わからぬ者、わかろうとする者
この世はわからないことだらけだ。
そんな取留めのないことを考えながら彼は窓の外を眺めていた。
リズミカルな振動が全身に伝わってくるのが、こそばゆい感じがして変に身悶えしてしまう。
そんな彼の気持ちもお構いなしに車窓の風景は乱雑と立ち並ぶビル郡の隙間を縫って走行していく。
彼は小さなため息をついた。
その理由は今日五度目になる環状線からの風景にではなく、なぜ自分がこうして『わからない』ことについて考えているのかが『わからない』からである。
物心ついたときから、わからないということは日常茶飯事であった。
生まれて十七年でいろいろなことを経験してきたが、その経験が逆にわからないことを増やしているようでいつも怠惰な気分で彼は日常を過ごしてきた。
『家族』がわからず、『友人』がわからず、『教師』がわからない。
確かに彼はそれらを『知識』としては認識していた。
だからこそ今まで生きてこられた。だがそれだけだ。
もっと根本的なもの。それがわからない。
そもそも『知識』とはなんだろうか。
知られている内容。認識によって得られる成果。それらが身に付くことなのか。
では、どうすれば身に付いたと実感できるのか。
テストや他人に立証することで身に付いたと言えるのか。
それはただの自己満足にしか過ぎず本当はなにも身に付いていないのではないのか。
第一に『身に付く』という表現自体が間違っているではないのか。
思考を繰り広げれば繰り広げるほどにわからないことは増えていき、まるで自分が広大な砂漠で一人取り残されているような異様な錯覚に襲われる。
だから彼は思考の無限連鎖が引き起こす前にいつもここへ来て、車窓の光景を眺めるという作業にただ没頭するのである。
だが、その行為自体も、
「――わからない」
ことではあるのだが。
「何がわからないの?」
自分の独り言に返事が返ってきたことに彼は初め呆然としていた。
それから数秒して呆然から立ち直ると声のした方へ首だけ動かしてみる。
いつからそこにいたのだろうか。
自分の隣にちょこんと座っている幼い少女の顔が彼の眼に映った。
「ねえ、何がわからないの?」
少女のふっくらとした唇が先ほどと同じ問いを発しってくる。
「君は……だれ?」
問いを問いで返すのは失礼な気もするが彼にはそう返さずにはいられなかった。
少女が自分に質問をしてくる意味、少女と自分しかいない車内で隣に座っている理由がわからなかった。
「そういうあなたのお名前は?」
問いを問いで返すのにさらに問いを重ねてくる少女に彼は多少狼狽した。
何故そこまでして質問するのか、名前を名乗るべきであるのか、フルネームでか、それともわかりやすく愛称を述べるべきか。
「……無知」
散々迷った末にそれだけが言えた。
「ずいぶん変わったお名前ね」
「本名じゃない。学校でのあだ名だよ。なに考えているかわからない、もしかしたらなにも考えてないかもしれない。……だから無知」
「ふーん」
少女は面白そうに、かと思えば面白くもなさそうな表情をする。
「それで君は?」
「わたし? わたしには名前なんかないよ」
「………」
どう答えればいいのだろうか。
この現代において名前のない人間なんているのだろうか。
いや、もしかすれば世界に数人くらいるかもしれない。
だがそんなことが先進国である日本で起こりうるのか。実は自分はからかわれているだけなのだろうか。
無知は必死になって考えたが答えは出てこなかった。
「うーん。そうね、名前がないのに、名前を呼ぼうとするなら………名無っていうのはどうかしら?」
「…………別に」
「そう、じゃあ決まりね」
少女――――名無は幼くあどけない顔をでにこやかに笑った。
◆
「つまりさ、ソクラテスが云う『無知の知』っていうのは、自分が何も知らないことを理解して、そこを出発点にして理解を深めていこうってことなんだ。それはなぜかっていうと世の中には自分が知らないのに、さも知っている風に話す人がいっぱいいるだろ? そんな人間にはならないために、ソクラテスは自分の最初は無知であろうとしたんだって。
でも、おかしいと思わないか? 自分が何も知らないソクラテスは一体どうやって知識を得ようとしだろうな。世の中には自分が無知であることを理解していない奴はいっぱいいるだろうに、どうやってその中から本当の知識を身に付けていて、ソクラテス自身に知識を与えてくれる人間を探すだろうか? 自分は何も知らないのに。たとえ無知という出発点があったとしても、知という終着点があるなんて保証はないんだよ。………僕の言ってる事わかる、名無?」
「よくわかんない」
「………」
名無のにこやかな笑顔に無知は深いため息を吐いて窓の外を眺める。
空はすでに茜色に染まり始め、今日一日の勤めを果たした太陽が今にも地平線の彼方に没しようとしている。
そんな空の背景を背に名無は笑いながら、無知は微妙に渋い顔をしながら揺られていた。
名無という少女は本当に不思議だ、と無知は彼女との話しの間じゅうずっと考えていた。
名無の受け答えは非常にシンプルである。「わかんない」「ふーん」の二つだけ。前者は理解できないとわかるが、後者の方は曖昧で理解しているのかいないのか非常にわかりづらい。
だが適当に受け流しているというわけではなく、聴く姿勢自体は素直な子ではある。
「ねえねえ、無知」
ある程度話し終えた後、名無が無知を見上げて来た。
「無知は何でわかりもしないこと考えてるの?」
「い、いや何でって……そりゃ知りたいから、かな?」
「名無はね。なーんにも知らないんだよ。今まで生きてきたことはあんまり覚えてないし、何で自分がここにいるのかもわからないんだよ。でもね、わたしは無知のこといっぱい知りたいと思ってるんだ。だから、わたし無知とお話ししてるんだよ。わからないから、わかろうとしてるんだよ」
わからないから、わかろうとする。
初めて聞く言葉だった。
今まで自分が考えてきた、いや考えるだけだった無知にとっては人生最大の衝撃だった。
「たぶんねー。みんな何もわからないんだよ。わからないから、わかろうとするために生きてるんだよ。ううん、死んでても同じ。幽霊さんなんかはわからずに死んじゃったから生きてる人のところに出てきたりすると思うな。だからさ、無知も考えてるだけじゃだめだよ。わかろうとしなきゃだめだよ」
この少女はわかっているのだろうか。
自分が一人の人間の世界を壊し、廃墟となったその大地に新らしい何かを形作っていっていることを。
考えることでしか、悩むことでしか何も変えることが出来ないと思い込み、そこから前へ進む道を自ら断ってきた人間の空虚な心を満たしたことに彼女は気づいているのだろうか。
無知は名無の顔を見つめていた。
幼くあどけない、それでいて純粋で濁り一つない双眸。
その双眸が必死に訴えていることがわかり無知の表情には自然と微笑が浮かび上がった。
そして一言。
「ありがとう」
「……うん!」
そのとき不意に車内放送の音声が聞こえてきた。
どうやら無知が降りる駅に着いたらしい。
「……それじゃ降りるな」
無知は電車から降りようとしてゆっくり立ち上がる。
そこで何か思いついたのか足を止めて名無のほうを振り返った。
夕日はすでに沈みきっている。
車内の電灯と駅のホームから入る光だけで名無を視認する。
彼女は足のつかないシートの上にちょこんと座り、嬉しそうにこちらを眺めていた。
「また会えるかな?」
無知の問いに名無は、
「わかんない」
と真っ昼間の太陽を思わせる陽気な笑顔でこたえた。
無知の瞳にはそれが嬉しそうなものと同時に何故か切ないものに映った。
無知は軽く手を振ると電車を降りてホームに足をつける。背後でドアの閉まる気配。
そして電車はゆっくりとだが確実に速度を上げながら、夜の闇へとその巨体を飲み込ませていく。
無知はそれを見送りながら一人感慨にふけていた。
本当のことをわかっている人間なんていなくて、本当はみんなわかろうとして生きている。
死んでいる奴もわかろうとしていて幽霊になる。
つまりわかろうとしないと、わからないままになってしまう。
本当に不思議な女の子であった。太陽のように陽気で、それでいて嵐のように自分の気持ちをぐらつかせる。
そう考えると無知はもっと名無のことが知りたくなり、心の中で固く再開を願った。
そう、いつかまた出会いわかろうとするために。
「わからないから、わかろうとする……か」
無知の言葉は夜のホームに小さく、しかしはっきりと響き渡った。
END