アンガルダへの旅のエピローグ【前】
体力には自信があった。
とはいえ、今回の旅路を想定した鍛錬はしていなかった。
俺はこのことを強く反省して、以後、この数日の間に経験したことを忘れぬよう、今後は更に鍛錬をすることに決めた。
――――それにしても、穏やかな暮らしを求めていたのに、どうしてこうなってしまうんだ。
幼き日、生まれて間もなき日。
強く心に誓った願いを想い、苦笑する。
「グレン少年」
そこへ声を掛けてきたクリストフが、馬車が進む先を指さした。
(やっと着いたのか)
言うまでもないが、辺境都市ハミルトンで過ごした日々の方が長いのに。
どうにも、見えてきたあの町での日々も負けていなかったらしい。胸中によぎった郷愁は、少なくとも勘違いではなさそうだ。
目と鼻の先に近づく港町フォリナーの町並みを見て、心が温められたのを感じる。
「お疲れ様でした。さて、このまま屋敷までお連れした後は、しばしの別れです」
「しばし……?」
「いえ、何でもありません。私は取り急ぎ帝都に戻り、然るべき相手にアンガルダでの一件を伝えねばなりません」
しばしという言葉の真意は気になるが、つづく言葉が遮られてしまう。
「旅人だな。身分が分かる物を提示していただきたい」
フォリナーに着き門番に尋ねられたからだ。
「いいえ、公人です」
「こ、公人だって?」
不可解に思える言葉選びだが、理由は二人が秘密裏に動いていたからだ。
すぐにクリストフが身分証を提示したことで、門番は慌てて姿勢を正す。だが、俺たちが乗っている馬車を見て、やはり不可解に思っているのが分かる表情。
俺たちはそれを見て苛立つことはなく。
むしろ、立派な門番だと頷き合ってから。
「グレン少年も」
「分かってます。――――ごめん、これでいいかな」
二人同時にフードを外し、門番に顔を晒す。
それを見た門番が目に見えて動転した。
「失礼致しました……まさかお二人だとは思いもせず……」
「いえ、構いません」
「しかし、どうしてそのようなお姿で――――」
かたや異名持ちの魔法師団長で。
かたや剣鬼と畏れられる領主の一人息子だ。
秘密裏に動くには身分が高すぎる。
「問題はなさそうですから、私たちはこれで」
答えるわけもないクリストフに食い気味に言われ、門番がすぐに頷いた。
馬が進めば、潮の香りがこれまで以上に鼻孔をくすぐった。
(本当に)
本当に、帰って来たんだ。
俺は昼下がりの賑やかな大通りを見て、深く深く息を吸った。
すぐ傍にいるクリストフに顔を覗かれるも、俺は気にすることなく口を開いて。
「馬鹿みたいに疲れましたね」
我が家が近づいたことで気が緩んだのか、今までにない言葉選びで、ため息交じりに言い放ったのである。
――――実はこの時間に帰れたのは都合が良かった。
一歩、また一歩と近づく屋敷を見て考える。
学園はまだ授業中だろうし、屋敷に着いたらすぐに寝てしまえる。
……別に、アリスを気にしているわけじゃない。本人には絶対に言わないが、アリスはあれで気を遣えるから、疲れた俺にまず休めと言うだろう。
だからこれは、ちょっとした照れ隠しだ。
疲れた姿を見られるのが、地味にこそばゆいだけなんだ。
やがて、遂に屋敷の前にて。
停まった馬車からクリストフが降りて、つづけて俺が降り立った。
そこで大きな欠伸を漏らしてしまう。
「おや、眠そうですね」
「気が抜け過ぎたようです。あんなことがあったばっかりなのに、いけませんね」
「問題ないでしょう。この町にはアルバート殿がいらっしゃいますし、今は私も居ます」
「…………放っておくと騎士に捕まるような父上ですが」
「アルバート殿の強さを知らない騎士だからできたのでしょう。彼が戦う姿を直に見た者ならば、恐れてそれどころではありませんよ」
「そういうもんですかね……」
実際に、父上がどれぐらい強いのか見てみたい。
その機会が来るかどうか。
来ない方が平和なのだろうが、興味は尽きなかった。
「グレン! 何を話し込んでおるのだ!」
すると、早く来いと父上に急かされた。
俺は隣を歩くクリストフを見て、互いに笑い、一足先に進んでいった。
「――――よく帰った! 長旅、ご苦労だったな!」
近づくと、その太い腕に抱き寄せられた。
ただ、今日も今日とて甲冑に身を包んでいるせいか、冷たいし硬いしで感触が悪い。
されど、心は落ち着いていく。
「坊ちゃん、お怪我はありませんか?」
「ないよ。ちょっと火傷したぐらい」
「や、火傷だと? アンガルダで何かあったのではなかろうな?」
ないとは言えず、思わず黙りこくってしまう。
「その胸元にあるのはクリストフの……や、やはり何かあったのだろう!?」
返事に迷っていたところへ、遅れて到着したクリストフ。
彼は俺の頭にぽん、と手を置いて、それから父上に。
「皇帝陛下より先に、アルバート殿に報告を」
「ほう、どういう風の吹き回しだ? クリストフのような男が、よもや皇帝陛下より私を優先するとは思わなんだ」
「考えてみれば、戦友のアルバート殿とゆっくりと会話を楽しむ余裕もなかった。報告の場を用意するのと、共にすれば合理的と考えただけですよ」
「いいだろう。今回ばかりは、素直にその気遣いに感謝する」
「じゃあ、俺は――――」
「グレンは――――」「グレン少年は休みなさい」「――――む?」
二人とも同じことを言おうとしていたようだし、だったら話は早い。
「では遠慮なく。部屋で休んでるので、何かあったら呼んでください」
「坊ちゃん! ご飯は要りませんか?」
「大丈夫。馬車の中でちょっと食べてきたからさ」
こうして、三人に背を向けて屋敷の中へ向かっていく。
背後から何やら声が聞こえた気がするが、もう、眠気の限界が近い。
俺の頭はすでに、ベッドへ向かうことしか考えていなかったのである。
◇ ◇ ◇ ◇
「珍しいではないか。クリストフが他者を気遣う姿を見たのは数えるぐらいしか覚えがないぞ」
グレンが去った後、軽い立ち話がつづいていた。
しかし、クリストフは答えない。
アルバートが口にした言葉には何も言わず、その顔を婆やへ向けたのだ。
「念のため、貴女にも同席をお願いしたい」
「一使用人に、ですか?」
「いいえ。帝剣が次席の貴女に」
「元、をお忘れなく。今の私は皇室に奉公しておりません」
「辞した理由も気になるところですが、細かなことは気にしませんよ。アルバート殿と共に話を聞いてくださればそれで構いません」
「分らんな。どうして婆やに同席を求める」
「気になることがあったので、是非ともご意見を賜わりたく」
怪訝な面持ちを浮かべた二人の前で。
ローブの懐を漁ったクリストフが取り出したのは、砕けた宝石のように見えた。
それを、アルバートに先んじて見つめていた婆やが……。
「…………アンガルダで何があったのか、先に聞かねばなりません」
悟り。
そして、屋敷に入るよう促した。
◇ ◇ ◇ ◇
広い屋敷の中に入り、婆や以外の使用人と軽めに言葉を交わしながら自室を目指す。みんな、俺が疲れ切っているのを一目見て分かってくれたらしく、気を遣って短いやり取りに留めていてくれた。
「ねむ」
ぼそっと、階段を上りながら呟く。
久しぶりの柔らかい絨毯の感触に加え、開かれた窓から届く柔らかな風と、強すぎない日光もあって眠気が駆り立てられていく。
眠すぎてどうにかなってしまいそうだった。
部屋に入ったらこのままベッドに倒れ込みたい。
…………もう夏だなぁ。
…………空が今までと違う気がする。
呑気に、半ば惚けたままに心の内で呟く。
もう少し上に行けば自室の目の前だ。
着替えらや何やらが入った鞄を持つ手から力が抜けていくが、僅かに残った握力を頼りに、凶悪な眠気に逆らいながら階段を上がると。
「私、決めてるんです」
その声を聞いて、身体に僅かに残されていた緊張がすっと消えていく。
「決めてるって、何を?」
「グレン君が帰ってきたらどうじゃれつくかって感じですね」
「真面目な顔をして何を言ってるのかしらね……」
「ミ、ミスティ! 私はこれでも本気ですからね! その時が来たら刮目することになりますよ――――って!? グレン君ッ!?」
ここは俺の部屋の下の階、アリスの部屋がある階層の踊り場だ。
そこから、アリスとミスティが下りてくる途中だった。
二人とも制服姿だが、どうしてこんな時間に屋敷に居るのだろう。
また、今日に限ってはツッコミを入れる元気がない。
「こ、こほん! びっくりしちゃいました……おかえりなさい!」
「――――おかえりなさい。早く帰って来てくれて嬉しいけど、怪我はない?」
最初は驚いていたアリスも。
すぐに微笑みを浮かべて言ったミスティも。
二人は同時に、俺の近くに進んで鞄を取った。
「ただいま。怪我はまぁ……何ともないけど、学校は?」
他に言うことも、尋ねることもあった……気がしないでもない。
しかし、俺に考える余裕があるかどうかは別だ。
「今日は午前中で終わりだったんです。ぶー……グレン君が帰ってくるってわかってたら、色々と準備してたのに」
「無理を言わないの。事情が事情だったんだから、グレンだって分からなかったはずよ」
「ですねー……。それに、見ての通りお疲れのようですし」
「別に俺は――――あと、鞄も自分で持てるって」
「こういうときに甘えない方が、逆に罰が当たるかもって思いません?」
「いいから私たちに任せて。さぁ、行きましょ」
前を進む二人は鞄を手にしてまま、見惚れそうになる笑みを向けてから更に階段を上っていく。
俺はと言えば、今日は素直に甘えることにした。
(良く分かんないけど、余計に眠くなってきた気がする)
両手に自由が戻ったから楽になったから?
ベッドが近づいたと思ってもっと気が抜けたから?
…………多分、このどちらでもない。
「グレン君、グレン君。お部屋、先に入ってもいいですか?」
「ああ、ごめん。助かる」
部屋の前で答えると、アリスが先に部屋の中へ。
眠気の限界が近い俺の身体がふらっと揺れれば。
「ほーら、もうちょっとだけ頑張って」
「…………今日の姿は忘れてくれると助かるかもしれない」
「そう? 別に気にしなくてもいいのに」
そっと手を添えたミスティに身体を支えられた。
――――ああ、きっとこの二人が理由なんだ。
居心地の良さは自覚していたが、自覚していた以上にこの空間に愛着を覚えていた。
多分、そういうことなのだろう。
傍から見れば、この二人に親身になってもらえることは贅沢なことこの上ない。俺だってそんなことは重々承知だ。
願っていたスローライフは得られていないけど、心が温かな何かに満たされているのは間違いなかった。
「それにしても、少し大人っぽくなりましたね」
と、寝室に向かいながら振り向いたアリスが言う。
「ミスティもそう思いません?」
「ふふっ、実はちょっとだけ」
「ですよね! むむ……そうなると気になりますね、何がグレン君を大人にしちゃったんです?」
「言い方に悪意を感じるけど、理由に心当たりはあるよ」
寝室へつづく扉を開け、目の前に近づいたベッドを見ただけで瞼が重くなる。
「はえ!?」
「…………な、何かあったの?」
興味津々に聞いてくれる二人の足がベッドの前で止まった。
二人はそのまま鞄を床に置いて、俺の心当たりを気にしていた。
「――――二人より、何日か余計に生活してるからね」
実際には遡っていたから計算外かもしれないが、数日の誤差を確かめるすべはない。でも、精神的に経験したことは変わらないから、それが影響したとでもしておこう。
合点がいっていない二人だったが、説明は後だ。
クリストフか、父上から教えてもらえるだろうから、説明は任せておきたい。
「というわけで、眠い。馬鹿みたいに眠い」
若干、足元がふらついてきた。
二人に挟まれて身体を支えられるという、それはもう情けない姿を晒してしまっている。
回復したら、絶対に厳しい鍛錬を積もうと決心させられた瞬間だ。
「ふふん。膝枕とかでもいかがです? あれでしたら、ミスティと交代でとか!」
「いいね」
「あしらわれるのは分かってますけ――――いいんですか? 私、ほんとにやっちゃいますよ? 言質取りましたからね?」
「かっ……勝手に私を入れないのっ!」
「ダメなんです?」
「そういうことじゃなくて……分かるでしょっ! もうっ!」
二人の声を聞きながら。
考える力が弱まってきたせいか、アリスの提案が悪くない気がして不思議だ。
想像してみたら、思いのほか寝心地が良さそうに思えただけだから、それだけだ。そう、それだけであると言いわけしておきたい。
ミスティには不敬罪を適用しないようにと、先に頼むべきだろう。
…………が、残念だ。
本格的に限界らしい。
俺の身体がふらっとベッドに倒れる。
それは、支えていてくれた二人を巻き添えにして。
「な、なるほど……添い寝の方が良かった感じでしたか……っ!」
「あの、あのあの……グ、グレン? そんなに疲れちゃったの……?」
「…………ごめ…………もう限界…………」
左右の耳に届く二人の声に対してできたことは、限界と伝えることと謝罪をするだけ。
同じく鼻孔をくすぐる華の香りと甘い香りに包み込まれ、俺の意識は、抵抗むなしくあっという間に手放される。
でも、最後に聞こえた気がする。
仕方ないですね、という声と。
今日だけだからね、という声が。
今日もアクセスありがとうございました。




