おかげさまで』って言ったとき、もう完全にわかってたよな?」
第二声でわかってるのはおかしくないか。
特に何も話していないのだ。この時点では。未来から来たとか、そんなことは。それなのにこの時点で湊は井原の記憶を読み込んで、質問の意図をちゃんと読んでいる。そしてこのとき特に『先輩の記憶を私は知っている』だなんて呪文を湊は口にしていなかった。ということは、今回の接触前から自分の記憶を読んでいたということで、
「先輩の姿を見つけたらとりあえず心を読んでから近寄るようにしてるんです」
絶句した。
「…………は?」
「先輩って何かおかしいんですよね。普通の人は私が嘘を吐いたところでそれが嘘だなんて認識できないはずなんですよ。間接的にだって」
初対面のとき、と湊は思い出すように、
「座ってゴミ拾いをサボってたら井原先輩が近づいてきたんですよね。で、『ちょっとくらいはやるポーズ見せとけ』って。で、それに『やってます』って答えたのに、『開き直るなよ』って笑いながら」
じっと湊は井原を見て、
「普通の人はそれで騙されるんですけど、なんなんですか先輩」
「こっちの台詞だよ。なんなんだお前は」
確かに、と思わないでもなかった。井原は思い返す。
確かに、自分が嘘を吐いたとき、目の前にいた平尾ですらその嘘のことを認識できずにいた。一方で自分は湊が嘘を吐くのを横から見ていてすぐにそうと理解できた。こんな真っ赤な舌になる前からだ。ここで整合性を取るには、自分の方に何か特殊なところがありそうに見える。
「そういうわけで、先輩のことは常に警戒してるんです。たぶん天敵なんだろうなと思って」
天敵。
人間相手に初めてそんな言葉を使われた。
「……記憶って、人のを覗くのは問題ないのか」
「覗くだなんて人聞きの悪い」
「盗み見るときは、」
「目の前に現物がある状態なので。意外に形のあるものとないものとで難易度に違いはありません」
「……あとさ、さっき『とりあえず心を読んでから近寄るようにしてるんです』って言わなかったか? なんかそれ、今回が初めてじゃないような」
「…………」
湊はにっこり笑って、
「いいじゃないですか、覚えてないことはそれで」
漫画の悪役だ、こいつは。
井原は思った。しかもだいぶ邪悪な部類に入るやつ。キャラクター紹介に『手段を選ばない残忍な性格』とか書かれてるようなやつ。
聞きたいことはまだまだあった。
そもそも湊が俺を操作していちごオレを飲ませたのかもって、何か心当たりがあるのか。
黙秘します。
この舌、落ち着かないんだけど元に戻せないのか。
少なくとも私は自分の舌を元に戻すことはできませんでしたね。
嘘を使っても?
右手で右手を切り落とそうとするようなものです。
普段からこんなことしまくってるのか。
こんなことって?
人の記憶を操作したりだよ。
良識の範囲内で。
良識、あるのか。
ありますが。
というかこんなに便利に嘘を吐いてるのになんで事故で死んだんだ。
溺れて死んだんじゃないですか。
……?
水の中だと言葉は使えないので。
あ、なるほど。
今の知識をもとに私を倒そうとしてくるのはやめてくださいね。
俺をなんだと思ってんだ?
いや、なんか……、怖いんですよね。
こっちの台詞だけど。
普通こんなに便利な力を手に入れてそんな禁欲的に生きますか?
……あっ、お前丸ごと全部記憶取ったのか。
何でも手に入れ放題ですよ。金も地位も名誉も女も男も。
いや虚しいだけだろそんなの……。
そうですか?
「そうだよ」
言うと、そうですか、と湊が答えて、会話が途切れた。十秒ほど経っても、どちらからも新しい話題を切り出すことはなく、
「それじゃ、」
井原は立ち上がり、
「なんか色々あったけど……、特にできることも、やることもないみたいだし」
湊が特にそれに対して何も反論してこないのを確認して、
「気を付けて過ごせよ、夏休み」
それだけは、とりあえず言っておく。
はい、と湊は頷いて、井原は一週間後、大学の文化祭から帰宅する電車の中で湊の死亡事故の記事を見つける。