2-②
口にしたことがぜんぶ本当になってしまうという現象に対して、好奇心よりも先に恐怖が立つ。
十六年間付き合ってきた以上、今さらこんな性格は嫌だなんて言っても誰にも聞き入れてもらえないことは承知しているが、それでも自分自身にくらいは言ったっていいだろうと井原は思う。何だってそんなに思い切りがないんだ。
あの日図書準備室から保健室を経由して教室に帰還した井原を待っていたのは、平尾からのお前マジで大丈夫かという深刻な心配の言葉だった。
太陽がふたつあるというガリレオどころかガガーリンだって見たことのないだろう衝撃的な光景を目の当たりにした井原は依然衝撃に打ちのめされっぱなしで、とりあえず、ああ、と答えた。それからこうも付け加えた。めっちゃ元気。
めっちゃ元気になった。
次の世界史の授業で異常は露わになる。上の空でひたすら時計を見ていた井原は、当然のごとく担当の繁山に名前を呼ばれた。おうおう井原ずいぶん心ここにあらずって感じだなそんなに昼休みが待ち遠しいか先生も待ち遠しいぞこの年になってもこの時間には腹が減って減って叶わんなぜかといえばこうやって四十人に向かって立ちっぱなしで喋りつづけるのは見た目よりずっときつくて疲れるからなんだどうだ井原ここは先生を助けると思ってお前がちょっと皆に向かって喋ってはくれんかいやなに授業をこの先まで進めてくれとは言わんよただ俺がさっき言ったことをそのまま繰り返してくれるだけでいいからまさかそれだけ余裕の態度を取っておいてできないってこたあないよなあ、
余裕でできた。
それから昼休みが訪れるまでの十五分間、井原はそれまで繁山が唱えていたアヴィニョンだとかカスティーリャだとかの洋菓子みたいな呪文をそっくりそのままもう一言一句たがわずもう一度再生し続けた。
初めは繁山も他のクラスメイトたちも意外とこいつ聞いてんじゃんという雰囲気でひそひそと笑っていたのだが、暗唱時間が二分を超えたあたりでそれはどよめきに変わり、五分を超えると静謐なミサのような空気があたりを支配した。チャイムが鳴ってからもしばらく繁山は茫然として教卓に手を乗せたままでいて、腹がぐう、と鳴ったのを契機にへらっ、と引きつった笑いを残して教室を去って行った。
平尾が聞いた。お前あんな曲芸できたの。井原は答えた。まあ普通に。よって今でも井原はやろうと思えばそれを普通にできるし、一週間前の古文の授業でされた沙石集に関する豆知識をそっくりそのまま空で唱えることもできる。
めっちゃ元気になった夜、一睡もできなかった。
衝撃と興奮のためだと思っていたが、次の日の夜も眠れなかった上にまるで問題なく水泳の授業をこなせたあたりで異常を認識せざるを得なくなった。俺の今の体調は普通です、とベッドの上に正座しながら口にしたとき、自分はほとんど頭がおかしくなってしまったように思えたが、その一言で明らかに身体にみなぎっていた栄養ドリンク三十本分みたいなエネルギーはかき消えた。これからぐっすり眠ります、と唱えてみた次の瞬間には正座したまま朝を迎えていた。当然足は痺れて立てなくなっていて、セットし忘れた目覚まし時計は遅刻寸前の時刻を指していて、大慌てで家を出ても間に合わなかった。始業に間に合う最後の電車は井原がホームに降りたときにはちょうど走り出したところで、思わず井原はこう呟いてしまった。嘘だろ。
チビるかと思った。
そのくらい、逆走してくる電車と、逆回転し始める時計は衝撃的だった。わかりやすい動きが追加された分、ふたつある太陽よりも信じられない光景だった。
それがこの最新の一週間の前半にあった出来事で、後半も似たようなものだった。
湊には会っていない。学年が違えば会おうと思わない限り会うことはめったにないし、会おうと思わなかった。会わないことが自分の精神状態にポジティブな作用をもたらすと信じてはいたが、今になっても衝撃の消え去っていないことを思えば、それがどこまで正解なのか、現時点ではわからないし、おそらく未来のどの点から振り返って過去を見てみたとしてもわからないと思う。
だって、めちゃくちゃだから。
非常識だから。
ありえないから。
歩くとき、一歩踏み出すごとに心の中で夢であれ、と唱える日々を送っている。夢であることを願い続けて三十回。五十回。二百回。山手線に揺られてどんぶらこ。東京に対して持っていたイメージの割に車内は全然混雑していない。ふとその感想を隣にいる平尾と共有したくなったが、何かの拍子にこの電車が定員オーバーで停止するような羽目になったらと思うと怖くて何も言えなくてそのまま大学に着く。
電車から降りても相変わらず気温は高かったけれど相変わらず風も涼しいままで、大学の名前のついた駅はその名に恥じず正門まで徒歩一分の快適な旅を提供してくれた。
「すげえな」
と平尾が言うので、うん、すごいと井原も頷いた。しばらくあたりを観察してから、自分の言葉によって何が変わったわけでもないことに安堵する。
確かにすごい。そのへんのアスファルトに生卵でもぶつけたらちょっとした目玉焼きくらいは出来上がってしまいそうな照りつけの中で、いかにもエネルギーを持て余してそうなにーちゃんねーちゃんが焼きそばだのたこ焼きだのフランクフルトだの声を張り上げながらびっしょり汗をかいている。
入口でパンフレットを配布しているのが目に付いたのでとりあえずそれを二部確保して、ほらよと振り向いてみれば、すでに平尾は谷間を晒しに晒した茶髪の女複数人に囲まれてどこかへ連行されている。一瞬このまま見捨ててしまおうかと思ったが、そうもいかない。結局二人で法外な値段の牛串を買わされ、道端にぼんやり立ちながらもそもそ食う羽目になる。
「俺は……、馬鹿だ」
平尾は屋台で肉を焼いていたのが茶髪の細マッチョだったことにいたく憤っているらしく、恨みを晴らすように牛肉に噛みついた。井原が結構美味いな、と言うと、うん、と大人しく頷いたりもした。
串をべきべきに折って捨ててから、ふたりで案内マップを覗きこむ。
「よくできてんな」
遊園地のパンフレットみたいだった。ホチキスでコピー用紙を留めたみたいな荒い作りはしていない。「製作:文化祭実行委員会」の文字が高校と大学の間に聳え立つ壁のように思える。
「どっか行きたいとこある?」
「いやこっちの台詞だけど。お前の志望大だろ」
平尾がもっともなことを言うので、井原はちょっと困ってしまう。
確かに自分の志望大だ。こんなタイミングでさえなければもっと色々あっちへ行こうこっちへ行こうと希望を口にすることができただろう。しかし今はとにかくタイミングが悪い。そういうコンディションじゃない。全然集中できないまま案内図とにらめっこしていると、そこにぽつりと汗が落ちて、印刷が滲んだ。
「とりあえず中入ってみっか」
その一声で、主体性を完全に失った井原は平尾の後をついていく。ずいぶん変なところまで連れられてきた上に、無秩序に屋台が建てられているものだから一体どこに何があるんだかさっぱりわかりにくくなってはいたが、それでも何とか、大学のメインの建物の入り口らしきものを見つけて、そこの大学生と思しき人間が複数人出入りするのも見届けてどうやら間違いないらしいと確信してドアを開けて、そこで事件は起こった。
どちらが悪かったかはともかく、被害者は平尾の方で、加害者はメイド服の女だった。
うおっ、という声と、あっ、という声が同時に聞こえてきたので、おそらくタイミングが悪かったのだろう。平尾がドアを引いたとき、ちょうど両手にバケツを持ったメイドが肩を押し込もうとしていて、バランスは崩れて、接触自体はそんなになくて、ただそのバケツの中で鯉でも跳ねたみたいにばしゃん、と。
「うおーーーーっ!」
改めて平尾は叫んだ。何に使うためのバケツだったんだろう、と被害を免れた井原はのんきに考える。どう見てもそのバケツの中に入っているたのは普通の水ではなかった。平尾の白いシャツは青と緑のマーブル模様に染まっている。これからどこかのペイントにでも使うつもりだったのだろうか。それとも中で何かの装飾に使った残りを捨てに行く途中だったんだろうか。
どっちでもいいのだが、今はとにかくド派手になってしまったシャツを摘まんで現実と向き合おうとしている平尾と、その平尾にぺこぺこ謝るメイドの方が優先順位は高く、
「平尾、」
肩を叩いて、
「別に全然かかってないじゃん」
何度見ても異様な光景だと思う。
ついさっき白いシャツに染み込んだ液体が、今度は逆に浮き上がってくる。宇宙船の中で漂う飲料水みたいな形状。明らかに地球の重力下で見られる光景ではない。それがあるべき場所に帰っていくようにして、メイドの持っているバケツに戻っていく。
ちゃぷん、と。
「お? ……マジじゃん。無駄にビビったー」
特にそれに違和感を覚えるでもなさそうに、平尾はただただほっとしたように胸を撫で下ろす。これ結構したんだよ、という言葉を聞けば自分のやったこともまんざら悪いことでもないらしいと井原も安心できたが、それはそれとして何か重大なルール違反を犯しているような気持ちが自分の背中のあたりをひたひたと手のひらで触れてくる感覚もある。
いいのか、と自分が自分に問いかけている。いいのか、こんなことして。そのうち何か罰が当たるんじゃないか。小学生の頃に見てたホラー番組とか思い出してみろよ。便利すぎる力を便利だからなんて理由で調子に乗って使い続けたやつの末路なんてわかりきってるだろ?
ダメだと思うならやらなければいいのに。
事件が帳消しになったとき、ほっとするのは被害者だけではない。
「あ、あの。大丈夫でした?」
むしろ加害者の方こそ。
そのメイドの目が平尾のシャツを見た。平尾の口が大丈夫っすよ、という形に動き、喉もそれに合わせて適切な音を奏でた。メイドも胸を撫で下ろした。
そしてようやくメイドの目線が平尾の後ろに立つ井原にまで向いた。
「あ」
「あ」
そこでようやく井原も気付く。そのメイドが自分がこの大学を志望する理由であるということに。
白波瀬だった。