変態と覗き
「で、今日は何しに呼び出した訳?」
三度、大木の下で対峙するソクラテスとドルト青年。
「ええ、昨日の答えを考えてきました、なぜあなたとお付き合いしたいのか」
「どうぞ?」
「はい。今日は……一つ思い出したことがあったんです」
「思い出したこと?」
「ええ。初め、あなたとつきあって何をしたいのかを一生懸命考えていました。でもそうするうちに考えるべきことが違うと思いました。まず考えなくてはならないのは、僕はそもそもなぜあなたを……好きになったのか、だと思いました。変ですよね、今まで考えもしなかった。今更だと思われるかもしれませんが僕はそれを……考えました。そうしたら、思い出したんです。いったい、今までどうして忘れていたのか不思議でならない。頭の中にかかっていた靄が晴れたように記憶が蘇りました」
話すドルトの口調は平静だったが、そのじっと空中の一点を見つめる様子から話に夢中になっているのがわかる。
「聞かせてもらおうじゃない」
「ええ。……僕は昔、あなたに会っていますよね」
「……へえ。覚えてたんだ」
感心したように言うソクラテス。
「やっぱり。いえ、おぼろげな記憶でしかありませんが。ただ僕はその頃、ひどく自己中心的で誰も信じず、まわりに八つ当たりしてばかりのどうしようもない子供だったと思うんですが、当たってますか?」
そう言って、おそるおそる彼女を見るドルトに、手をひらひらと振ってソクラテスは答えた。
「当たってる当たってる。手が付けられなかったわ」
「申し訳ないことです。でもそんな僕に、教えてくれたのがあなただったのだと思うのです」
真剣な表情を崩さないドルト。
「…………何を教えたって?」
「考えることを、です。僕はただ世界が敵意に満ちたものであると勘違いして、自分を守ろうと他者を攻撃し続けた。愚かでした。でもそんな僕に、あなたは正面からぶつかってくれた。僕はあのときもあなたに……殴られたのですね」
「そうね」
短く答えるソクラテス。
「僕はあなたに打たれて、ようやく気づくことができたのです。自分は誰かを理解しようとしたことがなかったことを。ただ遠ざけようとしただけだった。敵意を向けられることがあったとしてもそれは当然だったでしょう。僕こそ敵意を向けて憚らなかったのですから。親のいない子供、そんなことが言い訳になるとは思いませんが、体ばかり大きくなって何もわかっていなかった愚かな僕に、初めてそれを教えてくれたのが、まだ幼い頃のあなただった」
「……」
「あなたは教えてくれた。僕を殴りとばしてくれた。それはもう、思いっきり。何年も眠り続けてしまうくらいの、強烈な一撃でした」
苦笑する青年。
「……それで?」
ソクラテスは笑わない。
「僕は成長しました。最近再び眠りから覚めたばかりで、見た目のわりに中身は幼いかもしれません。でもこれからもっと成長できます。目が覚めたらまず、あなたに会いたかった。僕はあなたにあの時の恩返しをしたいのです」
「恩返し? 恩返しって……何?」
ソクラテスは鋭く言った。青年の顔に戸惑いが浮かぶ。
「あなたに何ができるの?」
ソクラテスは体の正面を青年に向けた。青年は慌てて答える。
「考えます! まだわかりませんが、僕はもう、昔とは違う。自分の中の攻撃性を押さえ込むことを覚えました」
「攻撃性を押さえ込む?」
ソクラテスがわずかに眉をよせた。
「ええ。もうあの、暴れん坊だった子供ではありません。ほら、僕はこうして落ち着いてあなたと話をすることができている。あなたといると落ち着くのです。お願いです。僕を……支えて欲しい」
「やれやれ、勘違いな上に……とんだ甘えん坊ね」
ソクラテスは拳を構えた。
「そうです! でもいつか僕だってあなたを支えられるようになる。なろうと思っています。僕はまだたぶん、たくさん間違えるでしょう。間違えるたびに殴ってください。あなたに殴られた分だけ、僕は成長できるんです! あなたに殴られることこそ、僕の喜びなんです!」
*
「……うーん、見上げた変態だわ」
「何してるの? バタイユちゃん」
大木の広場から、校舎をややそれた方向に少し入った雑木林の草むら。そこにやってきたエピクロスは、草むらに身を潜め、双眼鏡と集音マイクを装備している現代クラスのバタイユを見つけた。
「おわっ。だ、誰? あ、あんた、えっと……たしか古代クラスの……」
「エピクロスだよー」
「だっけ。そっちこそ、のぞきをしてる人間をのぞくなんてやるわね」
寝そべった姿勢で長い脚を艶かしく交差するバタイユ。
「別にバタイユちゃんを見てた訳じゃないよ」
「あらそう。じゃああの二人? ……まぁ、お互い人に理解されない趣味だけど、頑張りましょう」
ガシッと手を握って、再び双眼鏡をかまえるバタイユ。
「えっと、バタイユちゃん。あたしべつに覗きが趣味な訳じゃないよ? 今回は飛ばされる方向をよく見とこうと思って来ただけ。覗きはアリスの趣味」
「失礼なことを言わないで下さい。私だってそんな趣味はありません」
そう言って同じように匍匐前進しながら草むらから這い出てきた女生徒を見て、バタイユは口元をゆがめた。
「へええ。こりゃ驚いた。古代クラスの優等生が素晴らしい趣味をお持ちじゃん?」
「趣味ではないと言っているでしょう。あなたと一緒にしないでください」
「何を言うの。覗きは履歴書に書ける立派な趣味よ。観察対象に影響を及ぼさないところが素晴らしいわよねってうちのクラスのハイゼンベルクに言ってみたら軽蔑の眼差しで案外気づかれてるものよって言われたけど」
「同情します」
……ハイゼンベルクさんに、とアリスは心で付け加える。
「でも誤解しないでよね、私だって別にのぞきは趣味じゃないの。よそのカップルがいちゃつこうが何しようが興味はないんだけど、それがまさかあのソクラテスとは思わないじゃない? そういうのに縁がない奴だと思っていたのよ……そういうの、ゾクゾクしちゃう」
「バタイユちゃんよだれ拭いたほうがいいよ」
エピクロスの言葉にバタイユはよだれをその長い舌でなめとる。
「アリストテレスも聞いてみる? あの男、かなりのMよ」
バタイユが差し出した集音マイクに繋がるイヤホンの片方を、アリスは首を横に振って断った。
「私はただ、どんな男性か興味があっただけです。ソクラテスにわりと強めに殴られてピンピンしてる人間というのも珍しいですし……。でもこうして見る限り、とてもそんなタフな身体の持ち主には見えませんね」
「え? 何してんのあの子たち? ずいぶんハードなつきあい方してるのねぃ。しっかしあの優男が? 意外。ソクラテスの馬鹿力と張り合えるのなんて、孫子とかニーチェくらいのものだと思ってたけど」
アリストテレスは頷く。
「いえ、ソクラテスが本気を出したら学園の誰も相手にはならないでしょう」
その言葉にバタイユは口元をひきつらせながら言った。
「ちょっとあんた、ニーチェの強さを知らないでいい加減なこと言わないで。あんなイノシシ娘とは訳が違うのよ。一人で世界と対峙する強さが他の誰にあるっての」
「イノシシ娘? あなたこそソクラテスを知らないです。あの人には覚悟があるんです。だからこそ何も恐れず、逃げもしません。死も、神も。ムキになって神を否定する弱さなんてあの人には無いんです」
「無自覚で幸せなことね。無知の知が聞いて呆れるわ。他人に質問してばかりじゃない。所詮群れて生きることしかできない人間。ニーチェとは格が違うわ」
アリスががばっと上半身を起こした。バタイユもイヤホンを外して視線をぶつける。にらみ合う二人。
だが。
「ニーチェちゃんって一人カラオケとか一人焼き肉とか平気そうだよね」
エピクロスの言った一言は、二人の纏った険悪な空気に深刻な空気漏れを起こさせた。
「エ、エピクロス……」
「何、あんたもニーチェをバカにしてんの?」
バタイユににらまれて首を小刻みに振るエピクロス。
「ち、違うよー。尊敬してるんだもん。あたし、やりたいと思ってるけど勇気ないし」
「あんたねぇ………まぁ……いいわ、なんか気が抜けた」
その時。
ゴッという鈍い、しかし大きな音がした。ついで、三人の右後方の雑木林の枝葉が激しく叩かれる。がさがさという音の移動から、何かが上昇しながら雑木林を突き抜けたのがわかった。……要するに、ドルトがどっか飛んでった音である。
三人がそっちの方向に目をやると、遠くの空にゴルフボールさながらに人が小さくなっていくのが見えた。
「また同じ結末みたいですね」
「え? 何……今の」
「すごーい、これまでで一番飛んでるよー」
アリストテレスはため息をつき、バタイユは何が起こったのかわからず二人に尋ねた。エピクロスはずれた感想をもらしながら腰を起こし、人影が飛んでいった方向に中腰のまま走って行ってしまった。
「何? 何なの今の? 過激な愛情表現にもほどがあるんじゃないの?」