4-①
目の前でひらひらと手のひらが揺れている。
「う、」
認識して、
「うおおっ!」
肉片だと思った。
そんなことはなかった。
手のひらの持ち主は平尾で、自分の前の席に座っていて、あっけに取られた表情で、その後ろには教員の飯岡が『嘘』と書かれたいかがわしい教科書を持っていて、同じようにあっけに取られた表情をしてこちらを見ている。
というか、教室にいる全員がそうだった。
どういうことなのかさっぱりわからなくて、理不尽な夢の中に放り込まれたときにとりあえずそうするように、井原はすみません、と謝る。飯岡も困惑した様子で、そのまま黒板に向き直る。平尾もこのまま話を続けることは得策ではないと思ったのか、前に向き直る。そのうち全員が向き直る。そのタイミングで携帯をいじって、
七月十日十一時五十四分。
机の上には、〇点のテストが置いてある。
戻ってきた。
*
こんな映画見たことあるよな、とかのんきなことを考えている場合じゃない。
井原はずんずん廊下を進む。休み時間、昼休み。平尾の「お前どした?」「テストヤバすぎて頭おかしくなった?」「いやまあ頭おかしくねえとその点数にはなんねえけど」という皮肉を通り越して直球の悪口になっていた言葉を全部見逃して、とにかく抜け出た。トイレには寄った。人目を気にせず鏡の前で舌を出した。真っ赤だった。
夢じゃない。
よな、たぶん。
「廊下の温度は二十一度」
よし、夢じゃない。
涼しくなった廊下を、もう汗もかく心配もないから早足で進んでいく。進んでいる途中でハッと我に返る。
どこに行く気だ?
というか、何をする気だ?
立ち止まる。
立ち止まっている場合じゃない、ということだけははっきりわかるので落ち着かなくなる。幼児みたいにその場で足踏みしそうになって、さすがに高校生にもなってそれはヤバいだろという理性が働いて、頭を思い切り掻くに止まる。あぁ、なんて廊下の真ん中で声を出せば、何事かと周囲の生徒たちが振り向き、それから何事もなかったように自分の日常に帰っていく。
ふたつの死。
が、頭を過り続けている。
目の前で電車に轢かれて四散しそうになっていたじいさんのこと。
その直前、ネットニュースに現れた湊のこと。
あとはその他諸々後悔とかも過っている。時間戻しちゃったよ。なんか色々大丈夫なのかよ。あの映画だとどうなってたんだっけ。ガキの頃に見たホラー番組とかだとこういうことやって色々ルール捻じ曲げた人間って大抵洒落にならないしっぺ返し食らってたよな。俺死ぬのかな。
湊はほっとくと死ぬ。
自分が死ぬかどうかはともかくとして、それだけは確かなことである。まずはそれを一番重要な情報として順位づけて、井原は自分の頭の中に渦巻いている混乱を力業で処理し終える。し終えたことにする。
やるべきことを決める。
そして向かう。
とりあえずは、一年二組の教室へ。
この間は湊がどこのクラスにいるのかわからなかったからもしも教室から当たろうとした場合ぜんぶ虱潰しにしなくてはいけなかったが、今回はあらかじめ未来で調べをつけてきているので、直行できる。これと似たような感覚をどこかで、と井原は考え、クリアしたゲームの二周目をやってるときだ、と気付く。
何もクリアはしていないのに。
湊は教室にいなかった。
対応してくれた下級生にさんきゅ、と言い残す。
だったら、たぶんあそこだろうと、そう思って。
図書準備室。