1-②
止められた。
「お前何組だ」
「いや、あの……、勘弁してください……」
なんでこんなにあっさり見つかったんだ、というかどうして自分はこんなに堂々と駐輪場に姿を見せてしまったんだ、と後悔ばかりが降り積もる。
目の前には見覚えのない教師。
ジャージを着ている上に筋骨隆々だからまず間違いなく体育教師だろう。厳めしい顔で、今にも不良生徒の胸倉を掴み上げんとするような面構えで井原を睨みつけている。
駐輪場にはいつものとおりキャパオーバー気味に自転車が並び止まっていて、授業は終わっていないものだか他の生徒の姿はなくて、蝉だけはやかましいくらいに鳴き喚いているが、井原を助けてくれたりはしない。
陽射しがめちゃくちゃに強い分、駐輪場の屋根下は必要以上に影が濃くなっていて、体育教師の肌は浅黒いというよりもはや漆黒に近い。
早退か、と聞かれたときに頷けなかったのがいちばん悪い。井原がたった一秒口ごもっただけで体育教師は、目の前のこのガキの人生をどうやってめちゃくちゃにしてやろうかと義務感に駆られたような目つきになっている。
「学校サボってどこ行くんだ、ん?」
「いや、あの……」
そうじゃなくて。
ちゃんと早退で。
担任にも許可は貰ってて。
そういう風に言えればいいのに。
言えないから自分はテストで〇点を取るのかな、と井原は冷や汗びしゃびしゃで腹の調子も悪くしながらそういうことを思う。
だって、不安なのだ。
早退だと言って、担任にも許可はもらっていると言って、それでどうなる? この場は乗り切れるかもしれない。この場以降も乗り切れるかもしれない。でも休日はバーベキューと腕立て伏せを計二十五時間していますみたいなこの男がそれをこの場で確認し始めたら? この場で確認しなかったにしても、後になって裏を取ろうとしてきたら? バレるに決まっている。嘘なのだから。
そして嘘がバレた場合、嘘を吐かなかった場合よりもずっとずっと酷いことになると相場は決まっているのだ。
「違うんです」
でもやっぱり、それくらいのことは言ってもいいかもしれない。
井原にしては超弩級の勇気を出してそんな嘘を吐いてみると、体育教師の漆黒の眦がエジプト壁画のようにみるみる吊り上がってゆき、
「何が、」
「先輩、」
たった三文字で世界を震わせるような怒号の予兆を見せたその野太い声が、たった四文字の静かな声に遮られた。その声の元に体育教師の視線が動き、釣られて井原の視線も動く。
天使だと思った。
「もう出ないと間に合わないですよ」
女の子だった。縁のない眼鏡を掛けていて、髪の毛は首筋に浮いた汗が見える程度には短くて、体格はちょっと心配になるくらいに細っこい。体育教師は怪訝な目で、
「何?」
ドスの効いた低音を女の子は気にした風でもなく、ただ不思議そうにして、
「文芸部の課外活動ですけど」
と言った。
疑わし気な目つきを前に、今日は近くの市民センターで文芸展があり、自分とそこの先輩の二人はこれからそこに向かう途中である、当然顧問を通して授業を休む手続きは取ってある、と告げた。
ぎろりとした視線が向けられた。女の子はそれを平然と受け止めた。井原はあまり上手くそれを受け止められなかったが、とりあえず頷くことだけはできた。それでこの恐るべき鉄人は肩の力を抜いて、それならそうと早く言え、今日は陽射しが強いから熱中症には気を付けろ、とだけ言い残して。
去って行った。
井原は一命を取り留めた。
へなへなと足腰から力が抜けそうになる。しかし井原は力を抜かなかった。代わりにその女の子をじっと見た。
やっぱり、どう見ても知らない女の子だった。