2-④
楽しくなかったと言えば嘘になるが、楽しかったと言っても嘘になる気がした。
大学の文化祭で何を見るのだという話である。見た目ばかり立派になっても、実を言ってしまえば中身はそれほど高校のそれと変わりない。多少手間と金はかかっているかもしれないが、結局のところ主役になっているのは客ではなく学生側であって、たこ焼き屋も焼きそば屋も牛串屋も大量に被りまくっていてホスピタリティというものがまるでない。
牛串屋の隣の隣は牛串屋で、間に挟まれた屋台も自動的に牛串屋になっているというような有様であって、構内を半周もすれば屋台に対して感じる真新しさは消えてしまう。屋内展示にはさすが持て余したモラトリアムをすべて注いだだけはある、と頷きたくなるような凝りに凝ったものも見られたが、いかんせん地味な部分もある。うら若き高校生が東京まで来て夏の休日を満喫するに足りるのかといえば、微妙な線ではある。
「いい人だったな、白波瀬先輩」
「うん」
楽しかったと言えば嘘になるような気もしたが、楽しくなかったと言っても嘘になる。
井原は平尾と並んで、今日三杯目の焼きそばを啜りながら思う。別に、そこまで悪いものでもなかった。
これから通うかもしれない大学の雰囲気は非常に楽しそうに見えた。
最初の頃こそこんなにはしゃいだところに入って自分はやっていけるのだろうかという不安感が心を突いて出てきたが、奥の方のじめじめしたスペースに行くにつれて、何のことはない。どこまでもモラトリアムを満喫しているというか、モラトリアムの袋小路にハマって二度と抜けなくなってしまったような空気の学生たちが大量にいた。特にペットボトルの飲み物を割高で売って店番は複数人で携帯ゲームをやっているような区画は本当に人間というものを馬鹿にしているようにしか思えなかったが、それでもそこそこ儲かっている様子で、この程度でもいいのか、この程度でも大学を楽しめてしまうのか、という感動が井原に訪れた。
「でもお前なんも喋んねーんだもん。ビビったわ、何あれ」
「うん」
「うんじゃなくて」
「いやあのさ……、」
無理だったよね。
たぶんすごく気を遣ってくれたのだろうということは井原もよくわかっている。ついさっき用事があると言って去って行った白波瀬はここがいいよあそこ面白いらしいよ、と短い時間で文化祭を楽しめるよう、たくさんの場所を案内してくれた。パンフレットなんてあの喫茶店で広げてからずっと細く折りたたんでポケットに突っこんだままで、このままいけば家の洗濯機にパンツと一緒に放り込まれるのは間違いないというくらい存在感をなくしている。
白波瀬はずっと笑顔だった。井原はずっと無言だった。間に入った平尾はあせあせしながら白波瀬の問いに答え、たまに井原に話題を振ったりしていた。井原は思う。こいつは一生の友達にしよう。将来的に二百万くらいまでなら連帯保証人になってもいい。
「お前マジで大丈夫? 最近なんかあった?」
ちょっと迷ってから、
「うん、まあ……」
「なんか重いやつ?」
イエスとノーで答えを迷う。ものすごく重大なことで悩んでいるような気もするし、そもそも重さなんて実感できないくらいめちゃくちゃなことで悩んでいるような気もする。
「や、そんなでもないけど」
「嘘つけよ」
嘘。という言葉に敏感になってしまっている。思わず身構えてしまったのを、平尾はどう受け取ったのか、
「なんかさ……、いや話しづらいってだけだったら別にいーんだけど。なんか困ってたら言えよ」
一瞬感動しかけて、
「最近お前うじうじしてて絡みにくいし」
感動する前でよかった、とちょっと笑った。
そして、打ち明けるならこいつがいいと、そう思った。
「あのさ、俺、」
きーん、と。
聞き慣れた音だった。聞き慣れた金属音。朝の集会とか、そういうところで聞くような音。マイクのハウリング音。音源なんて一箇所しか思い当たらない。スピーカー、特設ステージ、目の前の広場、ついさっきまで少し世代のずれたロックバンドのコピーが演奏していた場所。
隣を見ると、平尾も井原と同じように耳を押さえている。目が合ってちょっと笑い合う。
「音やべえな」
ほんとにな、と返そうとして、またハウリング音に遮られる。随分手こずっているらしい。スピーカーは目の前に突っ立っていたら振動で腹筋が六つに割れそうなほど巨大で、そこから発せられる音も当然巨大である。耳をつんざくというより脳を引き裂くような高音が、もう二、三度垂れ流された。
ようやくその音がなくなったあたりで、
「わり。そんで?」
なんかタイミングが悪いよなあと思いつつ、
「この間さ、」
「大変お待たせいたしました! それではここから広場のメインイベント!」
もう今日はやめようと思った。
打ち明けるのはやめろと神の意志とかが言っているとしか思えない。タイミングが悪すぎる。ステージ上でマイクを握っている度の入ってなさそうなでかい眼鏡の男の声量も遠慮ないが、マイクはマイクで加減というものを知らない。普通に喋っているだけでさっきまでのバンドの大サビくらいうるさい。隣にいる人間とまったく話せないくらいにうるさいかといえばそこまでではないが、一度も聞き返したりせずに会話の終わりまで持っていけるかと言ったら、一転特化型の聖徳太子でもない限り絶対無理だ。
「こん、」
「ミスコン・ミスタコンの時間です!」
今度話すわ、という言葉すらも遮られた。大きくハウリングするマイク。困ったように笑う平尾。身振り手振りで話の延期を告げる井原。ステージに上がってきた白波瀬。
「え」
二度見した。うお、と遅れて平尾が驚く声が聞こえてくる。
ステージに白波瀬が立っている。さっきまでの安っぽいメイド服は着ていないが、他の登壇者と同じような白いワンピースを着ているが、それでも見間違いではないと思う。そこには白波瀬が立っている。
「すげえな、お前の先輩」
平尾は素直に感心したように言った。
それどころではなかった。
動揺していた。
まったくもって正しい心の動きではないと自分で理解してはいる。自分で理解してはいるが、理解していても抑えられないのが感情というもので、井原はめちゃくちゃに寂しい気持ちになっていた。
自分の知る白波瀬というのはこうだ。優しくて、美人で、スタイルがよくて、何でもできそうなのに特にそこまでのやる気はない。ボランティアのごみ拾いを散歩の時間としか思っていない。野良猫がいるとそのままふらふら追いかけていってしまうし、道端にツツジが咲いていればとりあえず吸う。廊下で顔を合わせるたびに「勉強したくないよー!」とにこにこ笑うし、高校のときの文化祭では「毎年思うけど意外と見るものないよねえ」なんて言って最終日の半日近くを体育館で上演される演劇やら合奏やらをぼんやり見ているだけで終わらせてしまった。校内でたまたま遭遇してそのまま捕まった井原はその隣、薄暗い体育館の中でパイプ椅子で腰を痛めながらずっと隣にいて、ずっとぼんやりしていて、ずっとどきどきしていて、ずっと心地よくて、
人は大人になるのだ。
そんなことを、井原は思った。
時間が経つにつれて、こうなりたい自分からこうあるべき自分へと変わっていく。こうだった自分はいずれああなる自分へと変わっていく。
頭ではわかっていたのだ。白波瀬は自分と違ってステージの上に立つ人間だと。
あの日、観客席にふたりで座っていたのは、本当にたった一瞬の出来事であると。人生で二度は訪れないたった一回であったことを、ひょっとするとその時点ですら知っていたのだ。
ステージが遠い。
涙は出なかった。
ライトの下で笑いながら、肩を抱かれる白波瀬を見ながら、こんなことで泣くなんて馬鹿みたいだと思いながら、ぼんやりと夕焼け。もう日は沈みかけている。隣を見ると平尾がステージを見ながら笑っている。横顔の皮膚一枚に、真っ赤な夕陽が透けている。
「平尾、」
「おん?」
「今日、ありがとな」
一瞬、平尾はきょとんと目を丸くして、それからふっと笑う。
「おう。次は俺の方に付き合えよ」
「何でも付き合うよ」
ありがとな、ともう一度言ったのは、ステージから響くマイクの音量にかき消されて、きっと誰にも届かなかった。ステージの上に立つ白波瀬と目が合った気がした。手を振るでも、笑いかけるでもなく、ただ何もなくその視線が外れた気がした。
「お前もさ、」
井原は平尾に言う。
「そのうちあっちに立つのかな」
「は?」
前置きのない言葉に平尾は一瞬止まって、それからピースサインを作って、
「そんなにイケメンか? 俺」
「いやふつー」
「ぶっとばすぞ」
そうしてふたりで笑い合った。
週明け、すべてを打ち明けた。