1-①
人間正直がいちばん、とは祖母が秘密の恋人を作って失踪する前に残していった言葉だったが、たった今、それ自体がまるっきりの嘘だったということが井原にはわかった。
「終わった……」
一枚のプリントをしっかり両手で握ったまま、井原は教室の床に膝から崩れ落ちる。
科目名、『嘘』。
点数、〇点。
蝉がミンミン鳴いていて、つまりは高校二年の一学期末くらいのこと。
*
文科省がアホなのだろう、というのが生徒間での共通見解だった。
インターネットで見られる意見もおおむねそれに沿っていて、他はせいぜい何にでも反対することで自分の社会的地位を確立しようとしている人間くらいからしか異論は出てこなかった。
でも、このまま進めるらしい。
ほとんどの大学で、入試の必須科目として『嘘』が追加されるらしい。
嘘だと思うなら試しに文科省のホームページを見てみるといい。そこにはこんな風に書いてある。
――グローバル化や人工知能技術の発展に伴う社会構造の急速な変化を受け、これからの国を担う人材に必要な能力はますます複雑化しています。そうした中で、
① コミュニケーション能力
② 論理的思考能力・判断力・説明力
③ 独創的な発想力
を総合的・一体的に育成・評価していくため、この国で伝統的に重宝されている「本音と建前」という文化に着目し、その効率的な運用方法を学習する「嘘」を必修科目として導入することとしました。
――これまでの知識偏重型の入試制度からの転換を図るとともに、各大学の個別試験において分野横断的な作問を可能とすることで、大学と受験者のマッチングをより適切な形に強化することを狙いとしています。
――特に、実際にビジネスシーンを想定した作問を行うことで、単なる学術機関としての枠を超えた、社会的人材(人財)育成の場としての大学の機能強化を図ることが可能になり、
クソ食らえだ。
「つってもさあ、しょうがないだろ? 決まっちゃったもんはさ」
「うっさい、平均点」
ぢゅー、と紙パックの底から絞り出すようにコーヒー牛乳を飲んでいる髪の長いのが平尾で、昼休みだというのに深刻な顔でテスト用紙を見つめたままひとつも食事なんてしていない方が井原。教室の空気に似合っているのはどちらかと言うまでもなく平尾の方で、井原の方は浮いているというか沈み込んでいる。
期末試験は終わったのだ。
だから、もう後は高二の夏休み、来年が受験ということを念頭に入れれば高校最後の遊び倒せる夏に向けて、みんなもう気もそぞろなのだ。
誰もテストの点なんて気にしていない。今年の春になってからいきなり追加されてきた訳のわからない科目だってなんだかんだそんなに難しくもなかったのだから、休みの間に海に行くか山に行くか映画に行くか彼女を作るか彼氏を作るか、そんな人生の中でも最も重要な話題と比べたら簡単に忘れ去れるような些事に過ぎない。
でも、井原にとっては違う。
〇点だったから。
高校二年生一学期末試験、『嘘』の科目で。
〇点だったから。ひとつも加点がなく、無数の減点だけがあったから。自由記述式小論文。赤字で書き込まれているのは「不自然」「つまらない」「論理の繋がり?」「どういう意図でこの嘘を吐いているのかよく考えてください」
大学に行きたいからだよ。
井原はテスト用紙を四つ折りにしてぴりぴりと破り始める。五ミリも進んだところで手を止めて、机の横に引っかけたリュックの口に突っ込んだ。化石になるまでもう見ることはあるまい。
机に突っ伏して、
「あー、死にたい」
「落ち込むなって」
「あのさ、平尾。俺がどんな気持ちで楽しい高校生活棒に振りながら塾通いしてたかわかるか?」
「下心。いて、」
うるさいよ、という気持ちを込めて井原は平尾の背中を叩いた。
「なんだよ、合ってるだろ」
合っている。
が、合っていれば何でも言っていいというものではない。
十六年も生きていれば好きな人の一人や二人や三人や四人や五人はできる。一人目は幼稚園の年中組の先生で、もう名前すら覚えていないが園の切れ目が縁の切れ目になった。二人目は小学四年のときに消しゴムを貸してくれたアスカちゃんで、犬と猫が嫌いだと聞いた瞬間なぜだかスッと恋心が引けた。三人目と四人目は中学に入ってからずっと顔が可愛いという理由で好きだった二人で、片方は中学の間に彼氏を作り、もう片方は高校を中退して年上の男と同棲していると風の噂で聞いた。
五人目。
井原の下心の正体はこれである。
いまどき馬鹿みたいな話だが、井原の通う高校には生徒は全員何かしらの部活に所属しなくてはならないという決まりがある。
明文規定ではないので学校側と戦い続ける勇気さえあれば攻撃的帰宅部という選択肢も取れなくはないのだが、勇気がないために井原は他のやる気のない生徒たちと同様、ボランティア部に入るという選択肢を取った。隔週一回、放課後、ゴミ拾い、サボりの代償は顧問によるストレス解消説教一時間。そんなどうしようもない環境下でも、恋愛適齢期の人類が複数人揃っていれば、恋愛感情は芽生える。
白波瀬という女子生徒がいた。
優しかった。
美人だった。
スタイルが良かった。
ということで好きになった。
井原はめくるめく青春ストーリーの展開を期待したが、結局今に至っても展開し切らないまま恋心だけを胸に秘めている。出会った当時、相手は三年生で、井原は一年生。展開に耐えうるだけの時間が用意されていなかったからだ。
「大学で待ってるよ」
と卒業式の日に白波瀬が言い残したのは冷静になって考えてみれば社交辞令以外の何物でもなかったのだが、社交辞令を真に受けるだけの純情が井原にはあり、社交辞令を真に受け続けたいと思うだけの愚かさも井原にはあった。
というわけで、二年生になってからの楽しい楽しい自由な高校生活を、入ってから何をするかもまったく決めていないような高偏差値大学受験のための塾通いに費やしてきたのである。
だからこれは、あんまりな話なのだ。
「死のっかな……」
「気にしすぎだろ」
笑う平尾を井原はじろりと睨みつける。
笑いごとではない。一大事なのだ。ただでさえ暗記科目と比べて国語や英語の点数が低いために夏休みも勉強浸けになる予定でいたというのに、ここに来てこんな壊滅的な教科が増えてきては手も足も出なくなってしまう。D判定なのだ。ただでさえ。全国模試の結果が。
「平尾んとこの塾、『嘘』講座とかやってる?」
「知らね。お前んとこはやってないの」
「うん」
んじゃやってねえんじゃねえの、と平尾が言う。だよなあ、と言って井原は頭を抱える。
学習塾すらさっぱりわからないらしいのだ。「嘘」の科目で一体何が出題されるのか、どんな採点方法が取られるのか。たぶん小論文みたいな扱いになるんじゃないかと語る講師もいれば、いや現代文の延長だ国語の授業をもっと取って我が塾に授業料を払いまくろうという講師もいるし、インターネットではどうせ裏口入学するボンボンに下駄を履かせるために新設された科目だろうからまともに採点すらされないやっても無駄お前は落ちる浪人する俺の仲間になる一緒に森に帰ろうという根拠のない噂が飛び交っている。
打つ手なしだ。
「でもやんなきゃやばいよなあ」
「まあ、〇点じゃな」
平尾は可哀想な目で井原を見る。平尾は〇点という漫画の中に出てくる勉強ができない小学生が取るような点数が書かれた回答用紙を見ても井原を笑わなかった。前に五百円玉を排水溝に落としたときに指差して笑ってきたようなやつだから、笑わなかったのではなく笑えなかったのだろうと思う。
「平尾これどうやって解いた?」
「どうって、普通に」
「普通にってどうやってだよ」
「いや普通にだよ。テキトー。なんで平均点取れたのかもわかんねーし。みんなそうじゃね? なんか適当なこと適当に書いてそんで終わりだよ」
じゃあ自分に足りないのは適当にやる才能なのか。そんなしょうもない才能が欠けていただけでこれまでの努力を丸ごと引っ繰り返されてしまうのか。
「……帰る」
「は?」
「家帰るわ」
もう今日はダメだ。そう言って井原は立ち上がった。
机の中身をリュックに移した。リュックの口を閉めた。背負った。
平尾はここに来て笑った。
「マジ?」
「マジ」
教室中の視線が自分に集まっているのがよくわかった。
田舎にありがちな真面目な進学校だ。文武両道とか言ってやたら部活に力を入れてる割にへなちょこな大会成績しか残せていないような高校だ。塾通いなんかする必要はなく学校の授業で十分受かると言いながら、トップ層の自学でどうにかなるような人間を除いて現役で大学合格するのは大抵駅周りの塾に通ってるようなやつらばかりというような嘘つき学校だ。
だから、こんな風にどう見たって心身ともに健康そうなやつが一日の途中で早退するなんていうことは認められない。そんな空気が充満している。
けれど、井原は胸を張った。
確かに自分は風邪なんか引いちゃいない。腹も痛くなってないし、親戚のじーさんばーさんも死んでいない。それがどうした。帰りたいから帰るのだ。テストで〇点を取ったことがショックだったから帰るのだ。何か悪いか。何か文句あるか。止められるものなら止めてみろ。
『嘘』の科目で〇点を取った人間らしい正直な態度で、胸を張って、肩で風を切って、教室を出てやったのだ。