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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説たち

      につまった彼女

作者: 津久美 とら

この小説は 『スープ豚(1987年)/ミヒャエル・ゾーヴァ』 より着想を得て執筆しています。



 美沙はよく絵を描いている。趣味というわけではないらしい。

 以前絵を描く理由を訊いたことがあった。


「ただ何となく描いているだけよ、あなたの鼻歌と一緒」


 事も無げに言われたが、皿洗いの鼻歌と、重厚な油絵を同一視されるのは正直、理解が追い付かない。


 美沙はかれこれ一ヶ月、キャンバスに向かっている。

 平日仕事から帰って来たと思ったら、着替えもせずメイクも落とさず、筆を握る。休日は目が覚めたら着の身着のまま、筆を握る。


 僕は全身に画溶液のにおいを滲み込ませて生きている。

 部屋の中はおろか、アパートの廊下にまで画溶液のにおいが漂っていた。そのうちにご近所さんから苦情が来るのではないかとひやひやしているのは、どうやら僕だけのようだ。


「ただ絵を描いているだけよ。どうして赤の他人に文句を言われなくちゃいけないのかしら」


 せめて、においの少ないオドレスぺトロールにならないものかと具申したが、そうすると描きにくくなる上、仕上がりが変わってしまうのだと怒られた。


「それ。そこにあるのがオドレスを使った絵。あっちがぺトロール。これはテレピン。ね、全然違うでしょう」


 僕には仕上がりの違いは分からない。それでも、彼女が違うというなら違うのだろう。

 オドレスを使用した絵だけに、真っ赤な絵の具で大きなバツ印が書かれていた。




 美沙が僕のそばで最初に描き上げた絵は、スープ皿に花が一輪浮いている絵だった。


 彼女はゾーヴァを異常なほどに偏愛している。


 次は花の数が何十輪にも増え、スープ皿から花もスープも零れてしまっている絵。

 その次はスープ皿の上に彼女の友人が浮いていた。彼女はその絵を、若くして病で亡くなった友人へ奉げるものだと言った。

 訃報を聞いて次の日に描きあげたそれは、完成を優先させるために水彩絵の具を溶かずに描かれたものだ。天国へその 絵を持って行った友人は、何を感じただろう。


 そのあとしばらく、彼女はスープ皿を描くことはなかった。

 近所の風景や静物を何枚も何枚も描いては、ナイフでキャンバスを裂いてしまう。


「スランプなんかじゃないわ」


 こういうものを描いていると、まるで絵の中のものは生きていて、私が死んでいるみたいに思えてくるのよ。


 普通は逆だと僕は思う。

 けれども美沙は幾度も風景や静物を描いては捨てていった。泣いている美沙を見るのは、その瞬間だけだ。

 映画を観ても本を読んでも彼女は泣かなかった。友人の葬儀でさえも、背筋を伸ばし、凛として遺影を見つめていた。

 それが彼女の追悼の形だと思ったし、生きていく強さだと思った。

 美沙は強い女性なのだ。




 今、美沙は二枚のスープ皿を同時並行で描いている。

 皿の横には一輪挿しやカトラリー、ナフキンが、二枚の絵を並べたときにシンメトリーになるよう描かれていた。

 スープの中にはまだ何も浮いていない。




「ねえ見て。渾身の出来だと思うの」


 一週間ほど経った日、こちらが眩しくなるほどの笑顔で、彼女は僕に出来上がった二枚の油絵を見せてくれた。

 左のスープ皿の中央には、薬指に銀色の指輪を嵌めた、筋張った左手だけが浮いている。

 右のスープ皿には白いドレスを着た女性が、幸せそうに微笑みながら浮いていた。女性はどことなく美沙に似ている。

 それが彼女のプロポーズの形だと思ったし、僕の今後の人生だと思った。

 美沙は弱い女性なのだ。




 翌日の夕方、ドレスを着た美沙は、正しくあの絵のように微笑んでいた。

 シティホテルの最上階。その一室のバスルーム。

 美沙は赤いスープと共に、一人で入るには広すぎるそのスープ皿に浮かんでいた。

 白いはずのドレスは、スープがたっぷりしみ込んで薄赤色に染まっている。

 銀色の指輪が嵌められた左手。その手首はスープの素を出すために、ナイフで深く切り込みが入っていた。

 彼女は幸せそうに微笑んでいた。




「あなたの鼻歌と一緒」


 美沙がそう言って油絵を描くことはもう無い。

 僕は全身に美沙というスープを滲み込ませて生きている。




 彼女は、         につまっていたのだ。





正解も幸福も、かたちは人それぞれですよね。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 耽美的──というか病的な、ダークな雰囲気がかなり好みです。 [気になる点] >彼女は、         につまっていたのだ。 ラストの↑この部分ですが、 『彼女は煮詰まっていた』の意味では…
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